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「笑い」とは何か

プーシキンの「ベールキン物語」は岩波文庫(神西清訳)では「スペードの女王」と一緒に入っていて、後者のほうが有名だが、小説としての面白さや完成度の高さはむしろ前者が上だと思う。
ここ数日、久しぶりに再読したが、以前はあまり面白いと感じなかった「吹雪」「葬儀屋」「駅長」のどれも面白く、若いころより「読書力」は増した気がする。冒頭の「その一発」は何度読んでも、短編小説としての完成度の高さは世界一だとすら思うし、最後の「偽百姓娘」は、読んでいる間、こちらのニヤニヤ笑いが絶えない、実に心を楽しませる作品で、「読後感の良さ」では、これも世界一かもしれない。で、細部の描写や会話のすべてが面白いのだから、私にとって「ベールキン物語」は短編小説集の理想像だ。この五つの作品の並び自体も、よくできている。サスペンスフルでミステリー要素のある傑作「その一発」で始まり、間にいろいろな「この世の哀歓」が描かれ、最後が楽しい作品で終わる、或る意味、音楽性のある構成だ。
私が好きな作家の代表はドストエフスキーだが、彼とプーシキンに共通しているのは、「高いユーモア感覚」である。文章の端々にユーモアがあって、読むのが楽しい。たとえ作中の事件で悲惨な出来事が描かれても、全体が基本的に「この世界への愛」を感じさせるのだ。
で、ドストエフスキーと同じくらいの大作家であるトルストイには、残念ながらユーモアが非常に欠乏している。彼の作品は、鋭利なナイフでこの世界を解剖して再構成した感じであり、「小説世界の中で生きる喜び」は私はあまり感じない。これはユーモアの欠乏から来ているのだろう。笑いは、その周囲全体を明るくするのである。
ここで、ユーモアと「冷笑」の違いが問題になる。冷笑はその世界を明るくしない。私がチェーホフの作品をあまり好まないのは、ふつう「ユーモアに溢れている」とされているチェーホフの「笑い」が実は冷笑だからではないか、という気がする。作者自身、物凄いリアリストで、日常生活ではほとんど感情を見せなかったという。(これは先ほど読んだ神西清の論文にあった。)で、彼は手紙をたくさん書いた人で、その中では冗談をよく言っていたようだが、それがたぶん韜晦だったのではないか、と思われる。神西清の論文の中から、その象徴となる「マーマレード」の一件を書き写そう。カッコ内は私の注釈である。


香水の匂いをぷんぷんさせた社交婦人が三、四人訪ねてきて主人(チェーホフのこと)とこんな問答を始める。
「この戦争はどうなることでしょう?」
「やがて平和になるでしょうな」
「まあ、本当に。でも、どちらが勝つでしょう?」
「強い方でしょうな」
「どちらが強いと思召して?」
「うまい物を食べて教育のある方でしょうな」
「でも、どちらがお好きですの? ギリシャ人? それともトルコ人?」
「好きといえば、僕はマーマレードが好きですね。あなたは?」
「私も大好き」
「私も」
「私も」
……そこで話は俄然活気を帯びて、やがて頗る満足した婦人連は、そのうちおいしいマーマレードをお届けしましょうと約束して、いそいそと帰っていく。
これはチェーホフ作るところのヴォードヴィルではない。ゴーリキィの回想に出て来る或る日のチェーホフの姿なのである。
ところで餌はマーマレードに限ったことではないはずだ。

(以上引用)

とまあ、こんなエピソードがあったらしいのだが、私はこの一幕はチェーホフの作品では感じなかった面白さを感じる。ここには作り物ではない、「人間チェーホフ」の姿がありのままに出ているところが面白いのだろう。つまり、シニカルな人間自体が「笑いの対象の一部」になっているところが面白い。モリエールの「人間嫌い」の面白さを連想させる。
だが、冷笑自体は、対象への愛ではなく、嫌悪から来るのであり、気持ちのいいものではありえない。つまり、一種の「世界の否定」だからだろう。愛情の欠如した笑いは、他者への攻撃なのである。他者を下げ、自分を高みにおく、自己愛の産物で、笑いとしては上等なものではない。世界そのものへの愛が笑いとなってこぼれてくる、そういうのが上質の笑いだと思う。まあ、赤ん坊の無邪気な笑いがその代表だ。









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