呉智英の「バカに唾をかけろ」という新書を読んでいたら、その中に
「主権者とは例外状況にかんして決定をくだす者をいう」
という、面白いというか、奇妙な定義が出てきた。ドイツの法学者カール・シュミットの言葉らしい。
で、私はこういう「小さな謎」が好きなので、なぜこの定義が成り立つのか考えてみた。もちろん、この言葉に続く部分はまだ読んでいない。
まあ、単純に考えて、「例外状況」ではない状況、つまり通常の状況では決定を下すのはその役にある人である。で、通常の状況では、どういう決定を下すかは法制と常識的判断で決まる。法で拘束されているのだから、主権云々は関係ない話になる。
しかし、法で決定できない状況、たとえば戦争を始めるという場合に決定権を持つ者は、当然主権者だということになる。前の戦争だと、帝国憲法によって主権者は天皇だから決定権は天皇にあったわけだ。国民は文句を言える立場ではない。君主制とは(それが立憲君主制でも)そういうものだ。その判断に関して君主を裁くのも、立憲主義に依る限り、法の不遡及原則によって不可能である。当時は合法であったのだから事後立法では裁けない。裁くなら「不法に裁く」しかない。
では、現在の憲法では主権者は誰か。日本が民主主義国家であるなら、主権は当然国民全体にある。ところが、その「決定」はいかにして確認できるのか。事実上不可能である。
つまり、日本(他国もそうだが)が主権在民の民主主義国家である限り戦争を起こすことは不可能なのである。戦争を決定した人間、たとえば大統領や総理大臣はその時点で主権簒奪者なのである。
「主権者とは例外状況にかんして決定をくだす者をいう」
という、面白いというか、奇妙な定義が出てきた。ドイツの法学者カール・シュミットの言葉らしい。
で、私はこういう「小さな謎」が好きなので、なぜこの定義が成り立つのか考えてみた。もちろん、この言葉に続く部分はまだ読んでいない。
まあ、単純に考えて、「例外状況」ではない状況、つまり通常の状況では決定を下すのはその役にある人である。で、通常の状況では、どういう決定を下すかは法制と常識的判断で決まる。法で拘束されているのだから、主権云々は関係ない話になる。
しかし、法で決定できない状況、たとえば戦争を始めるという場合に決定権を持つ者は、当然主権者だということになる。前の戦争だと、帝国憲法によって主権者は天皇だから決定権は天皇にあったわけだ。国民は文句を言える立場ではない。君主制とは(それが立憲君主制でも)そういうものだ。その判断に関して君主を裁くのも、立憲主義に依る限り、法の不遡及原則によって不可能である。当時は合法であったのだから事後立法では裁けない。裁くなら「不法に裁く」しかない。
では、現在の憲法では主権者は誰か。日本が民主主義国家であるなら、主権は当然国民全体にある。ところが、その「決定」はいかにして確認できるのか。事実上不可能である。
つまり、日本(他国もそうだが)が主権在民の民主主義国家である限り戦争を起こすことは不可能なのである。戦争を決定した人間、たとえば大統領や総理大臣はその時点で主権簒奪者なのである。
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