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「殺人」論

「徽宗皇帝のブログ」に書いた記事が中途半端なので、後を続けてこちらに書く。

他の生命を殺さないと生きられないのが全動物の宿命ではあるが、それを拡大すると、「人間を殺してもべつにかまわない」という思想になる。たとえば、戦争否定主義者の私も、死刑を否定はしない。それは「死刑になる人間は既に誰かを殺しており、それなら自分が殺されることも論理的に否定できないはずだ」と思うからだ。つまり、「公平・公正」の観念を私は法の基礎に置いており、死刑はその大原則にかなうわけだ。しかし、戦争という「理不尽な死」は許容できない。

ここで言う「殺人」は、単に「自分の手で殺す」ことではなく、「(意識的に)他人の死の原因になる」ことである。つまり、誰かに命令して殺させる場合は、その命令者こそが「他人の死の原因」になっているわけであって、「実行者」は実は殺人の主犯ではないし、「犯罪者」ですらない場合が多いと思う。死刑執行人や兵士などだ。
この考え方(誰に「死の責任」があるか)によって、「死刑執行人による殺人」や「戦場における兵士の殺人」の主犯者は死刑執行人や兵士ではなくなる。また、直接の命令者はその上司からの命令で下に命令したなら、上司がより重い「命令責任」がある。これは組織論として当然だろう。では、死刑囚に死刑判決を下した裁判官や死刑を求刑した検察官には「殺人の責任はあるか」と言えば、これは最初に書いた「死刑になる人間は既に誰かを殺しており、死刑になるのが正義にかなっている」という考えによって免罪される。しかし、戦争による殺人は「戦争を起こした人間」「戦争を起こす原因を作った人間」が主犯となるのは当然である。しかしまた、「敗戦国の政治責任者」だけが裁かれるというのは正義にかなっていない。
「戦争でカネ稼ぎをするために戦争を煽った資本家たち」が実は一番の戦争責任者だと私は思っているが、それを裁く術(すべ)は無い。まあ、近代の戦争はすべて誰かのカネ稼ぎのために起こされていると私は思っている。もちろん、政治責任者の罪も大きい。

なお、私は殺人の中でも、当人が希望した「尊厳死」「安楽死」をさせることは「自殺幇助」であり、「殺人」とは別のものだと見做している。つまり、これ(自殺幇助)は犯罪ではない、と見るわけだが、場合によっては「自殺幇助」だという立証が困難なこともあるだろう。





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