前にも載せたかもしれない記事なので、最重要と思うポイントの部分だけ載せる。
「二礼二拍手一礼」というのは、実は玉串奉納の際の作法だったらしく、一般庶民のやるものではないようだ。しかも、この儀礼が国民に広まった結果、おそらく一人当たりの拝礼の時間がかなり長くなったはずである。膨大な参拝者がいる初詣で、全員が延々と待たされることになる。もちろん、「二礼二拍手一礼」だけで、「祈りをしない」なら、さほど時間はかからないだろうが、祈念をしないなら、何のための初詣になるのか。まあ、参加することに意義がある、というオリンピック精神なのかもしれないが、実際にはオリンピックでも参加するだけで満足という選手は一人もいないだろう。
ついでながら「柏手」と「拍手」が下の記事でも混在しているが、このふたつは完全に同じだろうか。同じならなぜ違う表記があるのか。で、「合掌」は世界的にある祈り・命乞い・感謝のポーズだが、あれがなぜ世界的なのか、人類学的研究ではどう言われているのだろうか。単に「手に武器を持っていません」「(合掌によって両手が自由に使えない状態なので)害意はありません」という命乞いの表明とは別の起源があると思う。命乞いは祈りと同類としても、感謝のポーズとしてなぜ合掌が適切なのだろうか。
なお、私は食事の前のマナーとしての合掌は、誰に対する感謝(多分命乞いではないだろうww)なのかが不明なので好きではない。「いただきます」という発声も嫌いである。集団で食べるなら誰かの「さあ、食べようか」でいいと思う。一人で飯を食う時に合掌して「いただきます」と言う馬鹿はいないだろう。まあ、誰かに招かれた食事なら、主催者に感謝しての「いただきます」はOKである。レストランなどで、自分でカネを出して「いただきます」と言うのは馬鹿としか思えない。その料理やサービスは「頂いた」のではなく「買った」のである。感謝したければ、食事の後で「とてもおいしかったよ」と言えばいい。
(以下引用)
「神社で柏手を打ってはいけない」納得の理由「二礼二拍手一礼」はウソだった
昔は「合掌」して参拝していた
では、二礼二拍手一礼ではないとしたら、以前どのような参拝の作法が行われていたのだろうか。
基本的には、両掌を顔や胸の前で合わせて拝む「合掌」である。今でも、二礼二拍手一礼ではなく合掌して参拝するという人もいる。あるいは、二礼二拍手の後に、合掌する人たちもいる。二礼二拍手一礼だと、手順が定まっていて、それに従っていると、それだけで終わってしまう。神に祈るというとき、こころのなかで祈る間が、この作法には含まれていない。二礼二拍手一礼では物足らない。そうした感覚を抱く人は多いだろう。
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