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気の赴くままにつれづれと。
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この夏ぼくは帰省して、非常に親しい関係にあるAさん、Bさん、Cさんと話す機会があった。年齢がバラバラで、いずれもぼく以外は左翼ではなく、どちらかと言えば保守的な考えの人たちである。ぼくを含めて四人が一堂に会した。
Bさん、Cさんは安倍の政治は気に入らなかったと言っていた。ところがAさんはそれに猛然と反論した。「安倍政権の何が悪かったのか言ってみろよ」と。
Bさんは気圧されたような感じだったが、「ほか、桜を見る会とか、デタラメばっかりだったじゃん」と一言言った。
Aさんは「森友問題とか加計問題とか桜を見る会とかそんなものはどうでもいい、小さなことなんだよ」と憤っていた。
ぼくはその議論の間、ずっと黙っていた。何かを言おうとも思ったのだが、様子を見ている間に話題が別に移っていってしまったのである。
Aさんは、ふだんあまり政治の話をしない人なのだが、そんなふうに思っていたのかと感じた。Cさんと二人きりになった時、「Aさんはまあ金融関係の仕事だから、アベノミクスさまさまなんじゃないのか?」と語っていた。
Aさんは、ぼくが上西とともに「ご飯論法」というワードで流行語大賞をもらっていたのをもちろん知っている。しかし、それ自身を「小さなこと」「どうでもいいこと」だと思っていたのだろう。そういう人が世の中にたくさんいるのは知っていたし、体験したりしていたが、親しいAさんもそうだったのかとなんとなくショックであった。(まあ、そのAさんでさえ、「統一協会の癒着、あれは本当に許せない」と憤っていたのだから、統一協会問題がいかに自民党政治にとって深刻な危機であるかはそこでもうかがい知れる。)
そういう体験をしてしまうと、何か深いところで挫折や諦念が不意に襲ってくる。
言葉の力を信じるようなことは無駄ではないのか、と。
本書で上西が
そう問い直していき、どのような言葉が生きた言葉として力をもつのかに注目していくことによって、「しょうがない」「どうせ」という諦念や冷笑が広がるのを押しとどめることができるのではないか。(p.220)
と述べているように、「しょうがない」「どうせ」という諦念や冷笑とたたかうことこそが、本書の隠れたテーマでもある。
そもそもぼくはAさんと対話してこなかった。「言葉」そのものを発していないのである。
そして、Aさんをめぐる身体感覚について大して理解もしてない。
だから単純にぼくはAさんと、Bさん、Cさんたちを含めて、そのとき対話をすればよかったのである。
そして、ひょっとしたら、ぼくがAさんから何か別の反作用をもらえたかもしれないのである。そういう相互作用の言葉の力をぼく自身が信じず、実践しなかった結果の「ショック」ではないのか、と思っている。
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