私は「ReLife」というアニメが大好きで、もう四、五回くらい見ているが、その中に日代千鶴という女生徒(一応ヒロイン格だが、コミュニケーション能力がほぼゼロというか、他人と関わる意思が最初から無い秀才少女)が出てきて、そのコミュ力ゼロだが人格自体は非常にまともで誠実というギャップから来るボケぶりが面白い。正直な性格なので、秀才である自分を頭がいいと言いながら、コミュ力ゼロの部分を馬鹿であるとはっきり認めている。つまり、頭の良さには二種類あり、学力的な頭の良さと対人的能力(交渉能力)のふたつがあるわけだ。学校では主に前者しか「頭がいい」とされないが、社会に出ると後者のほうがはるかに優位であるのは言うまでもない。後者を「地頭がいい」とする評価もあるが、地頭の良さはコミュニケーション能力とは別のものだろう。また、たとえば、すぐれた芸術の価値を見抜く力は学校秀才的な頭の良さともコミュニケーション能力とも別の頭の良さだが、それを「感性」として頭の良さとはまた別とする考えもある。
とりあえず、学習に関しては頭の良さよりも努力のほうが大きいと言えるのではないか。学校の成績の悪い人間は、学習段階のどこかで躓いたものであることがほとんどだろう。
つまり、何か疑問を持った時に、その疑問を解消する(解決する)努力をしてきた人間が学校秀才になるのであり、それはやはり優れた人間性を示しているわけだ。学校秀才を馬鹿にする最近の風潮は間違いだろう。ただ、学校秀才は「習った範囲」でしかその能力を発揮できないことも多く、これが東大などを出た官僚や学者らに「現実馬鹿」が多い理由だろう。
で、小さな子供が小学校に入学した時に先生に教えてほしいことは、「勉教(学習)とは分からないことを分かるようにすることで、分からないことがたくさんあるのは当たり前、それ自体は恥ずかしがることはないが、分からないことをそのままにしておくことは恥ずかしいことだ」ということを教えてほしいことだ。子供のころに、分からないことは調べる、あるいは他人に聞くという習慣をつければ、たいていの子供は進学校に普通に入れるレベルにはなると思う。(今ならネットを駆使して独学で世界的な大学者にもなれるかもしれないwww 台湾のオードリー・タンなどは独学者だったはずだ。)
で、世界には「分からないこと」は無数にあり、その大半は「分からなくても何も問題はない」ことだ、と教えるのも必要だろう。たとえば、宇宙に果てはあるか、などどんな科学者でも本当は分かっていないはずだ。死後の世界の存在も、立証不可能だろう。
だが、学校で学ぶレベルの知識は「分かるべき知識」であり、社会で有用な人間になるための最低限の知識だ、という意識を子供には持たせるべきだと思う。まあ、そうは言いながら、社会科などは「国民洗脳」装置の面もあるから困るのだがwww
結論:知識には大きく分けて三つある。
A:分かること。
B:分からないが知るべき必要性があること。
C:分からないが知る必要性の無いこと。
学校や塾や予備校とはBをAにする場所である。だが、社会に出ると、Cと思っていたことがBであったということもあるわけだ。
(追記)「覚える」というのは学校教育のテストなどでは絶対条件だが、私はこれが大の苦手で、私は性格的に「理解できないと覚えられない」ので、社会科の地名だの人名だの年号などはまったく覚えきれないのである。理科などは「理解できないから覚えられない」ので社会科と理科はまったくダメだった。そもそも、植物の葉っぱが何枚あろうが、小学生がそれを覚える意味があるだろうか。埼玉が東北にあろうが関東にあろうが、沖縄の人間に何の関係があるだろうか。というわけで、私は国語と英語(これは少ない単語知識から文脈を推理することで何とかなった)だけで大学入学までは何とかなったが、大学入学後は完全にアウトだったわけである。クレブス回路を覚えろ、など、私にはまったく不可能なことだった。
とりあえず、学習に関しては頭の良さよりも努力のほうが大きいと言えるのではないか。学校の成績の悪い人間は、学習段階のどこかで躓いたものであることがほとんどだろう。
つまり、何か疑問を持った時に、その疑問を解消する(解決する)努力をしてきた人間が学校秀才になるのであり、それはやはり優れた人間性を示しているわけだ。学校秀才を馬鹿にする最近の風潮は間違いだろう。ただ、学校秀才は「習った範囲」でしかその能力を発揮できないことも多く、これが東大などを出た官僚や学者らに「現実馬鹿」が多い理由だろう。
で、小さな子供が小学校に入学した時に先生に教えてほしいことは、「勉教(学習)とは分からないことを分かるようにすることで、分からないことがたくさんあるのは当たり前、それ自体は恥ずかしがることはないが、分からないことをそのままにしておくことは恥ずかしいことだ」ということを教えてほしいことだ。子供のころに、分からないことは調べる、あるいは他人に聞くという習慣をつければ、たいていの子供は進学校に普通に入れるレベルにはなると思う。(今ならネットを駆使して独学で世界的な大学者にもなれるかもしれないwww 台湾のオードリー・タンなどは独学者だったはずだ。)
で、世界には「分からないこと」は無数にあり、その大半は「分からなくても何も問題はない」ことだ、と教えるのも必要だろう。たとえば、宇宙に果てはあるか、などどんな科学者でも本当は分かっていないはずだ。死後の世界の存在も、立証不可能だろう。
だが、学校で学ぶレベルの知識は「分かるべき知識」であり、社会で有用な人間になるための最低限の知識だ、という意識を子供には持たせるべきだと思う。まあ、そうは言いながら、社会科などは「国民洗脳」装置の面もあるから困るのだがwww
結論:知識には大きく分けて三つある。
A:分かること。
B:分からないが知るべき必要性があること。
C:分からないが知る必要性の無いこと。
学校や塾や予備校とはBをAにする場所である。だが、社会に出ると、Cと思っていたことがBであったということもあるわけだ。
(追記)「覚える」というのは学校教育のテストなどでは絶対条件だが、私はこれが大の苦手で、私は性格的に「理解できないと覚えられない」ので、社会科の地名だの人名だの年号などはまったく覚えきれないのである。理科などは「理解できないから覚えられない」ので社会科と理科はまったくダメだった。そもそも、植物の葉っぱが何枚あろうが、小学生がそれを覚える意味があるだろうか。埼玉が東北にあろうが関東にあろうが、沖縄の人間に何の関係があるだろうか。というわけで、私は国語と英語(これは少ない単語知識から文脈を推理することで何とかなった)だけで大学入学までは何とかなったが、大学入学後は完全にアウトだったわけである。クレブス回路を覚えろ、など、私にはまったく不可能なことだった。
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