脳内世界の冒険では、いくつになっても新しい驚きがある。無知な人間ほど、新しい発見に出会う喜びも多いわけだ。もちろん、知識の多い人間でもその知識は限定されているのだから、関心の幅を広げれば、喜ばしい出会いもたくさんある。
さすがにこの年になると、今から音楽の勉強をしたり科学の勉強をしたりするつもりもないが、小説を読むにしても、未読の傑作は無数にあるわけである。まあ、「食わず嫌い」を少し治すだけでも、脳内世界は広がるのである。
などと書いたのは前置きで、ここのところ、これまで知らなかった傑作に出会うことが多いので、こうした前置きを書いたわけだ。で、その傑作の多くは、市民図書館の「児童文学」コーナーでたまたま借りた本の中にあったものだ。大人向けだと、実は「純文学」が少なくて、ここ30年くらいの間に出たベストセラー大衆小説の類が多いのである。その中には傑作もあるが、残念ながら、やはり「俗臭」が付きまとうのが大半だ。ところが、児童文学には実は「純文学」の傑作が含まれていたりするのである。
先ほど、寝床の中で読んでいた「ホラー短編集3 最初の舞踏会」の中のひとつで、シュペルヴィエルという作家の「沖の少女」という作品が、その大傑作なのだが、私はこの作家の作品を読むのも初めてで、名前は聞いたこともある気がするが、まったく関心は無かった。この短編集の中に無かったら、一生この作家の作品を読むことは無かっただろう。つまり、この大傑作を一生知らずに終わるという残念なことになったわけだ。
この短編集の編者でもある平岡敦という人の翻訳だが、他の作品の翻訳も見事で、作品選択も素晴らしい。モーリス・ルブランの「怪事件」というわずか8ページで見事な不可能犯罪を描いたものなど、ルブラン嫌い(というよりルパンのキャラが嫌い)な私としては、この短編集に入ってなかったら絶対に読まなかったはずだ。まったく、どこからどう考えても絶対に不可能な犯罪で、私は最後の2ページ手前で読むのをやめ、頭を悩ませて考えたのだが、どうしても解答が見いだせずあきらめたのだが、残り2ページでのその見事な「解決」に驚き、感嘆したものである。しかも、その解答は、あらゆる推理小説、あるいはすべての不可能犯罪の解答として見事に成立するのである。まあ、騙されたと思って読んでみるといい。
話を戻して「沖の少女」だが、その作品の扉絵を佐竹美保という挿絵画家が描いていて、この人は児童文学の挿絵をたくさん描いているひとだが、この作品ではキリコの「憂愁と神秘の通り」をアレンジした絵を描いている。まさに、そのイメージを連想させる短編小説なのである。つまり、詩と神秘の世界だ。死という神秘の世界と言ってもいい。まさに、死とはこういう世界かもしれない、あるいは、死がこういう世界だとしたら、それは地獄よりも恐怖の世界かもしれない、というもので、しかし、話自体は淡々と、むしろ詩情の中で進んでいくのである。それはまさにキリコのあの絵を見ている時の気持ちなのだ。まあ、言葉を換えれば、萩原朔太郎や中原中也や立原道造や宮沢賢治の詩情を思わせる世界の中に「地下鉄のザジ」を投げ込んだ印象だろうか。ただ、ザジが実は地下鉄に一度も乗れないように、この少女も生の世界から切り離されているのである。
さすがにこの年になると、今から音楽の勉強をしたり科学の勉強をしたりするつもりもないが、小説を読むにしても、未読の傑作は無数にあるわけである。まあ、「食わず嫌い」を少し治すだけでも、脳内世界は広がるのである。
などと書いたのは前置きで、ここのところ、これまで知らなかった傑作に出会うことが多いので、こうした前置きを書いたわけだ。で、その傑作の多くは、市民図書館の「児童文学」コーナーでたまたま借りた本の中にあったものだ。大人向けだと、実は「純文学」が少なくて、ここ30年くらいの間に出たベストセラー大衆小説の類が多いのである。その中には傑作もあるが、残念ながら、やはり「俗臭」が付きまとうのが大半だ。ところが、児童文学には実は「純文学」の傑作が含まれていたりするのである。
先ほど、寝床の中で読んでいた「ホラー短編集3 最初の舞踏会」の中のひとつで、シュペルヴィエルという作家の「沖の少女」という作品が、その大傑作なのだが、私はこの作家の作品を読むのも初めてで、名前は聞いたこともある気がするが、まったく関心は無かった。この短編集の中に無かったら、一生この作家の作品を読むことは無かっただろう。つまり、この大傑作を一生知らずに終わるという残念なことになったわけだ。
この短編集の編者でもある平岡敦という人の翻訳だが、他の作品の翻訳も見事で、作品選択も素晴らしい。モーリス・ルブランの「怪事件」というわずか8ページで見事な不可能犯罪を描いたものなど、ルブラン嫌い(というよりルパンのキャラが嫌い)な私としては、この短編集に入ってなかったら絶対に読まなかったはずだ。まったく、どこからどう考えても絶対に不可能な犯罪で、私は最後の2ページ手前で読むのをやめ、頭を悩ませて考えたのだが、どうしても解答が見いだせずあきらめたのだが、残り2ページでのその見事な「解決」に驚き、感嘆したものである。しかも、その解答は、あらゆる推理小説、あるいはすべての不可能犯罪の解答として見事に成立するのである。まあ、騙されたと思って読んでみるといい。
話を戻して「沖の少女」だが、その作品の扉絵を佐竹美保という挿絵画家が描いていて、この人は児童文学の挿絵をたくさん描いているひとだが、この作品ではキリコの「憂愁と神秘の通り」をアレンジした絵を描いている。まさに、そのイメージを連想させる短編小説なのである。つまり、詩と神秘の世界だ。死という神秘の世界と言ってもいい。まさに、死とはこういう世界かもしれない、あるいは、死がこういう世界だとしたら、それは地獄よりも恐怖の世界かもしれない、というもので、しかし、話自体は淡々と、むしろ詩情の中で進んでいくのである。それはまさにキリコのあの絵を見ている時の気持ちなのだ。まあ、言葉を換えれば、萩原朔太郎や中原中也や立原道造や宮沢賢治の詩情を思わせる世界の中に「地下鉄のザジ」を投げ込んだ印象だろうか。ただ、ザジが実は地下鉄に一度も乗れないように、この少女も生の世界から切り離されているのである。
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