「福島民報」から転載。記事の存在は「東海アマ」ツィッターで知った。
「小さな親切、大きなお世話」という言葉が昔流行ったが、この「高齢老人をあちこち引きずり廻して死亡させた」件は、まさしく「小さな親切、大きなお世話」の好例だろう。何しろ、「88人のうち4割を超える36人が1年半で死んだ」のだから、これは「引きずり廻し」が死亡の主な原因であることは明白だ、と言ってよい。
まあ、私は高齢老人は自然死するのに任せるのが良い、という意見の持ち主であり、老人が死ぬのは当たり前、とも思っているからこの件で当局を批判するような偽善的なことは言いたくはないが、しかし、これらの死の原因が東電にあることは明らかなのだから、遺族にはぜひ東電に対する損害賠償の訴訟を起こしてもらいたい。もっとも、その賠償金は「電力料金値上げ」で、東電支配下の地域住民全員の負担になるのだが。(笑)
しかし、1年半で4割以上が死亡、というのは凄い数字である。
これでは助けるための行為というより、殺すための行為だったと言われても仕方がないだろう。
高齢老人はガラス製品のようにフラジャイルだから、「取扱注意」であると、当局は知っているのだろうか。だいいち、「放射能」の被害は高齢者にはほとんど影響は無いはずだ。これは後で役所の責任を問われないために、無意味(いや、有害)な搬送行為をした、という、ある種の「公務員犯罪」でもある。
(以下引用)
原発関連死 長期避難 死期早める 高齢者施設せんだん(双葉)36人死亡 体調悪化、心労重なり
東京電力福島第一原発事故の避難で、死者数が平常時を大きく上回った浜通りなどの34高齢者施設のうち双葉町の高齢者施設「せんだん」では、利用者88人の4割超に当たる36人が1年半余りで亡くなっていた。「せんだん」は第一原発から約3.5キロ。切迫した状況下、利用者は5ルートに散り散りになり、約半年で18人が死亡した。一度悪化した体調は回復せず多くの人がその後も死期を早めた。弱者が犠牲になる「原発事故関連死」がなくなる日は見通せない。
第一原発1号機で水素爆発が起きた平成23年3月12日。施設関係者によると、緊急避難したのは老人ホームの入所者67人、併設するグループホームの9人、ショートステイ8人、デイサービス1人、町社会福祉協議会から介助を依頼された在宅の要介護者3人の合わせて88人だった。
明確な指示がないまま5グループに分かれた88人は当初、受け入れ先が決まらず転々とした。疲労や心労、体育館や公共施設などの寒さ、不慣れな固く冷たい食べ物、薬の不足など急激な環境変化で持病を悪化させ、衰弱も進んだ。このため19日までに別の高齢者施設、病院、近親者宅に振り分けられた。
88人のうち67人が福島市、伊達市、会津美里町、栃木県の16施設に移った。このうち28人が、病気や体調を悪化させて死亡した。8人は福島市、郡山市、二本松市、栃木県の病院に入院し、3人が死亡した。家族に引き取られた13人のうち5人も死亡した。
亡くなった36人(女性25人、男性11人)のうち、避難から約半年で亡くなったのは半数の18人。さらに昨年12月までに18人が死亡している。死因の多くは肺炎や老衰などだったという。
避難から8カ月後、埼玉県の病院で亡くなった双葉町の102歳の女性は避難前は食事も排せつも自立し、日常生活に大きな支障はなかった。しかし、避難後、肺炎と心筋梗塞を患い、一時は回復したものの再び悪化させて亡くなった。
岩元善一施設長は「原発が爆発した極限状態の中で避難先を転々とした。生活環境の急変で死期が早まった人は少なくないだろう」と振り返った。
■震災直後、散り散りに移動
「せんだん」の老人ホームには要介護4、5の寝たきりの高齢者が25人いた。岩元施設長は移動のリスクを考慮し、当初、職員と施設にとどまるつもりだった。しかし、3月12日昼すぎ、町から「全員避難」を命じられた。
自衛隊のヘリが迎えに来る双葉高までは約1.5キロ離れていた。寝たきりの入所者はベッドごと玄関先まで運び、自衛隊のトラックや施設の送迎車などに乗せて搬送した。
半数ほどを誘導し、ヘリを待っていた午後3時36分、1号機で水素爆発。現場は混乱し、県警車両と自衛隊トラック、施設の送迎車、職員の私有車に分乗し散り散りになった。結果として避難は【図】の通りで、5つのグループに分かれた。当日、ヘリで二本松市に搬送されたのは5人だけだった。
双葉高には利用者12人と岩元施設長が残された。飲み物も食べ物もないまま同校体育館で一夜を明かし、翌日、自衛隊ヘリで二本松市に搬送された。
【特別養護老人ホームせんだんの避難ルート】
(1)南相馬市→川俣町 18人(避難後に5人死亡)
12日午後2時ごろ双葉高に移動。自衛隊ヘリに乗れず、施設送迎用の車両などで南相馬市へ。道の駅南相馬で一夜を明かす。13日、川俣町の川俣高体育館に着いたが満杯のため同町体育館へ。13人が栃木県の施設に入所。1人が栃木県で入院し、4人は家族に引き取られた。
(2)川俣町→福島市 36人(避難後に22人死亡)
12日午後3時ごろ、自衛隊のトラックと職員の車で浪江町から川俣町を経て福島市へ。受け入れ先の福島高体育館に行き着いたのは午後11時30分ごろ。31人が福島市、伊達市、栃木県の施設へ。3人が福島市で入院し、2人は家族に引き取られた。
(3)浪江町→南相馬市→郡山市 17人(避難後に4人死亡)
12日午後、双葉高に移動したが自衛隊ヘリの搬送ができず、県警のバスで浪江町の苅野小へ。警察官らに再避難を促され南相馬市に向かう。午後11時30分ごろ渡辺病院に到着。13日、同市の特別養護老人ホーム長寿荘に移動。16日、福島市などを経て郡山市の郡山養護学校へ。12人が会津美里町と栃木県の施設に入所。1人が郡山市で入院し、4人が家族に引き取られた。
(4)二本松市→郡山市 12人(避難後に4人死亡)
12日、自衛隊ヘリに乗るため双葉高校庭に移動したが岩元施設長と共に取り残され、体育館で一夜を明かす。13日午後4時すぎ、自衛隊ヘリで二本松市の二本松北小に着陸。午後10時20分に郡山養護学校に避難した。7人が会津美里町と栃木県の施設に入所。2人が郡山市で入院し、3人が家族に引き取られた。
(5)二本松市→郡山市 5人(避難後に1人死亡)
12日午後4時ごろ、自衛隊ヘリで二本松市の二本松北小に着陸し、同市の県男女共生センターへ。16日、郡山養護学校に移動。4人が栃木県の施設に入所、1人が二本松市の病院に入院した。
※特別養護老人ホームせんだん 社会福祉法人ふたば福祉会が平成17年11月に双葉町長塚に開所した。定員70人。グループホーム「せんだんの家」(定員9人)を併設し、ショートステイ(同10人)と共同型デイサービス(同3人)も運営していたが原発事故で休止を余儀なくされた。24年1月、いわき市の南台仮設住宅の一角にグループホームを再オープンした。
(2013/03/02 14:53カテゴリー:原発関連死)
「小さな親切、大きなお世話」という言葉が昔流行ったが、この「高齢老人をあちこち引きずり廻して死亡させた」件は、まさしく「小さな親切、大きなお世話」の好例だろう。何しろ、「88人のうち4割を超える36人が1年半で死んだ」のだから、これは「引きずり廻し」が死亡の主な原因であることは明白だ、と言ってよい。
まあ、私は高齢老人は自然死するのに任せるのが良い、という意見の持ち主であり、老人が死ぬのは当たり前、とも思っているからこの件で当局を批判するような偽善的なことは言いたくはないが、しかし、これらの死の原因が東電にあることは明らかなのだから、遺族にはぜひ東電に対する損害賠償の訴訟を起こしてもらいたい。もっとも、その賠償金は「電力料金値上げ」で、東電支配下の地域住民全員の負担になるのだが。(笑)
しかし、1年半で4割以上が死亡、というのは凄い数字である。
これでは助けるための行為というより、殺すための行為だったと言われても仕方がないだろう。
高齢老人はガラス製品のようにフラジャイルだから、「取扱注意」であると、当局は知っているのだろうか。だいいち、「放射能」の被害は高齢者にはほとんど影響は無いはずだ。これは後で役所の責任を問われないために、無意味(いや、有害)な搬送行為をした、という、ある種の「公務員犯罪」でもある。
(以下引用)
原発関連死 長期避難 死期早める 高齢者施設せんだん(双葉)36人死亡 体調悪化、心労重なり
東京電力福島第一原発事故の避難で、死者数が平常時を大きく上回った浜通りなどの34高齢者施設のうち双葉町の高齢者施設「せんだん」では、利用者88人の4割超に当たる36人が1年半余りで亡くなっていた。「せんだん」は第一原発から約3.5キロ。切迫した状況下、利用者は5ルートに散り散りになり、約半年で18人が死亡した。一度悪化した体調は回復せず多くの人がその後も死期を早めた。弱者が犠牲になる「原発事故関連死」がなくなる日は見通せない。
第一原発1号機で水素爆発が起きた平成23年3月12日。施設関係者によると、緊急避難したのは老人ホームの入所者67人、併設するグループホームの9人、ショートステイ8人、デイサービス1人、町社会福祉協議会から介助を依頼された在宅の要介護者3人の合わせて88人だった。
明確な指示がないまま5グループに分かれた88人は当初、受け入れ先が決まらず転々とした。疲労や心労、体育館や公共施設などの寒さ、不慣れな固く冷たい食べ物、薬の不足など急激な環境変化で持病を悪化させ、衰弱も進んだ。このため19日までに別の高齢者施設、病院、近親者宅に振り分けられた。
88人のうち67人が福島市、伊達市、会津美里町、栃木県の16施設に移った。このうち28人が、病気や体調を悪化させて死亡した。8人は福島市、郡山市、二本松市、栃木県の病院に入院し、3人が死亡した。家族に引き取られた13人のうち5人も死亡した。
亡くなった36人(女性25人、男性11人)のうち、避難から約半年で亡くなったのは半数の18人。さらに昨年12月までに18人が死亡している。死因の多くは肺炎や老衰などだったという。
避難から8カ月後、埼玉県の病院で亡くなった双葉町の102歳の女性は避難前は食事も排せつも自立し、日常生活に大きな支障はなかった。しかし、避難後、肺炎と心筋梗塞を患い、一時は回復したものの再び悪化させて亡くなった。
岩元善一施設長は「原発が爆発した極限状態の中で避難先を転々とした。生活環境の急変で死期が早まった人は少なくないだろう」と振り返った。
■震災直後、散り散りに移動
「せんだん」の老人ホームには要介護4、5の寝たきりの高齢者が25人いた。岩元施設長は移動のリスクを考慮し、当初、職員と施設にとどまるつもりだった。しかし、3月12日昼すぎ、町から「全員避難」を命じられた。
自衛隊のヘリが迎えに来る双葉高までは約1.5キロ離れていた。寝たきりの入所者はベッドごと玄関先まで運び、自衛隊のトラックや施設の送迎車などに乗せて搬送した。
半数ほどを誘導し、ヘリを待っていた午後3時36分、1号機で水素爆発。現場は混乱し、県警車両と自衛隊トラック、施設の送迎車、職員の私有車に分乗し散り散りになった。結果として避難は【図】の通りで、5つのグループに分かれた。当日、ヘリで二本松市に搬送されたのは5人だけだった。
双葉高には利用者12人と岩元施設長が残された。飲み物も食べ物もないまま同校体育館で一夜を明かし、翌日、自衛隊ヘリで二本松市に搬送された。
【特別養護老人ホームせんだんの避難ルート】
(1)南相馬市→川俣町 18人(避難後に5人死亡)
12日午後2時ごろ双葉高に移動。自衛隊ヘリに乗れず、施設送迎用の車両などで南相馬市へ。道の駅南相馬で一夜を明かす。13日、川俣町の川俣高体育館に着いたが満杯のため同町体育館へ。13人が栃木県の施設に入所。1人が栃木県で入院し、4人は家族に引き取られた。
(2)川俣町→福島市 36人(避難後に22人死亡)
12日午後3時ごろ、自衛隊のトラックと職員の車で浪江町から川俣町を経て福島市へ。受け入れ先の福島高体育館に行き着いたのは午後11時30分ごろ。31人が福島市、伊達市、栃木県の施設へ。3人が福島市で入院し、2人は家族に引き取られた。
(3)浪江町→南相馬市→郡山市 17人(避難後に4人死亡)
12日午後、双葉高に移動したが自衛隊ヘリの搬送ができず、県警のバスで浪江町の苅野小へ。警察官らに再避難を促され南相馬市に向かう。午後11時30分ごろ渡辺病院に到着。13日、同市の特別養護老人ホーム長寿荘に移動。16日、福島市などを経て郡山市の郡山養護学校へ。12人が会津美里町と栃木県の施設に入所。1人が郡山市で入院し、4人が家族に引き取られた。
(4)二本松市→郡山市 12人(避難後に4人死亡)
12日、自衛隊ヘリに乗るため双葉高校庭に移動したが岩元施設長と共に取り残され、体育館で一夜を明かす。13日午後4時すぎ、自衛隊ヘリで二本松市の二本松北小に着陸。午後10時20分に郡山養護学校に避難した。7人が会津美里町と栃木県の施設に入所。2人が郡山市で入院し、3人が家族に引き取られた。
(5)二本松市→郡山市 5人(避難後に1人死亡)
12日午後4時ごろ、自衛隊ヘリで二本松市の二本松北小に着陸し、同市の県男女共生センターへ。16日、郡山養護学校に移動。4人が栃木県の施設に入所、1人が二本松市の病院に入院した。
※特別養護老人ホームせんだん 社会福祉法人ふたば福祉会が平成17年11月に双葉町長塚に開所した。定員70人。グループホーム「せんだんの家」(定員9人)を併設し、ショートステイ(同10人)と共同型デイサービス(同3人)も運営していたが原発事故で休止を余儀なくされた。24年1月、いわき市の南台仮設住宅の一角にグループホームを再オープンした。
(2013/03/02 14:53カテゴリー:原発関連死)
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