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美が美である時と美でなくなる時

小林秀雄と江藤淳の対談の中で江藤淳が語ったエピソードだが、或る大学教授が美術館の青磁か何かが陳列されている部屋に入ると、かけらばかりがしばらく並んでいて、そのどれも非常に美しく感じた。ところが最後に、完全な形の壺があり、その完璧さを見るといやな感じがあり、かけらを見ている時の自由さがなくなった。そして振り返ってかけらを見ると、かけらは醜かった、という話である。
これは「美」というものについての示唆的なエピソードだと思う。
私がこれを読んで即座に想起したのは、「サモトラケのニケ」と「ミロのヴィーナス」である。ニケは、頭も両腕も無い(と記憶している。)胴体と下肢と背中の翼だけだったはずだ。ミロのヴィーナスはご存じの通り、両腕が無い。では。これらの彫刻に欠けている頭や腕があったら、もっと美しかっただろうか。いや、そうは思わない。特にニケは、あの姿こそが完璧な姿だと思う。頭や両腕が無いからこそ、見る者はそこに何とも言えない「美しいもの」を心の中、頭の中で漠然と補完するのである。ヴィーナスも同じだ。だが、無理に想像で補完しなくても、我々は、目の前のヴィーナスの「両腕の無い姿」をひとつの完璧なフォルムとして嘆賞するのである。その顔や胴体の美しさは、両腕という「余計なもの」が無いために、余計に我々の目に迫ってくるのである。
つまり、美というものは対象物の中にだけあるのではない。それは対象物と見る者との共同作業だ、ということが、最初のエピソードやこのふたつの彫像から分かるのだ。
前に書いたショーペンハウエルの認識論と通底する話である。
冒頭の話に戻る。なぜ、「美しかったかけら」は、完璧な姿の壺を見た後に「醜いもの」となったのか。それは、かけらだけを見ていた時に見る人が自分の心の中で「創造した(想像というほど明白なものではないが、ある種の「後光」を「創造」したのである。)」姿が、「完璧な姿の壺」の案外な醜さの印象によって、その後光が消滅したのである。

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