当人も別ツィートで言っているが、短い字数で論じられる問題ではない。ならば、ツィッターで呟くことも控えるべきだろう。短い文で言った内容が、その人の端的な意見だ、ということになる。ここでは、「人は己の意志で自己の生死を決めることが出来るのか(いや、できない)」が呟き主の考えだ、となる。で、それに対し、「安楽死は自分の意志で自分の生死を決めることだけではなく、他人の生死を決める状況も含むし、またどういう状況でそれが判断されるかにも左右される」と言うしかない。しかも、「そうよね、専門家だし」に至っては思考停止であり、この問題について呟く意味もない。「専門家」に「死ね」と言われたら従うのか?
なお、「人は己の意志で自己の生死を決めることができるのか」にはふたつの意味があり、「決めていいのか」という倫理上の問題と、「決めることが可能なのか」という可能性の問題がある。後者は当然、よほどの状況(植物人間や、難病などでそれに近い肉体的状況の人間)でないかぎり可能に決まっている。前者が問題の核心だが、前に書いたように、自分を創造神の被造物と仮定するキリスト教系(一神教系)の信者でないかぎり、決めていいにきまっている。昔の侍の自決は当時の侍の「道徳」に則った行為がほとんどであり、それは間違いだ、という権利は誰にも無い。芥川や太宰の自殺を批判する権利も誰にもない。かと言って、それらを称賛するにも当たらない。自殺は馬鹿な行為だ、という意見を持つのはいいが、それはその人の主観的判断にすぎない。
(以下引用)
なお、「人は己の意志で自己の生死を決めることができるのか」にはふたつの意味があり、「決めていいのか」という倫理上の問題と、「決めることが可能なのか」という可能性の問題がある。後者は当然、よほどの状況(植物人間や、難病などでそれに近い肉体的状況の人間)でないかぎり可能に決まっている。前者が問題の核心だが、前に書いたように、自分を創造神の被造物と仮定するキリスト教系(一神教系)の信者でないかぎり、決めていいにきまっている。昔の侍の自決は当時の侍の「道徳」に則った行為がほとんどであり、それは間違いだ、という権利は誰にも無い。芥川や太宰の自殺を批判する権利も誰にもない。かと言って、それらを称賛するにも当たらない。自殺は馬鹿な行為だ、という意見を持つのはいいが、それはその人の主観的判断にすぎない。
(以下引用)
安楽死、生命倫理、人は己の意志で自己の生死を決めることが出来るのか。昔、従弟とそういう話したこと有るなあと思ったら日経に載ってた。そうよね、専門家だし。 <「生きる権利支えて」ALS患者ら「安易な安楽死」批判:日本経済新聞
午後4:26 · 2020年7月25日Twitter Web App
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