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詩人はなぜ追放すべきなのか

「せかいしそう」というWEBマガジンの記事だが、思考材料としてメモしておく。ざっと読んでいって同感するところも多かったが、トランプへの評価の部分で、やはり俗物思想家だな、と感じた。つまり、リベラル系マスメディアが伝える情報を無批判に受け入れているわけだ。

(以下引用)

古代の哲学者たちは、どのように書き、伝え、受容されたのか

第4回 プラトンの告発


SNSに動画と、様々な形態のメディアが我々を取り巻く昨今。これまでの連載では、知を取り巻く環境と知の関係について、古代ギリシャを例に取り上げてきましたが、それでは我々自身はどういう状況のなかにいるのでしょうか。最終回となる第4回では、古代ギリシャへの目線を通して、現在の問題が浮かび上がってきます。


第1回はこちら


第2回はこちら


第3回はこちら

現代はどういう文化的状況か?

 さて、今までは古代ギリシャにおける知的状況と環境のつながりを見てきたのですが、それが現代においてどういう意味をもっているのかということをちょっと考えてみましょう。


 現在の「知を巡る文化状況」というものをどう捉えるかは、人によってさまざまでしょう。ただきょうは、oralとliteralの文化、そしてそのなかでの哲学者の思考について話してきたので、それを踏まえて考えてみることもできると思います。


 そういう視点から見たとき、マスメディアなども含めて、書かれた文字よりビジュアルなものが重視され、とくにインターネットにおいては画像や動画などが強い影響力をもっている状況は否定できないと思います。文字情報ももちろん豊富ですが、それもSNSなどでは非常に短い形のものが支配的になっている。


 こうした状況を、これまで触れたoralとliteralというような区別の下で考えてみると、これはoralな文化とデジタルテクノロジーが連携したような形で、大きな影響力を持っているんじゃないか、と思います。


 先ほど話したように、oralな文化のなかでは、情報はただ口伝えだけで伝わるものではありませんでした。ホメロス以前から、詩の朗誦にはキタラの伴奏が伴ったり、劇では俳優の演技に加えてコロスというコーラス団がついて、彼らが歌に加え踊りも添えていました。その意味で視覚にも聴覚にも訴える一種の総合芸術に近い面もあった。そういったパフォーマンスとしてのoralな文化がいまや巨大な力をもっているように見える。そしてよく口にされるように、書物を中心としたliteralな文化は後退しているようにも見えます。


 かりにそうだとして、こうした状況が個人や社会にどのような影響を及ぼしているのかは、今後さまざまに分析されるべきことです。しかし、何かはっきりとしたことを言うには、実際の認知科学や社会学などさまざまな角度からの研究を俟たなければならないでしょう。

oralな文化と「詩人追放論」

 しかしともかく、こうした状況に対して、「古代の哲学者だったらどういう態度を取ったんだろうか?」というようなことを考えてみると、プラトンの詩人追放論というものを思い浮かべます。


 プラトンの詩人追放論というのは、『国家』という作品の最後の巻に出てくるものです。ここでプラトンは、彼が理想国として築き上げる国家から、「詩人というものを追放すべき」と言っています。この詩人というのは、前述したように韻律のある文章を書く全ての人たちです。とりわけプラトンが狙いを定めているのはホメロスや悲劇詩人ですが、広い意味でoralな文化の営みである、叙事詩・抒情詩・悲劇・喜劇というメディアとしての詩全体がターゲットになっています。


 「詩人追放」というのは一種の検閲です。ただし、名古屋のほうの展覧会の問題のようにろくに作品を見ないで非難を浴びせたり中止させようとしたりしているのではありません。むしろプラトンはこの講義の最初のほうで述べてきた、「ホメロスなどの詩がいかに古代ギリシャの文化と教育に深く根づいているのか」ということを強く実感し自覚した上で、こういう主張をしているわけです。もちろんその主張には必ずしも賛成できない部分も多いと思いますが、一応聞いてください。


 プラトンの分析は、これら広い意味の詩に対して、「魂はどういう反応をするのか」という分析から始まります。


 プラトンは、魂には詩に反応する2つの部分があると考えます。この2つは「ロゴスに従う部分」と「非理知的な部分」です。これはよく片方がロゴス(理性)で、片方はパトス(感情)だというふうに考えられるんですが、そういった単純な対立ではありません。


 ロゴスとか理知的部分を持っていたとしても、たとえば大切な人を亡くしたとき、悲しいといった感情をもつことを、プラトンはもちろん否定しません。彼が問題としているのは、そういった感情に対して、どういう態度を取るのかという点です。このような場合の心の動きを、プラトンは、劇を見たり、音楽を聴いたりするときに感じる場合と実生活において感じる場合とを重ねあわせて考えることで解明しようとしました。人生も演じられるドラーマ(ギリシャ語ではおこなうことも演ずることも意味します)なのです。


 彼によれば、われわれの魂あるいは心のある部分というのは、そういった悲しみにも耐えようとしている。あるいはそういった悲しみと戦おうとする。ところが、もう一方の魂の部分は、詩人たちによって満足を与えられてそれを喜ぶ。悲しみを与えられても、それに引きずられて、むしろその悲しみにふけろうとすると。劇を見ているときが典型的ですが、実生活においても、心ゆくまで泣いて満たされることを飢え求めるというふうに、強い感情を欲求するのがこの部分の本性である。──これがプラトンの診断です。

プラトンの告発

 そして劇をはじめとした「詩」としてのメディアは、この感情を欲する部分に訴えてくる。それによって感情というのがある種自己増殖的に、「もっと感情を動かしてほしい」と求め、そしてこのパトス的な部分を増強させる。詩は、パトスを求め、それに溺れようとする部分を、「呼び覚まし、育て、強力にする」。プラトンはこう主張します。


 たしかに、このように劇や朗誦のかたちで「詩」が演じられているとき、その間聴衆の魂は、言わば「我を忘れて」、つまりロゴス的なはたらきは封印され、詩作品の呼び起こす感情や心の動きに支配されます。しかも魂の一方のパトス的部分は、むしろそのことに喜びを見出す。さらに、そうした詩によって幼少から教育されていく人々は、知的な反省を経る以前に、その性格や基本的な態度、いわば人格の形成においてその影響を受けるでしょう。すでにみたように、それが暗誦や朗誦を求めるかたちでおこなわれるなら、とくにその影響は大きいでしょう。じっさいそれが、ホメロスら詩人と呼ばれる人びとが当時の教育や文化環境において果たしていた役割です。そしてその影響力は、それのもつoralな要素に負うところが大きいことは、容易にみてとれるでしょう。


 プラトンが告発し追放すべきだと主張したのは、このような性格をもつ詩であり、それを作る詩人たちでした。


 詩がこのようなかたちで聴衆とかかわるものであるとすれば、それはプラトンが対話篇というかたちでつくろうとした読者との関係と、対照的であると言えるのではないでしょうか。プラトンが読者に求めたのは、それを読む人がそれを読み、自分自身で考えるということだったからです。


 少し具体的に考えてみると、たとえば劇といった詩的パフォーマンスでは、演ずる側に聴衆に対するいわば支配権があります。演じられている間、聴衆の心はそれにわしづかみにされ、揺さぶられ、喚起される。そして、プラトンが言うように、それにふけろうとするのがわれわれの詩に対する態度です。だから、詩的パフォーマンスを途中で止めていったん反省してというようなことはあまりない。さらに詩が考え方に及ぼす影響は、長期にわたる教育によっていわば血肉化して、とくに反省することなく、それにもとづいてわれわれは自然と物事を考えるようになる。


 ひるがえって、そもそも読書というのは、その人の時間に従って、そしてその人の理解に応じて、読みすすめる行為です。もちろん没頭して読むということはありますが、理解と時間の基本的な支配権は読者の側にある。そしてとりわけプラトンは、語られることを読者自身が思考を働かせて読むように工夫しました。その意味で、プラトンが対話篇を通じて人々に伝え、実際に試みようとしたことは、彼が批判した意味での詩的パフォーマンスに対してある意味で対極にあったと言ってもよい。


 そしてこういったプラトン哲学に見られる哲学のあり方は、文化批判、さらに内在的な文化批判として考えることができるでしょう。プラトンは広い意味でのoralな文化の重要性と影響力を認めていましたし、たぶんプラトンほどこれを深く痛感している人はいなかったかもしれません。そして自身の作品も、そのようなoralな文化とかかわり、その要素を生かしてもいた。そのうえでなお、彼はその影響を分析し、批判を試みました。こうしたプラトン哲学は、いま述べている知的な環境においても、われわれを考えさせる視点をもっているのではないか。少なくとも、このような批判をしたプラトンが、より高度になったoralな文化を備えている現代に登場したら、現在の状況をどう診断し批判するのか、考えるに値するのではないでしょうか。


 そして最後に、反省と自戒の念をたっぷりこめてお話しするんですが、プラトンやアリストテレスの哲学のあり方は、いま哲学を学んだり研究したりする者に対して、より知的な環境そして伝える媒体に意識的であることを求めるものだと思います。哲学ないしはそうしたことを含めて考える営みなのだろう、あるいはそうあるべきであろうと。これが、きょうのお話の、とりあえずの自分自身に対する結論です。

付録 ポストトゥルースと「知的な悪徳」

 今日の話とも関連するので、いまの文化状況ないしは情報伝達について、一部の哲学者の間で最近話題になっていることをちょっとだけ紹介しておきます。


 現代は非常に情報が氾濫しています。そのなかでそれがどのように伝達され、受容されるのかがいろいろの角度から問題とされている。たとえば、情報の格差というものがあるということがよく口にされています。一方の人々はたくさん情報を持っていて物事に通じているが、他方の人はちょっとしか持っていない、あるいは渡されていないという状況ですね。


 こうした問題に対して、「人々が情報に対してどういう態度を取るのか」という切り口で考えることができます。政治の場面では、ポストトゥルース・ポリティクスと呼ばれるような状況、トランプみたいな人が出てきて、事実の確認(ファクト・チェック)とは関係ない形でどんどん発言していくというような状況があります。そこでは、一方の人がそうした発言を信じていて、他方の人はそれを信じていない。ワクチンの接種の問題にしても、いろんな情報が出回っていて、一方の人たちは一方の情報だけを信じ、他方の人はそれを信じていない。あるいは陰謀論と呼ばれるような、さまざまな現象の背後には実は密かな陰謀があるというようなことを、少なくない人が信じたりもしている。


 こうした状況に対して、それは知識量とか情報へのアクセスができるかどうかということよりも、むしろ「さまざまな情報がある状況に対して、どういう態度を取るのか」という「その人のあり方の問題」が非常に大きいのではないか、という議論が出てきます。そのなかでepistemic vices(知的な悪徳)という概念が、哲学が扱う認識論のなかで論じられるようになっています。


 知的な悪徳とは、偏見とか、心を開かない閉鎖性、特定のドグマへの固執といったような知に対する態度を言います。ある情報を根拠なく完全に無視するとか、細かな事実に対して注意を払わないという態度も含まれます。


 知というものは、アリストテレスやプラトンの場合は特にそうなんですが、単なる抽象的な命題の体系じゃなくて、その人の一つの徳というようなものとして考えられています。知識は、「その人が自分で理解し説明できる能力」だということですね。今日お話ししたプラトンの対話篇の特質も、そういう知に対する理解と連携しています。逆に言うと、ある情報をえただけでは「知っている」とはならない。こうした見方からすると、先に述べた情報の量や偏りという問題よりも、それを受けとめる人のあり方(それを徳や悪徳と言うわけですが)の問題としてこの知の問題を考えようというアイデアが出てきます。


 たとえば、「『消毒液を注射するとコロナウイルスを退治できる』という、トランプが言った理論をどのぐらい信じますか?」という質問に対する答え方と、各個人のもつさまざまな資質との間はどのような関係があるかを考える。そのときに信じるか信じないかを左右するのは、政治的な信条(右翼か左翼か)の違い、あるいは信仰する宗教の相違などよりも、上記の知的悪徳の有無といったことが大きく左右している、という調査結果もあります。このような議論は、「知的悪徳」を(循環論とならないように)どのように定義し、またどのように調べるのかといった問題も含めてまだまだ議論の余地が大きいと思いますが、提供される情報の量や偏りよりも、受け取る側のいわば知にかかわる人のあり方(「性格」などの比較的恒常的な態度)に目を向けるもので、古代的な視点を含んでもいることもあり、注目してよいのではないかと思っています。

素早く刺激的な情報が飛び交う時代だからこそ、本の持つ役割はより重要になるのではないでしょうか。出版に携わる者としても、大変興味深いお話でした。中畑先生、どうもありがとうございました。

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