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自分の中の親(大人)と子供

これは精神分析の学派の一つの考え方だと思うのだが、自分の中に「両親(大人)」と「子供」と、もう一つ、何かがある、という考え方だ。それをP(両親・大人)とC(子供)と呼んでいたと思うが、この考え方は実に納得がいくものだと私は思う。
つまり、我々が「自分の考え」「自分の判断」と考えているものは、実は子供のころに両親や周囲の大人から受けた(自然と吸収した)考え方で決まっている部分がある、ということだ。普通はそれを「理性」と錯覚し、「怠けたい」「遊びたい」「泣きたい」「逃げたい」という自分自身の自然な欲望を「それは子供っぽい考えだ」と自分自身で否定することになる。その「叱られる自分」が自分の中の「子供」であるが、実はこれこそが本当の自分と言っていい。もちろん、その「子供」を抑制しなければ現実社会の中で生きていくことはできない。その「子供」を馴致し、それぞれの子供の中に「大人」を作るのが学校の役割のひとつである。家庭も同じ機能があるが、こちらは学校ほど強制的なものではない。だが、特に「道徳性」に関しては、家庭や両親の影響力は大きい。無道徳な親から道徳的な子供は出て来ないだろう。
さて、自分の中のPもCも、どちらも意味はある。Cは本来の自分だが、Pが自分の中に存在しているからこそ社会の中で生きていける。しかし、Cが本来の自分であることを忘れ、Cを否定してばかりいると、自分というものが、Pのロボット、奴隷になる。世間にはそうして完全ロボット化した子供もいるだろうし、学校秀才の大半はむしろそうではないか。
まあ、自分の中に子供がいる、というのは私などには当然極まることで、世間の大人や老人がよくあんな真面目くさった顔を作っていられるもんだなあ、といつも可笑しく思っている。酒を飲んだりゴルフをしたりするのが泥遊びをしたりママゴトをしたりするより大人っぽいなどとはまったく思わないのである。違いは、たとえば子供の戦争ごっこは誰も死なないが、大人の戦争ごっこは大量に人が死ぬ、といったくらいのものだろう。
なお、自分の中にいるPとC以外のもう一つが何かは忘れたが、忘れたということは、それほど本質的なものではない、ということだととりあえず結論しておく。

もう一つ付け加えておく。自分の中のPとCの存在をはっきりと認識することで、(特にPは社会適合のためにCを叱るだけで、その「言葉」がいつも絶対的に正しいわけではないと知ることで)下の「毎日泣いている」ような人は、救われることもあると思う。
さらに言えば、「他人」特に「大人」への気兼ねが無ければ、誰でも本来のCに戻るはずなのである。下の歌は、その事を実に見事に表している。



「遊びをせんとや生まれけん。戯れせんとや生まれけん。遊ぶ子供の声聞けば、我が身さへこそ揺るがるれ」




(以下引用)


さんがリツイート

鬱で毎日泣くしかやることがないみたいな時にかかった先生のお言葉だけど、 『君の中に幼いキミがいて、幼いキミはず〜っと叱られてる状態だ。できると思ったことができなくて、やりたいことがうまくいかなくて、大人の君が叱り続けている。キミを救う最後の砦が敵になってはいけないよ』と


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