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1903年(明治36年)5月21日、制服制帽のまま失踪[6]。この日は栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)の旅館に宿泊。翌22日、華厳滝において、傍らの木に「巌頭之感」(がんとうのかん)を書き残して投身自殺した。同日、旅館で書いた手紙が東京の藤村家に届き、翌日の始発電車で叔父の那珂通世らが日光に向かい、捜索したところ遺書(巌頭之感)や遺品を見つけた。一高生の自殺は遺書の内容とともに5月27日付の各紙で報道され[7]、大きな反響を呼んだ。遺体は約40日後の7月3日に発見された[8]。
厭世観によるエリート学生の死は「立身出世」を美徳としてきた当時の社会に大きな影響を与え、後を追う者が続出した。警戒中の警察官に保護され未遂に終わった者が多かったものの、藤村の死後4年間で同所で自殺を図った者は185名に上った(内既遂が40名)。操の死によって華厳滝は自殺の名所として知られるようになった[9]。
藤村がミズナラの木に記した遺書は、まもなく警察により削り取られたという(後に木も伐採)。それを撮影した写真があり、現在でも[いつ?]華厳滝でお土産として販売されている。[要出典]
藤村が遺書として残した「巌頭之感」の全文は以下の通り。
- 巌頭之感
- 悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て
- 此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等の
- オーソリチィーを價するものぞ。萬有の
- 眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
- 我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
- 既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の
- 不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は
- 大なる樂觀に一致するを。
ホレーショとはシェイクスピア『ハムレット』の登場人物を指すとみられる(後述)。
「終に死を決するに至る」の箇所を「終に死を決す」としている資料もみられるが、写真のとおり誤りである。
自殺直後から藤村の自殺については様々に論じられ、そのほとんどは、藤村の自殺を国家にとっての損失という視点から扱ったものだった[10]。 自殺の原因としては、遺書「巌頭之感」にあるように哲学的な悩みによるものとする説、自殺前に藤村が失恋していたことによるもの[11]とする説に大別される。 藤村の恋愛の相手として4人の女性の名が挙がった。菊池大麓の娘である松子とその姉の多美(民)、馬島あい子とその姉の千代であるが、死後80年以上経って、藤村が自殺の直前に手紙とともに渡した本という物的証拠が出てきたため、恋の相手は馬島千代ということで落着している[12]。朝日新聞(1986年7月1日)[13]によれば、5月22日の自殺直前、藤村は突然、馬島家を訪ね、千代に手紙と高山樗牛の『滝口入道』を手渡した。手紙には「傍線を惹いた箇所をよく読んで下さい」と書いてあり、本には藤村の書き込みがあった。千代に縁談があったので、藤村が千代を訪ねたことは秘密とされた。手紙と本も焼却されたと考えられていたが、千代が1982年に97歳で亡くなった後、子息の崎川範行(東京工業大学名誉教授)が遺品の中から『滝口入道』と手紙を見つけ、日本近代文学館に寄贈することになった[14]。 なお、「失恋説」については、友人の南木性海は藤村の11通の手紙を公表し、否定している。南木に限らず、藤村をよく知る友人らはみな一様にこの「失恋説」を否定している[15]。
遺書にある「ホレーショの哲学」のホレーショは、シェイクスピア『ハムレット』の登場人物であろう(藤村は『ハムレット』を原文で読んでいた)。同作中でホレーショが哲学を語るわけではないが、ホレーショにハムレットが次のように語るシーンがある(第1幕、第5場、166-167行):There are more things in heaven and earth, Horatio, Than are dreamt of in your philosophy[16].(坪内逍遙訳:「此天地の間にはな、所謂哲学の思も及ばぬ大事があるわい」[17]。)。遺書5行目の「不可解」に通じる不可知論的内容を含むセリフである。"your philosophy"の"your"を二人称と解釈し、「ホレーショの哲学」という一節になったのであろう。しかし、この"your"は、話し手本人も含まれる「一般人称」(general person)で、「世にいわゆる」の意味である[18](先に引用した逍遙訳もそのように訳している)。遺書のこの箇所を捉えて藤村による「誤訳」をあげつらう向きもある[19]が、これより以前に徳富蘆花[20]や黒岩涙香[21]も同様(yourを二人称)に訳しているし、それらの訳を藤村が参照した可能性もある[22]。なお、西洋古典学者の逸身喜一郎は、「ホレーショ」はローマ詩人ホラティウス(英文表記:Horace)ではないかと指摘している[23]。当時のエリート青年たちに流行していた悲観主義的厭世観はショーペンハウアーを受容し、この遺書に漂う人生への懐疑と煩悶は、時代の雰囲気をありありと反映したものであった[24]。
彼の死は、一高で彼のクラスの英語を担当していた夏目漱石や学生たちに大きな影響を与えた[25]。在学中の岩波茂雄はこの事件が人生の転機になった。漱石は自殺直前の授業中、藤村に「君の英文学の考え方は間違っている」と叱っていた。この事件は漱石が後年、神経衰弱となった一因ともいわれる[26]。
当時のメディアでも、『萬朝報』の主催者であった黒岩涙香が「藤村操の死に就て」と題した講演筆記[27]や叔父那珂道世の痛哭文を載せた後、新聞・雑誌が「煩悶青年」の自殺として多くこの事件を取り挙げた結果、姉崎正治ら当時の知識人の間でも藤村の死に対する評価を巡って議論が交わされるなど、「煩悶青年」とその自殺は社会問題となった[28]。
漱石はこれ以外にも『文学論』第2編3章や寺田寅彦あて書簡(1904年2月9日)に記した「水底の感」で藤村に言及している。
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