建文皇帝は、太祖高皇帝(洪武帝)の正嫡の孫である。父太子が太祖に継ぐべきであったが、夭折しなさったので、洪武三十一年に孫君を即位させて、翌年を建文元年となさった。帝は時に十六歳である。思慮深く温和な人柄であった。
太祖(洪武帝)が言うには「私は乱世(元末の乱世)を治めたので、刑を重くせざるを得なかった。お前は平世を治めるのだから、刑を軽くするがよい」と。建文帝刑官に向かっていわく、「それ律は大法を設け、礼は人情に従う。民を整えるに刑をもってするは礼をもってするに如かず。天下有司(諸官僚)に諭し、務めて礼教を尊び、疑獄を赦(ゆる)し、朕があらゆる方面、人々と共にするのを喜ぶ意に叶うようにせしめよ」と。その、民に慈であり、性質の温良なこと、このごとくであった。
このような人柄であったにも関わらず、帝となって帝位を保つことができず、死後に、その在位の記録すら長い間歴史から消されていたこと、廟も墓もないままであったことは、歴史の、あるいは運命の残酷さの一例だろうか。
建文帝が国を譲らざるを得なくなった、その最初の原因は、太祖(洪武帝)が諸子を封ずる(領土を与える)ことが過当であり、その領土が広く、その権力が過大であったことによる。
太祖は天下を平定した後、前代の宋や元の転覆した原因を考え、宗室の孤立はその無力の原因であるとして、子供たちを多く四方に封じて兵馬の権を得させ、それによって帝室の守りとさせ、都を共に守らせようとしたのである。これは無理の無い理屈であり、兵馬の権が他人の手に落ち、貨幣や穀物の利益が宗室の所有とならず、諸侯が外に驕り、その間に奸邪の輩がはびこるならば、一朝、事有る場合には都城を守ることができず、宗廟は失われるに至るだろう。
というわけで、洪武帝は、第二子から第二十五子に至るまで、秦王、晋王、燕王、その他の諸王とした。この第4子燕王が後の永楽帝、つまり、建文帝との闘争に勝って帝位に就いた王である。洪武帝の第4子とは、建文帝の叔父にあたる。
(注)未校正、未添削のまま載せるので、誤記や不適切な記述もたくさん出て来る。それらは随時校閲訂正していく予定。
太祖(洪武帝)が言うには「私は乱世(元末の乱世)を治めたので、刑を重くせざるを得なかった。お前は平世を治めるのだから、刑を軽くするがよい」と。建文帝刑官に向かっていわく、「それ律は大法を設け、礼は人情に従う。民を整えるに刑をもってするは礼をもってするに如かず。天下有司(諸官僚)に諭し、務めて礼教を尊び、疑獄を赦(ゆる)し、朕があらゆる方面、人々と共にするのを喜ぶ意に叶うようにせしめよ」と。その、民に慈であり、性質の温良なこと、このごとくであった。
このような人柄であったにも関わらず、帝となって帝位を保つことができず、死後に、その在位の記録すら長い間歴史から消されていたこと、廟も墓もないままであったことは、歴史の、あるいは運命の残酷さの一例だろうか。
建文帝が国を譲らざるを得なくなった、その最初の原因は、太祖(洪武帝)が諸子を封ずる(領土を与える)ことが過当であり、その領土が広く、その権力が過大であったことによる。
太祖は天下を平定した後、前代の宋や元の転覆した原因を考え、宗室の孤立はその無力の原因であるとして、子供たちを多く四方に封じて兵馬の権を得させ、それによって帝室の守りとさせ、都を共に守らせようとしたのである。これは無理の無い理屈であり、兵馬の権が他人の手に落ち、貨幣や穀物の利益が宗室の所有とならず、諸侯が外に驕り、その間に奸邪の輩がはびこるならば、一朝、事有る場合には都城を守ることができず、宗廟は失われるに至るだろう。
というわけで、洪武帝は、第二子から第二十五子に至るまで、秦王、晋王、燕王、その他の諸王とした。この第4子燕王が後の永楽帝、つまり、建文帝との闘争に勝って帝位に就いた王である。洪武帝の第4子とは、建文帝の叔父にあたる。
(注)未校正、未添削のまま載せるので、誤記や不適切な記述もたくさん出て来る。それらは随時校閲訂正していく予定。
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