「武田邦彦のブログ」から転載。
武田邦彦は学者と言うよりは科学ジャーナリストに近い立ち位置の人間だと思う。彼は、いわゆる「陰謀論」と呼ばれる考え方をも否定していないところが、アカデミックな人間には嫌われ、また考え方が穏健で常識的なところが、戦闘的原発否定論者などからは嫌われる、という風に、なかなか敵の多い人間なのだが、どうも世間の人間は、「味方であったはずの人間が少しでも敵に有利な言動をすると、その人間を全否定し、敵陣営の仲間と見做す」という性向があり、それが、社会改革運動がほとんど常に内部分裂する原因になるようだ。
私などのように「テーゲー主義(いい加減主義)」の人間だと、味方を減らすよりはむしろ「敵の中から味方を増やしていく」ことが大事だと思うし、「多少の欠点や失敗があっても、仲間は仲間」として付かず離れずで付き合う方が好みである。
どうも世間の人間は愛憎の念が強すぎるという印象がある。私が心から嫌うのは橋下や石原や前原など、ごく少数の人間だけである。その連中にしても、ある種の才能のある人間だという評価はしている。ただ、その存在自体が明らかに日本国民にとって害悪になるから、彼らに関してははっきりと「日本国民の敵」と見ているのである。はっきり言えば、彼らはこの世にいない方が日本のためであり、彼らが一日でも長く生きれば生きるほど、日本の害になる。もちろん、小泉・竹中も同様であるが、彼らは今は第一線にいないから無視できるというだけだ。
さて、話が長くなったが、下記記事は私好みの文章である。
私は、「思考することについて思考する」というテーマの文章が大好きなのだ。
で、下の文章にはレトリックとしても私好みの部分がある。それは、「『正しいこと』をしたら、その結果は(一部の人にとって)最悪だった」という逆説である。
社会全体の衛生状態を良くするのは「正しいこと」だ。しかし、その結果はアレルギー症状の社会への蔓延である。花粉症などもその一つであるようだ。昔の、埃やバイキンだらけの社会で育った人間はアレルギーへの耐性があるが、衛生的な社会で育った人間は容易にアレルギー症状になる、というわけである。
これを敷衍すれば、「すべての面で完全な解決策は無い」と考えるのがほとんどあらゆる問題において我々が持つべき基本姿勢ではないだろうか。
我々が学校教育から得た悪影響の一つが、「完全な解答はある」という幻想だろう。これは本当は、数学のような「数学的仮定を前提とした場合」には完全な解答があるというだけだのに、それ以外の、たとえば社会的問題にまで完全な解答があるとつい考えてしまう悪癖を、社会の成員の大半が持ってしまったということだ。
これを、うまく最初の話にこじつけるならば、人間の評価についても同じことが言えるわけで、映画「お熱いのがお好き」のラストシーンで大口ブラウンが言う名言「完全な人間はいないさ」ということである。
(以下引用)
「正しい」とはなにか?横糸編(2) スギ花粉症
「tadashii02_kafuntdyno.109-(12:28).mp3」をダウンロード
スギ花粉症、アレルギー性鼻炎、アトピーなどが増え始めたのは、1970年代からです。この理由は「スギ花粉症」については二つあります. 一つは高度成長によって日本の家庭生活が格段に衛生的になり、「体内異物濃度」が下がったので、体内の免疫系が崩れて、少しの異物が入っても激しく反応する人が出てきたことです。
もともと人間は土ほこり、田畑の蒔いた汚穢が乾燥して飛んでくる異物、土の中の微生物やミミズの排泄物が舞い上がって入る異物など多種多様の異物が体内に入る「汚い環境」で生活するようにできていました。
ところが、水洗トイレ、下水道、舗装道路、冷蔵庫などが完備して衛生的になると、「医学的に衛生的にすることはアレルギー疾患を増やすことだということがわからず、さらにはその治療法も不明」という状態に陥ったのです.
人間の知恵は浅はかで、「衛生的な環境」というのが人間にとって全体として良いことがわかっても、それをすることによってどのような副作用が起きるかまでは「わからない」か「考えない」ものです。だから、「衛生的にする」というのは誰もが賛成しますが、そのことによってアトピーになって困る子どもの事まで心配する人はいないのです.
つまり、アトピーで苦しんだ人はある意味では「衛生的な環境が良い」と主張した医師の被害者ということがわかります。この考え方(全体が正しければ、一部の被害者は無視するのが正義)はかなり根強く、今回の福島の原発や原発再開問題でも顕著に見られます.
また「正しい」というのはかなりいい加減で、人間は「現在正しいこと」を追求しがちであり、「正しいことが行われた後でも、それは正しいか」などとは考えないということもわかります。
・・・・・・・・・
スギ花粉症はさらにもう一つの原因がありました。それは「環境団体が森林を破壊した」ということです。マイ箸運動や紙のリサイクルが森林を破壊する原因を作りました. 植林したスギは適切に伐採して利用しないと30年から40年経つと子孫を残すために花粉を出します.
また、森林は1平方キロメートルあたり、1年に150立方メートルの「樹木」が育ちます、育つ樹木のほとんどが間引き、枝打ち、枝、材木を取るときに樹木は丸いけれど材木は四角などの原因で「材木としては使えないもの」で、それは120立方メートルにも及びます.
つまり、森林に植える樹木の利用率は20%しかないので、森林を破壊しないためには以下にして80%の「端材や枝など」を利用するかにかかっています.それが割り箸、紙、合板だったのです。
将来、遺伝子の操作によって「間引かなくても良いスギ」というのができるかも知れませんが、自然の状態のスギは小さい頃は過密に植えて、それを徐々に間引いていかないと太いスギができず、従って材木がとれません。
また時々枝打ちをしないと節ばかりの木材になってしまいます。このような森林の実体を全く考えず、利権や天下りのために環境団体が「伐採するな」と叫んだことが日本の森林の破壊につながったのです.環境団体による犯罪と言えます.
1960年には日本人が使用する紙は100%、すべて日本の森林から取っていたのですが、今では10%しか利用されていません。つまり日本の環境団体は日本の森林を破壊したばかりで無く、外国の発展途上国の森林の乱伐にも手を貸したのです.
比較的良心的な人が多い環境団体がなぜこのような環境破壊と犯罪を起こしたのでしょうか? この場合の「正しさ」とはなんなのでしょうか?
「環境を守る事は正しい」ということは、百歩譲れば正しいかも知れませんが、「環境を守るとはどういうことか?」を考えなければならず、「日本の森林はどうあるべきか?」も必要です。
ところが「環境を守る事は正しい」までは良かったかも知れないのですが、「俺たちが正しいと思うことは正しいのだ。だって、環境を守るという正しいことをしているからだ」という循環論法に陥っていたのが環境団体だったと言うことになります。
環境を大切にしたいという人は「良い人」が多いので、「環境運動は悪だ」とは言いにくいところがあります。しかしそれが落とし穴になることがあり、「地獄への道は善意で舗装されている」ということも思い出す必要があります。
・・・・・・・・
スギ花粉症は「人知の及ばざることが起こった」のでは無く、「シッカリ考えて議論すればわかったことを強引にやったから多くの人を苦しめた」問うことであり、明らかな「悪」が存在します。次のことを厳しく考えることでしょう。
1.大勢の人にとって良ければ少数の人は犠牲になっても良い(野蛮)、
2.子供のような力の弱い人が苦しんでも無視すれば良い(野蛮)、
3.科学的なことは考えずに好き嫌いでやれば良い(野蛮)、
4.人が言っていたらその空気に従っておいた方が良い(野蛮)
そしてみんなで首からマイ箸をぶら下げ、森林を破壊しました。そして今まだ「花粉が爆発する」(花粉が普通にはじけること)などと不適切な発言をする専門家とそれを報道する情けないメディアが手を貸したことも不幸でした。
日本のような森林国家の場合、子どもや孫の時代も含めて森林とどう生活するかは大切な問題です。そのためには、
1)森林の所有権を統合する、
2)公共物としての森林を合意する、
3)人間と自然が共存できるように地形を変える、
4)植物が生育し、人間が利用するという原則を確認する、
5)山奥の自然林と麓の人工林を区別する、
などのあたり前の「正しさ」をまずは議論する必要があり、それでこそ始めて「花粉症の被害を食い止める」ということができると考えられます。正しさに到達する道は時として遠回りです。金網の向こうにバナナがあるからと言って金網から直接、手を伸ばす下等哺乳類のような行動(花粉の少ないスギ)では無く、金網を回って取りに行くこと(森林の利用)が到達ルートというわけです。
(平成25年3月17日)
武田邦彦は学者と言うよりは科学ジャーナリストに近い立ち位置の人間だと思う。彼は、いわゆる「陰謀論」と呼ばれる考え方をも否定していないところが、アカデミックな人間には嫌われ、また考え方が穏健で常識的なところが、戦闘的原発否定論者などからは嫌われる、という風に、なかなか敵の多い人間なのだが、どうも世間の人間は、「味方であったはずの人間が少しでも敵に有利な言動をすると、その人間を全否定し、敵陣営の仲間と見做す」という性向があり、それが、社会改革運動がほとんど常に内部分裂する原因になるようだ。
私などのように「テーゲー主義(いい加減主義)」の人間だと、味方を減らすよりはむしろ「敵の中から味方を増やしていく」ことが大事だと思うし、「多少の欠点や失敗があっても、仲間は仲間」として付かず離れずで付き合う方が好みである。
どうも世間の人間は愛憎の念が強すぎるという印象がある。私が心から嫌うのは橋下や石原や前原など、ごく少数の人間だけである。その連中にしても、ある種の才能のある人間だという評価はしている。ただ、その存在自体が明らかに日本国民にとって害悪になるから、彼らに関してははっきりと「日本国民の敵」と見ているのである。はっきり言えば、彼らはこの世にいない方が日本のためであり、彼らが一日でも長く生きれば生きるほど、日本の害になる。もちろん、小泉・竹中も同様であるが、彼らは今は第一線にいないから無視できるというだけだ。
さて、話が長くなったが、下記記事は私好みの文章である。
私は、「思考することについて思考する」というテーマの文章が大好きなのだ。
で、下の文章にはレトリックとしても私好みの部分がある。それは、「『正しいこと』をしたら、その結果は(一部の人にとって)最悪だった」という逆説である。
社会全体の衛生状態を良くするのは「正しいこと」だ。しかし、その結果はアレルギー症状の社会への蔓延である。花粉症などもその一つであるようだ。昔の、埃やバイキンだらけの社会で育った人間はアレルギーへの耐性があるが、衛生的な社会で育った人間は容易にアレルギー症状になる、というわけである。
これを敷衍すれば、「すべての面で完全な解決策は無い」と考えるのがほとんどあらゆる問題において我々が持つべき基本姿勢ではないだろうか。
我々が学校教育から得た悪影響の一つが、「完全な解答はある」という幻想だろう。これは本当は、数学のような「数学的仮定を前提とした場合」には完全な解答があるというだけだのに、それ以外の、たとえば社会的問題にまで完全な解答があるとつい考えてしまう悪癖を、社会の成員の大半が持ってしまったということだ。
これを、うまく最初の話にこじつけるならば、人間の評価についても同じことが言えるわけで、映画「お熱いのがお好き」のラストシーンで大口ブラウンが言う名言「完全な人間はいないさ」ということである。
(以下引用)
「正しい」とはなにか?横糸編(2) スギ花粉症
「tadashii02_kafuntdyno.109-(12:28).mp3」をダウンロード
スギ花粉症、アレルギー性鼻炎、アトピーなどが増え始めたのは、1970年代からです。この理由は「スギ花粉症」については二つあります. 一つは高度成長によって日本の家庭生活が格段に衛生的になり、「体内異物濃度」が下がったので、体内の免疫系が崩れて、少しの異物が入っても激しく反応する人が出てきたことです。
もともと人間は土ほこり、田畑の蒔いた汚穢が乾燥して飛んでくる異物、土の中の微生物やミミズの排泄物が舞い上がって入る異物など多種多様の異物が体内に入る「汚い環境」で生活するようにできていました。
ところが、水洗トイレ、下水道、舗装道路、冷蔵庫などが完備して衛生的になると、「医学的に衛生的にすることはアレルギー疾患を増やすことだということがわからず、さらにはその治療法も不明」という状態に陥ったのです.
人間の知恵は浅はかで、「衛生的な環境」というのが人間にとって全体として良いことがわかっても、それをすることによってどのような副作用が起きるかまでは「わからない」か「考えない」ものです。だから、「衛生的にする」というのは誰もが賛成しますが、そのことによってアトピーになって困る子どもの事まで心配する人はいないのです.
つまり、アトピーで苦しんだ人はある意味では「衛生的な環境が良い」と主張した医師の被害者ということがわかります。この考え方(全体が正しければ、一部の被害者は無視するのが正義)はかなり根強く、今回の福島の原発や原発再開問題でも顕著に見られます.
また「正しい」というのはかなりいい加減で、人間は「現在正しいこと」を追求しがちであり、「正しいことが行われた後でも、それは正しいか」などとは考えないということもわかります。
・・・・・・・・・
スギ花粉症はさらにもう一つの原因がありました。それは「環境団体が森林を破壊した」ということです。マイ箸運動や紙のリサイクルが森林を破壊する原因を作りました. 植林したスギは適切に伐採して利用しないと30年から40年経つと子孫を残すために花粉を出します.
また、森林は1平方キロメートルあたり、1年に150立方メートルの「樹木」が育ちます、育つ樹木のほとんどが間引き、枝打ち、枝、材木を取るときに樹木は丸いけれど材木は四角などの原因で「材木としては使えないもの」で、それは120立方メートルにも及びます.
つまり、森林に植える樹木の利用率は20%しかないので、森林を破壊しないためには以下にして80%の「端材や枝など」を利用するかにかかっています.それが割り箸、紙、合板だったのです。
将来、遺伝子の操作によって「間引かなくても良いスギ」というのができるかも知れませんが、自然の状態のスギは小さい頃は過密に植えて、それを徐々に間引いていかないと太いスギができず、従って材木がとれません。
また時々枝打ちをしないと節ばかりの木材になってしまいます。このような森林の実体を全く考えず、利権や天下りのために環境団体が「伐採するな」と叫んだことが日本の森林の破壊につながったのです.環境団体による犯罪と言えます.
1960年には日本人が使用する紙は100%、すべて日本の森林から取っていたのですが、今では10%しか利用されていません。つまり日本の環境団体は日本の森林を破壊したばかりで無く、外国の発展途上国の森林の乱伐にも手を貸したのです.
比較的良心的な人が多い環境団体がなぜこのような環境破壊と犯罪を起こしたのでしょうか? この場合の「正しさ」とはなんなのでしょうか?
「環境を守る事は正しい」ということは、百歩譲れば正しいかも知れませんが、「環境を守るとはどういうことか?」を考えなければならず、「日本の森林はどうあるべきか?」も必要です。
ところが「環境を守る事は正しい」までは良かったかも知れないのですが、「俺たちが正しいと思うことは正しいのだ。だって、環境を守るという正しいことをしているからだ」という循環論法に陥っていたのが環境団体だったと言うことになります。
環境を大切にしたいという人は「良い人」が多いので、「環境運動は悪だ」とは言いにくいところがあります。しかしそれが落とし穴になることがあり、「地獄への道は善意で舗装されている」ということも思い出す必要があります。
・・・・・・・・
スギ花粉症は「人知の及ばざることが起こった」のでは無く、「シッカリ考えて議論すればわかったことを強引にやったから多くの人を苦しめた」問うことであり、明らかな「悪」が存在します。次のことを厳しく考えることでしょう。
1.大勢の人にとって良ければ少数の人は犠牲になっても良い(野蛮)、
2.子供のような力の弱い人が苦しんでも無視すれば良い(野蛮)、
3.科学的なことは考えずに好き嫌いでやれば良い(野蛮)、
4.人が言っていたらその空気に従っておいた方が良い(野蛮)
そしてみんなで首からマイ箸をぶら下げ、森林を破壊しました。そして今まだ「花粉が爆発する」(花粉が普通にはじけること)などと不適切な発言をする専門家とそれを報道する情けないメディアが手を貸したことも不幸でした。
日本のような森林国家の場合、子どもや孫の時代も含めて森林とどう生活するかは大切な問題です。そのためには、
1)森林の所有権を統合する、
2)公共物としての森林を合意する、
3)人間と自然が共存できるように地形を変える、
4)植物が生育し、人間が利用するという原則を確認する、
5)山奥の自然林と麓の人工林を区別する、
などのあたり前の「正しさ」をまずは議論する必要があり、それでこそ始めて「花粉症の被害を食い止める」ということができると考えられます。正しさに到達する道は時として遠回りです。金網の向こうにバナナがあるからと言って金網から直接、手を伸ばす下等哺乳類のような行動(花粉の少ないスギ)では無く、金網を回って取りに行くこと(森林の利用)が到達ルートというわけです。
(平成25年3月17日)
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