私は仏教関係の本と言うか文章は「般若心経」しか読んだことが無いし、それで十分ではないかと思っているのだが、般若心経の「空観」と「虚無」の違いは何だろうか。西洋の一部の人間は仏教をニヒリズムだと見做していると聞いたことがあるが、仏教を虚無主義かと言われたら、東洋人は首をひねるのではないか。
要するに、仏教を虚無主義だと言うのは、仏教が現世の欲望を超脱する思想だからで、欲望を否定したらそのまま虚無主義になる、というのは肉食動物で性欲お化けの西洋人式の考え方だろう。
欲望を否定しながらも、この現世そのものを肯定する、というのが仏教だと私は思っている。まあ、あまり過激でない言い方をすれば、「過度の欲望を否定することで、自分自身の幸福と世界の幸福を招来する(招き来たらせる)」思想だと言うのはかなり自己流の解釈だが、これは社会主義思想に近い。同じようにキリストの言葉の多くも社会主義的倫理と言える。
それはともかく、仏教を虚無主義だと言うのは「色即是空」しか見ておらず、「空即是色」を無視した考え方だと言えるのではないか。「色」は、世界のすべての現象を視覚的に表現したものと思えばいい。とすると、「色即是空」は「世界は空である」となり、これは虚無主義ではないか、と思われるわけだ。しかし、それに続けて「空即是色」となる。我々が「空」と思っているものは、そのまま現実の世界でもある、ということだろう。要は、世界は空と見做せるし、世界を空と見做すことから世界への新しい目が開ける、というのが仏教の、あるいは般若心経の「空観」だと私は思っている。
たとえば、あなたが最初から生まれなかった世界を想像するといい。その世界は、「あなたにとっては」何の意味も無い世界になるだろう。これが「色即是空」である。だが、あなたのいないその世界は生き生きと日々の活動をしているのである。その世界を羨ましく思い、その中に生きたいと思わないだろうか。世界は非現実ではなく、現実であり、あなたは自分の意思でその世界に飛び込むこともできる。まさに、「空即是色」なのだ。単純に言えば、「あなたのいない世界」が「色即是空」であり、「あなたのいる世界」が「空即是色」だと図式化できるわけで、とすれば、世界と自分を切り離すのも、世界に自分をつなぐのも、まさに自分次第なのだ、となる。当たり前のことを言っているのだが、そう考えることで心が自由になるとすれば、こういう思考実験も無価値ではないだろう。
(以下引用)
要するに、仏教を虚無主義だと言うのは、仏教が現世の欲望を超脱する思想だからで、欲望を否定したらそのまま虚無主義になる、というのは肉食動物で性欲お化けの西洋人式の考え方だろう。
欲望を否定しながらも、この現世そのものを肯定する、というのが仏教だと私は思っている。まあ、あまり過激でない言い方をすれば、「過度の欲望を否定することで、自分自身の幸福と世界の幸福を招来する(招き来たらせる)」思想だと言うのはかなり自己流の解釈だが、これは社会主義思想に近い。同じようにキリストの言葉の多くも社会主義的倫理と言える。
それはともかく、仏教を虚無主義だと言うのは「色即是空」しか見ておらず、「空即是色」を無視した考え方だと言えるのではないか。「色」は、世界のすべての現象を視覚的に表現したものと思えばいい。とすると、「色即是空」は「世界は空である」となり、これは虚無主義ではないか、と思われるわけだ。しかし、それに続けて「空即是色」となる。我々が「空」と思っているものは、そのまま現実の世界でもある、ということだろう。要は、世界は空と見做せるし、世界を空と見做すことから世界への新しい目が開ける、というのが仏教の、あるいは般若心経の「空観」だと私は思っている。
たとえば、あなたが最初から生まれなかった世界を想像するといい。その世界は、「あなたにとっては」何の意味も無い世界になるだろう。これが「色即是空」である。だが、あなたのいないその世界は生き生きと日々の活動をしているのである。その世界を羨ましく思い、その中に生きたいと思わないだろうか。世界は非現実ではなく、現実であり、あなたは自分の意思でその世界に飛び込むこともできる。まさに、「空即是色」なのだ。単純に言えば、「あなたのいない世界」が「色即是空」であり、「あなたのいる世界」が「空即是色」だと図式化できるわけで、とすれば、世界と自分を切り離すのも、世界に自分をつなぐのも、まさに自分次第なのだ、となる。当たり前のことを言っているのだが、そう考えることで心が自由になるとすれば、こういう思考実験も無価値ではないだろう。
(以下引用)
無学なのでつげ先生の漫画読むまで知らなかったよ。「仏教に虚無はない」老子かー。
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