人類文学最高傑作と称される「カラマーゾフの兄弟」
重厚な内容で「人間」のあらゆる面が描かれる、まさに世界文学の傑作中の傑作です。
そんな「カラマーゾフの兄弟」の中でも、とりわけ重要でこの作品の根本を表していると言われるのが「大審問官」という章です。
作者ドストエフスキーの宗教観がまざまざと現れており、ここだけでも一つの小説にすることができるのではないかと思わされるような内容になっています。
しかしそれだけにこの章の内容は非常に難解で、何を意味しているのか読み取りにくいのも事実です。
そこで今回は、この「大審問官」の大まかな設定やあらすじを振り返った上で、その内容の要点を解説していきたいと思います。
それでは早速いきましょう!
「大審問官」の設定とあらすじ
時は16世紀のスペイン。
激しい異端審問が行われる中、人の姿をしたキリストがこの世に降り立つところからこの叙事詩は始まります。
「奇跡」を人々の前で披露するも、大審問官たち捕らわれて牢に入れられてしまうキリスト。
ちなみに大審問官とは、キリスト教における異端審問を担当し、異端と判断した者を次々に火炙りに送っていた役職です。
そして捕らえたキリストに対し、大審問官は自らのキリスト教観を披露する説教を繰り広げます。
この神であるキリストに対し、それに信奉するはずの大審問官が逆に説教を垂れるという大胆すぎる設定がこの叙事詩の見どころです。
キリスト教への絶望や怒りにも満ちた大審問官の長きにわたる話を聞いた後、キリストは大審問官にやさしく「接吻」をするという形でこの叙事詩は締めくくられます。
以下でその説教の中身について深ぼっていきましょう。
「大審問官」の要点を解説
「自由」とは
「大審問官」でメインで語られることになるのが、この「自由」についてです。
「自由」と聞くと、私たちは手放しで肯定しそうになってしまいますが、そこには大きな責任や苦悩が付き纏うということが語られます。
「自由」は高尚であれど、そもそも人間にとって重すぎるものなのではないか。
自分で全てを選択するということが必ずしも人々にとって最善とは限らない。
何事も自分で考え、決断をするという労力が生じてしまうからだ。
と大審問官は言っているのですね。
もともと人間はキリストの教えに応えられるほど、高尚な存在ではなく、むしろ弱く卑しいものであるとも語られます。
人から言われたことをやっているだけの方があれこれ考える必要がなくて、結果的に楽ということはありますよね。自由にはすべからく「不安」と「孤独」がつきものです。
自らに関する一切のことを自分で決定するという重荷に耐えられなかった人々たちは、その後自ら自由を教皇に差し出すようになり、その支配下に入ることで「自由」を獲得し、幸福を得た。
というのが大審問官の主張です。
ではなぜ人々はこのような一見自由を放棄するという不合理な選択をしたのかということについては、さらに詳細に語られます。
「自由」と「支配」
相反するこの二つが両立する論理を大審問官はこう述べます。
人々はただ無理解のまま自らの自由を教皇に差し出したというのではなく、本当の「自由」とは離れていくことを知った上でなおキリストのために教皇の支配下に入ることを決めたのだと。
自由が辛く厳しいものであることを人々は理解しているからこそ、罪に堪えながらもその自由を取りまとめてくれる教皇たちへの尊敬の念を禁じ得なくなる。
というのが大審問官の主張です。
ただここに教会側の中にはキリストへの「欺瞞」が残るとも言います。教会や教皇などの支配する側は真の意味でキリスト教の教えに準じていないということに心のどこかで気づいているということですね。
そしていずれ人々はキリストの掲げた崇高な理想よりも、目の前の食糧や生きていくための「安定」を優先してしまうようになります。
ここに関してはいつの時代も変えられないものを感じることができます。
「良心」について
大審問官は支配の中でも「良心の支配」が一番重要であると語ります。
人間は単に生きることを望むのではなく、何のために生きるかを重視する性質がある。
そのため自分の中での納得感を感じながら生きていきたいと考える。
そんな中で人々は教会に服従することこそ、キリストの教えに準じるものだと信じている。「善悪の判断」の一切を教会に任せることで楽に生きていくこともできる。
と大審問官は主張します。
だからこそ教会は人々のこうした思いに応える形で、彼らを支配する形で「自由」を与えることが可能になっていたというわけですね。
「統一性」について
人間の性質としてもう一つ挙げられるのが、人は「統一性」を求めているという点です。
「自分が信じているものの正当性を確かなものにしたい」という感情が人々の中には少なからず存在します。
「自分の信仰こそ絶対」
皆がこう考えて、それを他者にも強制しようとするからこそ、自分と違う宗教や宗派のものを攻撃したり、互いの正義のために争うことになります。
これは今でも自分たちが信じるもののために、戦争やテロ行為が行われている実情を見ても納得できることですよね。
人間はもともと「反逆者」
崇高な理想よりも、低俗でも全人類を魅了する食糧などを与えてやれば、争いがなくなると大審問官は主張します。
人間を愛しすぎ期待しすぎるがゆえに、人間に対して大きな要求をしすぎるキリストは理想主義なのではないかとキリストを批判します。
キリスト教が信者に求めるものは、当時の社会の実情から鑑みても、曖昧なものばかりであり、人々はかえって自由が苦しく感じられてしまっていました。
もともと弱くて、卑しい人間はそんな理想よりも目の前の「安定」に手を伸ばすのも当たり前であると主張されます。
三つの力
人々は信仰の対象に三つの力を求めると大審問官は言います。
それが「奇跡」「神秘」「権威」の三つです。
それらはかつてキリストが自らの行いや言葉で示したものでありました。
しかしキリストがいなくなってから1000年以上経ったこの世界において、人々はもうこれらに三つの力を求めることが困難になってしまいました。
でも人々は信じられるものが欲しい。そこで自ら「奇跡」を作り始めるようになった。
と大審問官は言います。
一見怪しげな呪術や魔女といったものが流行していた当時の背景には、人々のこうした背景があると考えたのでした。
無心論者イワンと信仰者アレクセイ
叙事詩「大審問官」をイワンが語り終えた後、最後はイワンとアレクセイの会話でこの章は締めくくられるのですが、ここも重要なシーンです。
無心論者であるイワンと神を心から信じるアレクセイが対照的に描かれます。
「大審問官」の話からも分かるように、何も信じられないイワンはどこか人生に絶望し、最後はカラマーゾフ的な堕落に落ちるしかないと考えます。
そんなイワンをアレクセイは救いたいと考えているのですが、主義主張の相違からこれといった解決策を提示することができません。
ただ怒りや苦悩に苛まれるイワンを「それでも受け入れて全てを許す」という姿勢を見せるに留まります。
アレクセイはこのことを叙事詩の中のキリストになぞらえて、自らもイワンに「接吻」することで伝えています。
イワンも自分に対して真摯なアレクセイを最後の拠り所としているようなところを感じさせながら、二人は別れるというシーンでこの章は締めくくられます。
まとめ
今回は「大審問官」の要点を解説させていただきました。
正直この章はめちゃくちゃ難解であり、僕自身理解しきれているかと言われるとあまり自信をもてません。
これについては一生をかけてでも考え続け、その時々で違った答えを見つけていくことが「大審問官」の味わい方であるとも思わされます。
これだけ「神と人間」について考えさせてくれる機会となる「カラマーゾフの兄弟」という作品の面白さ、奥深さを感じずにはいられませんよね。
それだけに何度も何度も読み直す価値があり、その都度より理解できるようにチャレンジしていきましょう。
この記事が、みなさんの「大審問官」の理解を少しでも助け、「カラマーゾフの兄弟」という作品をより一層楽しむきっかけとなれば幸いです。
【人類文学最高傑作】「カラマーゾフの兄弟」の魅力と読み取れることを解説していく