小田嶋師のツィートだが、ここで論じられている問題について考えてみたい。
私は安楽死肯定論者であり、自殺肯定論者だが、それは人権としての自己決定権は自分の身体と生命を当然含む、という考えによる。キリスト教などのように、人間は神の被造物だから自分の生命の決定権は自分には無い、という思想はナンセンスの極みだと思っている。では、他人を殺すのも当然否定されるのか、と言えば、キリスト教国家ほど戦争に明け暮れてきた社会は無い。(十戒の「汝殺すなかれ」は同族、つまりユダヤ民族間のものであり、他民族への殺戮は神自身が命じている。)
そして、自殺というのは生きる苦痛からの単なる逃走である、という点ではあまり望ましい判断ではないとは言え、逃走するしかない苦痛というのも明白に存在する。その人の死によって家族や友人が大きな悲しみや苦痛を感じるだろう、ということを考慮したうえで、それでも自死を選ぶなら、死ぬことはその人の「権利」である、と私は思う。もっとも、青少年の間は理性より感情のほうが強烈なものだから、傍から見れば些細な理由で自殺することもあるだろうから、社会的認識力と判断力が付く三十歳くらいまでは「自殺禁止」にし、それに背いたら死刑にしたらいいwww
さて、医療における「尊厳死」の問題だが、もともとは「自分の意志で決定する能力のない植物人間状態の患者」の治療を継続するかどうか、という問題から派生した思想が「尊厳死」だったと思う。死ぬことが人間としての尊厳を守ることだ、という含意である。そこにあったのは基本的に「人間であるとは何か」という哲学的問題であり、「治療にカネがかかるから患者を殺そう」という趣旨ではなかったはずだ。下の根去氏の考えは、まさに「カネがすべて」という経済合理性のみの思考であり、しかも、自分だけが払っているわけでもない「税金の用途」の問題にしている。こういう論者は非常に多いのである。
その一方で、こういう論者は「生命を救うカネの用途」は問題にしながら、「生命を滅ぼし尽くす」戦争や軍隊へのカネの出費の問題には頬かむりするのである。「あなたは人を生かすカネより殺すカネのほうがはるかに重要だと考えているのですか」と聞いてみたいものだ。
あえて言えば、カネなどどのようにでも作り出せるのである。つまり、国家がカネを印刷して出せばいくらでもカネは生み出せる。これがMMTの考え方であり、その考えに立てば、高額医療の費用など微々たるものにすぎない。
だが、おそらく根去氏の本音はそこにはなく、「社会に不要な人間を生かす必要はない」というものだと私は推測する。老人、病人、障害者などの「非生産的存在」は社会に不要だという思想である。まあ、それが資本主義の究極ではある。西洋のほとんどの国も日本もそうなりつつあるわけだ。
(以下引用)
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