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北一輝による「象徴天皇制」の先取り

壺斎散人氏による北一輝の「日本改造法案大綱」の解説である。
私もウィキペディアにあるそれを読んだことがあると思うが、漠然とした理解にとどまっており、こうした解説は役に立つ。
私が北一輝に一番親和力を感じるのは天皇の位置付けである。あの、天皇神格化の時代に、現在の「象徴天皇制」(下の引用文での「国家の代表」とは、まさにそれである。)に等しい「権力ではなく権威的存在」の位置付けをしたのは慧眼だと思う。これこそまさに歴史的に見た、天皇本来の在り方だからだ。ただし、危機の時には「天皇大権」を持っている、というところが「政治的装置としての天皇」の特色、あるいは強力な可能性なのである。そして、「自分は国家の代表である」という意識が、天皇を天皇らしい人格へと作るのであり、それこそが「天皇という制度」の最大のメリットであるのだ。

大日本帝国憲法と根本的に異なるのは、天皇を国家の主権者として位置づけるのではなく、国家の代表としているところである。つまり天皇は国家の構成員としては国民と同じ位置づけなわけである。

(以下引用)


北一輝「日本改造法案大綱」




北一輝の著作といえば、23歳のときに書いた「国体論及び純正社会主義」と大正八年36歳のときに書いた「日本改造法案大綱(原題は"国家改造案原理大綱"」が双璧である。前者は1000ページに及ぶ大著であり、北の思想を理解するには必読とされるが、なにせ大部の本にありがちな散漫なところが目だち、読了するのが苦痛だとされるのであるが(筆者は未読)、後者は題名から類推できるようにプロパガンダ風の綱領文書なので、読了するのに時間はかからないが、その主張の背景が丁寧に説明されているわけではないので、これを読んだだけでは、北の思想の要諦はかならずしも理解できないかもしれない。にもかかわらずこの著作は非常な反響を呼んだのであって、日本の国家社会主義思想(日本型ファシズム)を論じるには、外すことができない。

北はこの本を大正八年に上海で書き上げた。その折の題名は前述の通り「国家改造案原理大綱」である。北はその原稿を大川周明に託して日本で刊行しようとしたらしいが、官憲による頒布禁止処分を受けて断念した。その後大正12年に、一部を修正し、「日本改造法案大綱」と題して出版した。その本にも検閲の跡が「何行削除」と言う形で及んでいるが、それらは天皇はじめ統治機関にかかわるものが主で、その部分の行間を何等かの形で補えば、北が何を主張しているか、大意は理解できる。なお、初稿を謄写刷りにしたものが一部に出回り、それなりの反響を惹き起こしたといわれる。若き日の岸信介も、その謄写刷りの版を読んで大いに影響された者の一人である。
この本を本当に理解する為には、北一輝の思想の全体像を理解しておく必要があると思うが、ここではとりあえず、この本から読み取れる文意をもとに、彼の言いたかったことを取り上げてみるにとどめたい。

北がこの綱領的文書の中で主張していることの基本的内容は、「緒言」にもあるとおり、「全日本国民の大同団結を以て、終に天皇大権の発動を要請し、天皇を奉じて速やかに国家改造の根基を全う」することである。この考え方を踏まえ、綱領の第一章第一条に相当する部分は、「大権の発動によりて三年間憲法を停止し両院を解散し全国に戒厳令を敷く」とされていた(この部分は検閲によって削除)。

要するにクーデターを通じて現行の統治システムを停止し、あらたな国づくりをしようということである。その国づくりは天皇の大権を奉じることによって実行される。つまり、天皇みずからが国家改造の形式的な主体となるわけである。これを政治学の用語で「自己クーデター」というが、北の場合には、天皇を形式的に奉じてはいても、実質的には自分たちで権力を独占している勢力を駆逐して、新たな政治勢力が名実共に天皇中心の新たな国を作ろうと言っているところが面白い。そのクーデターを担うべき新たな政治勢力の実態はいまひとつあきらかでないのだが、それは今現在権力を握っている勢力を倒すことが出来れば誰でもよいということのようである。北はとりあえず、現役の軍人や在郷軍人会に大きな期待をかけているようであるが、それは、この人々が大資本や大地主のような経済的な利害関係に縛られていないと考えたからだと思われる。

綱領(法案)の構成が天皇についての規定から始まっているのは、大日本帝国憲法と同じである。大日本帝国憲法と根本的に異なるのは、天皇を国家の主権者として位置づけるのではなく、国家の代表としているところである。つまり天皇は国家の構成員としては国民と同じ位置づけなわけである。この書物の中で一番伏字が多いのは天皇に関する部分であるが、それも無理はない。北の主張は、天皇制権力に対する重大な挑戦と受け取られてしかるべきところがある。

国民は天皇に対して、ある意味平等に近い立場に立つわけだが。国民相互の間では、平等はもっと徹底される。華族制の廃止や普通選挙の規程がそれをあらわしている。また北は、私有財産の制約についてかなりマニアックに記述しているが、これも国民の間での平等を担保する為の方策と考えられる。しかし、財産の全面的な国有とか共有とか言うことは幼稚な社会主義的思想として拒絶している。人は一定の財産が保証されてこそ、自立的な国民たりうると考えるからだ。その辺は自身が中産階層の出自であった北の皮膚感覚ともいうべきものが働いているところだろう。

国家と国民との関係は、国家による国民の庇護というイメージで貫かれている。国家は自ら大資本・大地主となり、その収益を財源にして国民を庇護すべき財政的な裏づけとする。また国家は労使関係に介入し、資本が労働者を抑圧することのないよう目を配る。同じようにして借地農業者(小作人)の権利も保護される。婦人や児童もまたそれぞれの局面において国家によって丁寧に庇護される。国民にして他の国民の権利自由を侵害したものには厳罰が課せられる。

一方国民は国家に対して様々な義務を負うわけであるが、北の面白いところは、国民の義務を強調することで国権を反射的に強化するにとどまらず、国家の国民に対する権利を積極的に主張するところである。徴兵制の権利および開戦の積極的権利がその中心であるが、これらは何も国家の権利として規定しなくとも成り立つはずのものである。それをわざわざ国家の権利として規定するところが北の国家主義者としての面目に属するのだろう。

内政にかかわる部分と並んで対外政策の要諦についても、わざわざ一章を割いて言及している。北の対外政策の特徴は、積極的膨張主義ともいうべきもので、日本が膨張して行く先として、朝鮮半島はもとより、満州、東シベリアにも及ぶ。さすがに中国大陸を領有しようとまでは言わないが、オーストラリアは日本の領土とすべきだと主張する。対外膨張は20世紀のファシズムに共通する特徴だと言われるが、北にもその特徴がよく現れているわけである。

日本の対外膨張は国際的な緊張をもたらすことになる。そこで北は、対英米戦争の可能性を論じたり、それにロシアが付け込んで日本の大陸権益を掠め取ろうとするかもしれぬと心配してみたりした挙句、日本は米英露支の四カ国とゆくゆく対決する運命にあるというようなことを言う。結局そうなってしまったことは、歴史の物語るとおりである。

こんな風に整理してみると、北は内政面で国家中心主義的な政策を主張する一方、対外的には積極的膨張主義を主張したということになる。この二つの特徴は、20世紀のファシズムに共通するものであるから、我々が北を日本型ファシムズの思想家と呼ぶには十分な理由があるということになろう。

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