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言葉と精神

私は「ネットゲリラ」常連の積雲氏のコメントは読むのが面倒くさくてほとんど読まなかったし、読んでもその意見にあまり感心したことはなかったが、直近のこのコメント(前後は省略)の内容には大いに賛同する。我々の精神(知性と教養)は伝統で作られているのであり、自国の伝統を無視した精神は軽薄な精神(あるいは異国人の精神)にしかなりようはない。
まあ、科学技術の言葉でカタカナ語が蔓延するのは時代の趨勢ではあるだろうが、その大半は「自分の知識は素人には理解できないだろう」と誇示するだけの軽薄なものではないか。もちろん、積雲氏的な文章(明治文語文的文章)で現代の科学技術の説明が可能だとはまったく思わないwww やはり、ここでも、多くの問題と同様、中庸こそが正解だろう。今は西洋文明一辺倒だから、積雲氏的姿勢は貴重である。


(以下引用)


人間は言葉で認識し、また言葉で思索する生き物である。そこでだが、高度な抽象概念は大和言葉のよくするところでは矢張りなく、漢語に頼らざるを得ないのである。話し言葉ではなく書き言葉こそが高度な抽象概念を取り扱ふことを可能にしてゐるのであるな。明治期に西洋の言葉を漢語に飜譯した明治の文豪達は、江戸期に教育を受けた人々である。哲學も共産主義も人民共和國も、皆さうした明治の文豪達の造語である。漢語の故郷支那に逆輸入もされ、今も現地で用ゐられてゐをる言葉も數多あるのである。


科學や技術の世界では新しいことがたゞしいことゝ同義であつたりもするやうだが、文系の世界にあつては寧ろ話は逆。古い方がたゞしかつたろするのである。江戸や明治の古典を踏まへないなど文化の切斷であり、踏まへないものはエセ文化、ナンチャッテ 文化に過ぎないのである。否や江戸を踏まへるどころではない。支那の古典の上に我々の文化は立脚してゐるのである。別に四書五經を踏まへるべしと主張してゐる譯ではない。古典にこそ人間文化の眞髓があるのである。古い人間、古い文體、古い語彙にこそ價値があるといふ話である。まあ價値觀は人ソレゾレではあるがの。輕薄短小であることに而已價値を認める人がゐても良いのである。別にサタンの眷族でさへなければ、のハナシである。


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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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