つまり、宋学とは蒙古に滅ぼされかけた南宋の儒学者たちが南宋こそ正統の王朝である、と主張するために構築した「尊王賤覇」の思想だという発言を司馬はしているのだが、この場合の「覇」が蒙古であり、それが日本では「江戸幕府」、あるいは天皇王朝とは別の政府を作った武家政権ということになるのだろう。もちろん、「王道」を尊重し「覇道」を忌避するのは儒教の伝統でもある。
要するに、宋学(朱子学、陽明学)の哲学とはまったく無関係な「政治的名目(手段)」として宋学が水戸学化したのではないか。つまり「為にせんが為の論」だったと思う。ただし、それは水戸藩に江戸幕府打倒の意志があったというより、当人たちは「学問の純粋性を追求していった結果、江戸幕府に不利な結果が出ても、それは仕方が無いことだ」と思っていたのかもしれない。その水戸学が討幕の名目として革命派に採用されたわけである。
で、その革命はまったく「民衆革命」でも何でもなく、革命派は庶民生活などどうでもいいと思っていたということを私は確信している。(「五か条の御誓文」の中に四民平等の項を入れたのが誰の案か知らないが、日本の民主主義の恩人だろう。)薩長の藩主など、自分が日本国王になれるつもりでいたのではないかwww まあ、その頃には、もはや武士という「非生産階級」を維持することが不可能な状態になっていたということで、実は江戸幕府は倒れるべくして倒れたのだと思う。手塚治虫の「日溜まりの樹」で言うように、江戸幕府という見かけの立派な巨大な樹はすでに内部が腐ってぼろぼろになっていたわけだ。
朱子学とは。概要や考え方を簡単に紹介
12世紀の中国・南宋の儒学者だった朱熹(しゅき)によって構築された、儒教の新しい体系「朱子学」。この名称はもっぱら日本で使われていて、中国では朱熹の先駆者である北宋の儒学者、程頤(ていい)とあわせて「程朱学」と呼ぶのが一般的です。
朱熹は孔子に代表される古典や宋学に加えて、従来の儒学では考えられていなかった宇宙や世界などの概念を取り込み、儒教の再構築を図りました。
朱子学の基本は、世の中のすべてのものや事柄は「理」と「気」の2つからなるとする「理気二元論」というものです。「理」は万物がこの世に存在する根拠を指し、「気」は万物を構成する物質を指します。
両者はまったく別の存在ですが、お互いに単独では存在することができず、付かず離れずの距離で相互に作用しあう「不離不雑」の関係とされています。
また「気」は常に運動しているもので、運動量の大きな時を「陽」、小さな時を「陰」と呼びました。陰陽の2つの気が凝集して火・土・木・金・水の「五行」となり、その組み合わせによって万物が生み出されるとしたのです。「理」は根本的なもので、これらの「気」の運動に対し秩序を与える存在だと考えられました。
この「理気二元論」から朱熹が導き出したのが、「性即理説」です。「性」は人間の本質で、静かな状態のもの。「性」は「理」であるとしました。
しかしこの「性」が動くことで「情」となり、動きが激しくなってバランスを崩すと「欲」になると考え、「情」は「気」であるとしています。
また「欲」は悪であり、人は絶えず「情」をコントロールし、「性」に戻す努力をする必要があると説いているのです。
朱子学の欠点、問題点とは
13世紀のなかばになると朱子学は科挙試験に採用されるようになり、さらに明の時代には国家認定の学問となって中国で広く学ばれるようになりました。
しかしそれは、朱熹が目指していた学問の姿からはほど遠く、科挙に合格するための勉強となってしまいます。成績のよい者が優遇される学歴社会、官僚社会を生み出すもととなってしまいました。
また「理」や「礼」を重んじる朱子学は、統治する側にとって都合のよいものとされ、社会の秩序を統制するために利用されるようになってしまいます。
古来より中国では、「諸子百家」と呼ばれるほど数多くの思想や学説が許容されることで、社会が発展してきたという歴史がありました。しかし朱子学が広がっていくと、それ以外の学問が排斥されるようになり、思想統制の時代へと変わっていったのです。その結果、中国社会の停滞や、ゆるやかな弱体化に繋がっていったと指摘する専門家もいます。
また朱子学は朝鮮へも伝播し、朝鮮王朝の国家統治理念として用いられました。朝鮮は高麗時代の国教であった仏教を排斥し、朱子学を唯一の国家公認の学問とします。
朱子学を学んだ知識人層は両班(やんばん)と呼ばれる身分階層を形成し、仏教だけでなく同じ儒教の一派である陽明学さえも異端として激しく弾圧しました。朝鮮では中国以上に朱子学にもとづく社会の統制が強固になり、それがかえって朝鮮の近代化を阻む要因となったともいわれています。
朱子学はいつ日本にやってきた?江戸時代に与えた影響は
日本に朱子学が伝わってきたのは、鎌倉時代だといわれています。1199年に宋へ渡り、真言宗泉涌寺派の宗祖となる俊芿(しゅんじょう)によって持ち込まれたというのが一般的な説です。
鎌倉時代の後期には、五山を中心とする学僧たちの基礎的な学問として広がっていたよう。後醍醐天皇や楠木正成も熱心に学んでいて、鎌倉幕府の滅亡から建武の新政にかけて、朱子学にもとづいていると考えられる行動が多く見られました。
室町時代には1度下火になりますが、江戸時代に入ると初代将軍の徳川家康に登用された林羅山(はやしらざん)によって再興され、幕藩体制の基礎理念として幕府公認の学問となります。
5代将軍の徳川綱吉は、朱子学を講じる湯島聖堂を建設。さらに11代将軍の徳川家斉に仕えた松平定信が「寛政異学の禁」で朱子学以外の学問を規制するなど、日本における全盛期を迎えます。
しかし皮肉なことに、幕府が後押しをしたことで「天皇を中心とした国造りをするべきだ」という尊王論が起こり、倒幕へと繋がっていくこととなりました。
朱子学と陽明学の違いとは
朱子学とよく対比されるのが、中国の明代に王陽明が起こした「陽明学」です。朱子学が唱える「性即理」に対し、陽明学は「心即理」という考え方を唱えています。
「心即理」は、南宋時代の儒学者・陸象山(りくしょうざん)が定義したもので、朱子学が心を「性」と「情」に分け、「性」こそ「理」としたのに対し、心は分けるものではなく、「心そのもの」こそが「理」だとました。
わかりやすくまとめると、朱子学は「知の学問」で、陽明学は「心の学問」ともいえるでしょう。
権威に従い、秩序を重んじる朱子学が統治者に好まれたのに対し、権威に盲従するのではなく、自分の責任で行動する心の自由を唱えた陽明学は、自己の正義感に捉われ、秩序に反発する革命思想家に好まれる傾向がありました。
日本においても、大塩平八郎や吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛などが陽明学の影響を強く受けていたといわれています。