物の存在というものは、観測されて初めて存在が確認・証明されるわけで、聴覚の無い人には音は存在せず、盲目の人には色は存在しないのと同様である。とすれば、知覚の主体である私というものが存在しなければ、世界は存在しないと言っていい。つまり、「僕だけのいない街」ならぬ、僕だけのいない世界だ。もちろん、世界が存在していることを我々は常に実感している。おそらく、その世界は自分が存在しなくても実在しているだろう。しかし、その世界はその中に存在しない私にとっては無意味であり、実在しないも同然であるわけだ。
「色即是空 空即是色」を理解すれば仏教の本質は理解できたと言えると私は思っているが、それは、単純に「私がいなければ世界は存在しない。私がいれば世界は存在する」意味だと私は解釈している。もちろん、前に書いたように、これは「私がいなければ世界は存在しないと同じことだ」ということである。
厄介なのは「色」という言葉で表されているのが、現代の言葉では「現象」であることだ。現象という言葉の中の「象」は「形」の意味だが、「現象」が示す対象は視覚的な現象だけでないのは誰でも知っている。「色」も同様で、これは「感覚的・直感的にとらえたすべてのもの」なのである。(明治書院「新釈漢和」より)つまり、知覚された現象のすべてだ。
「色即是空 空即是色」とは、「認識の主体である私が存在しなければ世界は存在しないと見做せるし、認識主体である私が存在して初めて、私にとっての世界は存在する」という単純なことだ。
これを「苦」の面から見ると、世界が苦であるのは、私が世界を苦だと見ているからだ、ということになる。我々はそれぞれが「自分の色眼鏡」で世界を見ているわけである。世界は人間が「勝手な意味づけ」をすることで、苦楽の世界になると言っていい。野良犬や野良猫には苦も楽も無いだろう。ただし、彼らが人間より幸福かどうかは分からない。
文化とはそうした「意味づけされ装飾された世界」だとも言える。個人個人としては、その現象への意味付けが過重なものになると不幸になるわけだ。その場合、「空観」をすると精神衛生にいいだろう。つまり、この世界の「空相」を観じるわけである。そうすれば「この世界の空相は不生不滅、不垢不浄、不増不減であり、故に、空の中には色も無く、受想行識も無く、眼耳鼻舌身意も無く、色声香味触法も無い」となる。当然、悩みの対象は消滅するわけだ。
「色即是空 空即是色」を理解すれば仏教の本質は理解できたと言えると私は思っているが、それは、単純に「私がいなければ世界は存在しない。私がいれば世界は存在する」意味だと私は解釈している。もちろん、前に書いたように、これは「私がいなければ世界は存在しないと同じことだ」ということである。
厄介なのは「色」という言葉で表されているのが、現代の言葉では「現象」であることだ。現象という言葉の中の「象」は「形」の意味だが、「現象」が示す対象は視覚的な現象だけでないのは誰でも知っている。「色」も同様で、これは「感覚的・直感的にとらえたすべてのもの」なのである。(明治書院「新釈漢和」より)つまり、知覚された現象のすべてだ。
「色即是空 空即是色」とは、「認識の主体である私が存在しなければ世界は存在しないと見做せるし、認識主体である私が存在して初めて、私にとっての世界は存在する」という単純なことだ。
これを「苦」の面から見ると、世界が苦であるのは、私が世界を苦だと見ているからだ、ということになる。我々はそれぞれが「自分の色眼鏡」で世界を見ているわけである。世界は人間が「勝手な意味づけ」をすることで、苦楽の世界になると言っていい。野良犬や野良猫には苦も楽も無いだろう。ただし、彼らが人間より幸福かどうかは分からない。
文化とはそうした「意味づけされ装飾された世界」だとも言える。個人個人としては、その現象への意味付けが過重なものになると不幸になるわけだ。その場合、「空観」をすると精神衛生にいいだろう。つまり、この世界の「空相」を観じるわけである。そうすれば「この世界の空相は不生不滅、不垢不浄、不増不減であり、故に、空の中には色も無く、受想行識も無く、眼耳鼻舌身意も無く、色声香味触法も無い」となる。当然、悩みの対象は消滅するわけだ。
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