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岡潔の「第二の心」

井口博士は毒舌家で偏見の強い人間だと思うが、言うことの8割くらいはまともであり正直だ。そこが、発言の9割はポジショントークという「有名人」たち(学者や教育者や宗教家含む)とは大きく違う。だが、世間の多くの人は、有名人の発言こそが正しいと頭から信じるのである。
下の記事の中に出てくる岡潔博士の「第二の心」は、私の言う、「他者(物体含む)の神性に反応し、惹かれる心」に似ているように思う。
「第二の心」が、神性や、神性に反応する心であるのに対し、欲望だらけの自我が、「第一の心」で、これは四六時中意識され、我々を動かしているわけだ。そう見ると、まさに「欲望の奴隷」である西洋人と、欲望を常に制御し、温和な東洋人は区別されることになる。


(以下引用)


偽ユダヤ人の金融エリートの言葉には、

不労所得

という概念がある。投資家とは、この不労所得を狙った人物の意味だ。

つまり、自分は一切働かないが、自分の代わりに自分の手足となり働いてくれそうな人に投資する。そしてその投資の見返りとしてその何十倍もの所得を得る。この場合の人とは法人も含む。

「貧乏父さん、金持ち父さん」という本の主題がこれだった。金持ち父さんになるには、不労所得を得る方法を考えよ。これが、ロバートキヨサキさんが、米南部の資本家ビッグファーザーから教わったことだった。そして本を書いた。

本の執筆というのは、この不労所得を得る一つの方法である。


これに対して、ちょっと言葉のニュアンスは似ているが、まったく正反対なのが、私のやっていることだ。これにはまだ名前がない。なぜなら、そんな事を行うものは全くいないからである。

私の場合は、自分ができないことを行う人を無償で助けることだ。

私には金をあげることができない。そもそもそういう金がない。だから、ブログでメモして人に知られるようにしてやる。そういう形で助ける。

ときに、私に本を送れば、だれでもむやみにブログに取り上げてもらえると思う人もいる。そういう出版社や会社もある。しかし、そうではない。私ができないことをやってくれる人、それも私が素晴らしいとか、興味深いと思うような人に限る。何でも良いわけではない。

悪いやつには逆に呪いをかける。罵倒する。安倍晋三とか、菅義偉とか、日本学術会議とかナ。

私がやりたいのだけれど私にはもうできないこと、こういうことをやってくれる人、やりそうな人を助ける。そして、それを実現してくれると、私もまた嬉しい。

なぜなら、本当は若ければ自分は最初からそれに挑戦してみたいと思ったことがあったからである。

我々は、岡潔の言葉で言えば、この5尺の体に生まれついた。だから、その時点で制限がついた。本来は何でもできる神の力を授かったはずだが、それぞれのDNAを与えられた。だから、せいぜいできることはその制限つく中での最善なもの、あるいは最適なものでしかない。人は徐々に専門分化してしまう。万能ではない。最初は万能細胞だったが、すぐに専門分化し、別々の役割に徹する。人もまた細胞のようなものである。

だから、自分ができないことをやり遂げている人をみれば嬉しい。

私はずっと個人的にはずっとそう思ってきた。

サッカーのミッドフィールダーだったからかもしれない。本当なら自分がフォワードとなってゴールし、メッシのようなヒーローになりたい。しかし、1人ですべてできるわけではない。せいぜいゲームコントロールし、仲間のフォワードが点を取るのをお膳立てするだけ。仲間がゴールすれば自分も嬉しい。


そしてずっと経って、岡潔が晩年に「第二の心」ということを言い出すようになって、それを読むと、まさに「第二の心」というのがこういう側面のことだと知ったというわけだ。

花を見れば、自分に微笑みかけていると思う。人が喜ぶ姿を見れば、自分も嬉しい。人が悲しめば、自分も悲しい。。。

開いた心、覚醒した心、目覚めた心、。。。と岡潔が言う意味の心、「第二の心」とはこういうものである。

そこには、自分がやったことに対する報酬を得ようとする心はない。つまり、ユダヤ的ではない。キリスト的でもない。西洋人的ではない。

だから、これができる人を「東洋人」。できない人を「西洋人」と岡潔は定義したのである。

残念ながら、これは「東洋人」しかできないらしい。しかし、漢民族は「西洋人」化し、韓民族もまた「西洋人」化した。アジア人は大半が「西洋人」化した。

この現在の地球上ではわずかに日本人のごく一部だけが「東洋人」でいる。こういう状況だ。

安倍晋三が外遊する。菅義偉が外遊する。何かの条件を飲ませるために、数百億円の税金国費を使う。相手は何かをする、約束すると言っては日本の政治家から金を得る。まさに「西洋人」だ。


自分自身は働かないが、自分の代わりに働いてくれた人の成功をみて嬉しいと思うということは、どういう名前をつけたらよろしいか?

金という現物を与えて働かせて、その成功者から多額の金を得る。これが不労所得だ。

人に金をやるわけでもなく、人に会うわけでもない、ただ他の人に知らせるだけ。その結果、その人の知名度が上がり、人気が出て、ますます元気になり、その分野の成功者になる。それをみて嬉しく思う。これは、なんと言うべきか?これがわからない。

不労獲得、不労満足、不労不所得、あるいは、労不所得。

不労所得の逆概念とすれば、労不所得が一番あっているような気もする。

それとも、岡潔流に、ユダヤ人の不労所得を「第一の心に根ざした不労所得」=「第一種不労所得」として、日本人の不労所得として「第二の心に根ざした不労所得」=「第二種の不労所得」と定義すれば良いかもしれない。

あるいは、汚い不労所得と清い不労所得と定義する。

ユダヤ人汚い、日本人清い。というわけだ。

汚いものと清いものが同祖であるはずがない。だから、日ユ同祖論は捏造である。恣意的なものである。


労不所得、喜び会得。不労喜得

まあ、現段階ではこれにしておくか?

不労喜得

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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