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年頭所感(日月神示を参考に)

ウィキペディアから「日月神示」の内容の一部を転載する。
「日月神示」を信じているわけではないが、ここに書かれたことは人生訓として聞くに値するものだと思うから、年の初めにふさわしいかと思って今日の記事にするわけだ。
その内容について、最初に少し論評しておく。

我々は自然を尊び、人事においても自然であることを評価するのに、なぜか「奇跡」を凄いこと、素晴らしいことのように思う傾向がある。自然が素晴らしいなら、「反自然」である奇跡は、悪のはずだ。しかも、新興宗教の教祖などが起こす奇跡とやらは、たいていが集団催眠の類である。

下記記事中で特に現在の日本の状況から懸念されるのが、「神国から生まれる食べ物頂きて」がTPPによって不可能になりそうなことだ。農薬や化学肥料で作られた作物が「正しき食物」であるかどうかも問題だろう。せめて節食するくらいしか我々凡人にはできそうもないが、これも実はむずかしい。まあ、なるべく肉食を減らし、食事の量を減らすように心がけるしかないだろう。実際、現代医学の教えから言っても、それは健康を保つ重要なポイントのようである。

我々の体(精神も体の一部だ)が、神からの頂き物だというのは、現代人にとっては、その「神」が何なのかの定義をまずして欲しいと思うところだが、そういうのが理屈に汚染された思考なのかもしれない。とりあえず、我々が偶然的にこの世界に生まれた、本来どうでもいいような生命であると考えるよりは、神からの頂き物だと考える方が、自分自身をも、他者をも尊重する気持ちになれそうである。これは、「我々自身の中に神はある」という私の考えと、そう大きく隔たってはいない。

「明日のことに心使ふなよ。心は配れよ。取越苦労するなよ。」というあたりは、「気を使うな。頭を使え」という私のモットー(これは私の兄から習った)とほぼ同じである。我々は考えているつもりで、実は頭が空回りし、感情エネルギーを消耗しているだけ、という状態がよくある。グルジェフ流に言えば、知性のセンターを発動させるべきところに感情のセンターが働いている、ということだが、知性(論理思考)と感情をはっきり区別する習慣をつけるのは、人生のさまざまな局面で役に立つはずである。

「日月神示」の記述は癖の強い文体だし、そもそもそういう神がかった事を嫌う人には無縁の話題だが、その言っていること自体には、我々の日常生活にも役立つ叡智の言葉もかなりあると言えそうだ。






(以下引用)




同様に既成宗教では神の「しるし」や「証し」として重要視、神聖視されている奇跡であるが、これについても完全に否定、いくつかの帖で言及され、奇跡やこれらを求め信じる人に大きな警鐘を鳴らしている。「二日んの巻」第十三帖では「地獄的下級霊の現われには、多くの奇跡的なものをふくむ。奇跡とは大いなる動きに逆行する動きの現われであること知らねばならない。かかる奇跡によりては、霊人も地上人も向上し得ない。」や「黄金の巻」第二十二帖でも「奇跡では改心出来んのであるぞ」また、「龍音の巻」第十八帖では「正神には奇跡はない、奇跡ないことが大きな奇跡であるぞ、奇跡するものは亡びる。高級霊は態度が立派であるぞ。わかりたか。」と語られている。
また、他の多くの宗教が修行の一環や、神への自己犠牲のしるしとして断食の必要性やその意義を説いているが日月神示では断食すること自体を厳しく戒めているのも注目される。「日月の巻」第三帖では「滝に打たれ断食する様な行は幽界の行ぞ。神の国のお土踏み、神国の光いきして、神国から生まれる食べ物頂きて、神国のおん仕事してゐる臣民には行は要らぬのざぞ。此の事よく心得よ。」と述べられ、滝に打たれたり、断食するような行は低い世界の行に過ぎず全く必要がないのだとされる。更に、「正しい食生活について」では「食物を食べるのも喜びであるぞ。正しき食物正しく食べよ。更に喜びふへて弥栄へるのぢゃ。悪い食物悪く食べるから悪くなるのぢゃ。何も彼も同様ぞ。人民は喜びの子と申してあろう。罪の子でないぞ。うれしうれしの道あるに、何故歩まんのぢゃ。」(春の巻第五帖)と語られている。
しかし、一方で多食や肉食についてはこれを戒めており、次のような帖もある。「食物節してこそ、ささげてこそ、運ひらけるのぢゃ。病治るのぢゃ。食物、今の半分で足りると申してあらうが。遠くて近いものヒフミの食べ方して見なされよ。運ひらけ、病治ってうれしうれしと輝くぞ。そんなこと位で、病治ったり、運開ける位なら、人民はこんなに苦しまんと申すが、それが理窟と申すもの。理窟悪と申してあるもの。低い学に囚われたメクラ、ツンボと申すものぞ。」(冬の巻捕帖)[14]「四ツ足を食ってはならん、共喰となるぞ、草木から動物生まれると申してあろう、臣民の食物は五穀野菜の類であるぞ。」(碧玉の巻第八帖)。なお肉食についてはそれを戒めつつも、次のようにも書記させている「獣の喰ひ物くふ時には一度神に献げてからにせよ、神から頂けよ、さうすれば神の喰べ物となって、何たべても大じょうぶになるのぞ」(天つ巻第五帖)。
「人間の生き方」に関しては次の記述が代表的なものであろう。
「臣民にわかる様にいうなれば、身も心も神のものざから、毎日毎日神から頂いたものと思えばよいのであるぞ、それでその身体をどんなにしたらよいかと云ふこと分かるであろうが、夜になれば眠ったときはお返ししてゐるのざと思へ、それでよく分かるであろうが。身魂みがくと申すことは、神の入れものとして神からお預りしてゐる、神の最も尊いとことしてお扱いすることぞ」(富士の巻第十四帖)。「目覚めたら其の日の生命お預りした事を神に感謝し、其の生命を神の御心のままに弥栄に仕へまつる事に祈れよ。神は其の日其の時に何すべきかに就いて教へるぞ。明日の事に心使ふなよ。心は配れよ。取越苦労するなよ。」(日月の巻第十五帖)と語られている。
更に夫婦のありかたについては次のように述べられている。
「愛は養はねばならん。夫婦はいのちがけで、お互にきづき合はねばならんぞ。夫婦愛はあるのではない。築き上げねばならんぞ。つくり出すのぢゃ。そこに尊さあるぞ。喜びあるぞ。」(春の巻第二十六帖)。「家の治まらんのは女が出るからぞ。夫立てると果報は女に来るぞ。」(黄金の巻第七十二帖)、また「妻にまかせきった夫、夫にまかせきった妻の姿となれよ。信仰の真の道ひらけるぞ。一皮むけるぞ。岩戸ひらけるぞ。不二(富士)晴れるぞ。」(黄金の巻第九十九帖)、更には「夫婦けんかするでない。夫のみいかんのでない。妻のみ悪いのでないぞ。お互に己の姿を出し合ってゐるのぞ。よく会得せよ。」(月光の巻第九帖)とあり、お互いに信頼しきった夫婦関係が大切で真の信仰の礎であると語られている。



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