「東海アマ」さんは「反原発」の闘士であると同時に、「反・死刑制度」思想の持ち主であり、「性的自由主義者」でもあるようで、「反原発」での彼の筋金入りの発言に惚れ込んで、彼のツィートをフォローしていた人々が、彼の「反・死刑制度」や「性的自由主義」の面に驚き、あるいは嫌悪を感じて離れていく例が多いようだ。
私自身は、「東海アマ」ツィッターを、情報源としてしばしば利用させて貰ってはいるが、当人にはあまりお近づきにはなりたいとは思わない。まあ、私は「死刑制度賛成論者」であり、「性的封建主義者(絶対的一夫一婦制主義者・不倫絶対反対論者・偕老同穴主義者)」だから、向こうから交際を断るだろうが。
さて、今日、問題としたいのは東海アマ氏の下記発言である。
この「君」と言われているのは「死刑制度賛成論者」の誰かだと思うが、果たして「死刑制度賛成論者」は「反原発」であることと矛盾するだろうか。
私が、悪人には人権は無い、という思想の持ち主であることは前にも書いたと思うが、もっと明確に言えば、「悪人は積極的に殺すべきである」と思っている。それによって無数の命が助かるからだ。(誰がその判断を下すのかという問題、現実に法的手続き以外で悪人を殺すことが可能かどうかという問題は棚上げにしての話だ)
こういうような「命の問題を数の問題にする」のは、私の大嫌いな「ハーバード白熱授業」のサンデル教授の「正義論」みたいで厭なのだが、しかし、「悪人の命」と「善人の命」とどちらが大事か、と言えば、それは善人の命に決まっている、と私は思う。
もちろん、何が善で何が悪かというとまた面倒な議論になるのだが、簡単に言えば、「他人に害を及ぼすのが悪で、他人に福利をもたらすのが善である」というだけのことだ。ならば、石原、橋下、前原、経団連要人らが悪人であるのは明瞭だし、ユダ金が悪であるのはなおさら明瞭だろう。(私は、彼ら全員がこの世から消滅すれば、この世界は大きく改善されると考えている)そして、庶民のほとんどは善人だが、ヤクザや暴力団が悪であるのも明らかだ。権力の下部組織、つまり警察や検察は、それ自体は善でも悪でもないが、権力のために、あるいは身うちや組織自体のために悪を行うこともあるわけだ。
さて、本題の「死刑制度賛成論者」と「反原発」は矛盾するかどうかだが、私は、まったく矛盾しないと考えている。
それは、人間の命の価値には上下がある、と私は考えるからだ。原発で被害を受けるのは原発近隣のすべての人間だ。だが、死刑で失われるのは、凶悪犯罪者の命である。それを平等視すること自体が異常だと私は思う。
もちろん、神の目から見れば、どの命も同じかもしれないし、あるいは人の命も昆虫の命も、同じかもしれない。だが、我々は人間社会で生きる人間にすぎない。その社会を改善していくためには、悪を減らし、善を増す努力をするしかないのである。
死刑制度は、悪を減らす努力の一つの形であり、「冤罪」に最大限の注意を払い、明らかな凶悪犯だけを死刑にするのならば、まったく問題は無い、と私は考えている。もちろん、社会に経済的余裕があれば、死刑制度を廃止し、「懲役200年」という温情を凶悪犯に与えてもいいだろうが、生活保護も受けられない貧困家庭が無数にある中で、凶悪犯罪者に屋根のある住居と三食を与えるのも「不正義」のようにも思う。
要するに、東海アマ氏の考えは命に関する「悪平等」思想のように私は思うわけである。
もう一度言うが、悪人などこの世から消滅するのが他の人々の幸福なのである。
悪人が社会の上位にはびこるから、今の日本の惨状ももたらされているのではないか。
(以下引用)
1. 私のニセモノに注意@tokaiama
@bnr32love 君は絶対に反原発ではないと断言する。原発に反対する理由は命を大切にする思想だからだ。人殺しをしてはいけないという無条件の思想だ。君にはそれが皆無だから、今は口先だけで反原発を言ってもいずれ原発に賛成するだろう
私自身は、「東海アマ」ツィッターを、情報源としてしばしば利用させて貰ってはいるが、当人にはあまりお近づきにはなりたいとは思わない。まあ、私は「死刑制度賛成論者」であり、「性的封建主義者(絶対的一夫一婦制主義者・不倫絶対反対論者・偕老同穴主義者)」だから、向こうから交際を断るだろうが。
さて、今日、問題としたいのは東海アマ氏の下記発言である。
この「君」と言われているのは「死刑制度賛成論者」の誰かだと思うが、果たして「死刑制度賛成論者」は「反原発」であることと矛盾するだろうか。
私が、悪人には人権は無い、という思想の持ち主であることは前にも書いたと思うが、もっと明確に言えば、「悪人は積極的に殺すべきである」と思っている。それによって無数の命が助かるからだ。(誰がその判断を下すのかという問題、現実に法的手続き以外で悪人を殺すことが可能かどうかという問題は棚上げにしての話だ)
こういうような「命の問題を数の問題にする」のは、私の大嫌いな「ハーバード白熱授業」のサンデル教授の「正義論」みたいで厭なのだが、しかし、「悪人の命」と「善人の命」とどちらが大事か、と言えば、それは善人の命に決まっている、と私は思う。
もちろん、何が善で何が悪かというとまた面倒な議論になるのだが、簡単に言えば、「他人に害を及ぼすのが悪で、他人に福利をもたらすのが善である」というだけのことだ。ならば、石原、橋下、前原、経団連要人らが悪人であるのは明瞭だし、ユダ金が悪であるのはなおさら明瞭だろう。(私は、彼ら全員がこの世から消滅すれば、この世界は大きく改善されると考えている)そして、庶民のほとんどは善人だが、ヤクザや暴力団が悪であるのも明らかだ。権力の下部組織、つまり警察や検察は、それ自体は善でも悪でもないが、権力のために、あるいは身うちや組織自体のために悪を行うこともあるわけだ。
さて、本題の「死刑制度賛成論者」と「反原発」は矛盾するかどうかだが、私は、まったく矛盾しないと考えている。
それは、人間の命の価値には上下がある、と私は考えるからだ。原発で被害を受けるのは原発近隣のすべての人間だ。だが、死刑で失われるのは、凶悪犯罪者の命である。それを平等視すること自体が異常だと私は思う。
もちろん、神の目から見れば、どの命も同じかもしれないし、あるいは人の命も昆虫の命も、同じかもしれない。だが、我々は人間社会で生きる人間にすぎない。その社会を改善していくためには、悪を減らし、善を増す努力をするしかないのである。
死刑制度は、悪を減らす努力の一つの形であり、「冤罪」に最大限の注意を払い、明らかな凶悪犯だけを死刑にするのならば、まったく問題は無い、と私は考えている。もちろん、社会に経済的余裕があれば、死刑制度を廃止し、「懲役200年」という温情を凶悪犯に与えてもいいだろうが、生活保護も受けられない貧困家庭が無数にある中で、凶悪犯罪者に屋根のある住居と三食を与えるのも「不正義」のようにも思う。
要するに、東海アマ氏の考えは命に関する「悪平等」思想のように私は思うわけである。
もう一度言うが、悪人などこの世から消滅するのが他の人々の幸福なのである。
悪人が社会の上位にはびこるから、今の日本の惨状ももたらされているのではないか。
(以下引用)
1. 私のニセモノに注意@tokaiama
@bnr32love 君は絶対に反原発ではないと断言する。原発に反対する理由は命を大切にする思想だからだ。人殺しをしてはいけないという無条件の思想だ。君にはそれが皆無だから、今は口先だけで反原発を言ってもいずれ原発に賛成するだろう
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