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フィクションでの死に涙を流すことの快感

「ティーン向けフィクションではなぜ必ず恋人と(「交尾と」とタイプミスするところが私であるww)死別するのか」という「hatena匿名ダイアリー」スレッド(正確には「なぜ毎度毎度(作者が主人公の)恋人を殺すのか」)コメントの一部だが、まあ、「お涙頂戴」は大衆娯楽の王道だし、悲劇と言えば、愛する人の死ほどの悲劇は人生には滅多に無いのは確かだ。だが、明らかに「狙って作った」それを見て泣くことで快感を得ている連中への嫌悪感は私にもある。私自身その大衆のひとりでもあるから、困ったものだ。
冷酷無比な殺人をする人間というのは、フィクションの中の死にもまったく心が動かないのだろうか。フィクションを読んで作中人物の死に涙を流しながら、現実生活では平気で人を殺す人間のほうが怖いか。
前にも書いたが、「赤毛のアン」の物語創作クラブの話で、ダイアナが登場人物の始末に困ってどんどん殺すという「ダイアナ式創作法」があって笑ったものだが、これはべつにダイアナが冷酷非情な人間であることは意味しない。
まあ、フィクションだから何を描いても許される、という思想にも問題はあり、そこにプラトンの「(理想国家からの)詩人追放論」も出て来るのだろう。感情があまりに昂じると理性は機能しなくなるのは自明のことだ。かと言って理性絶対上位主義にも私は与しない。理性と論理の混同も問題だと思っている。論理はただの道具だ。理性には直感というものもある。
理性と感情について、いずれもう少し考えてみたい。


(以下引用)


  • 青春映画にとって恋人とは主人公にとっての青春のアイコン、つまり青春そのものなので、 モラトリアムや少年時代の終わりの暗示として主人公の恋人は死んだり失踪したりしがちなの...



  • 戦闘モノでボスが強いほうが盛り上がるように、恋愛モノでは恋の障害が大きい方が小説が盛り上がるんだけど、人生経験が貧弱だと「別れ」の具体的なイメージが死別以外にないから...



  • 死にネタは感動してもらえる! っていう安易な厨二病のアレですね。


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