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「権威」無き世界にモラルは可能か

前に、「神」についての考察を行い、それでほぼ満足したのだが、世界に遍在する無数の神々、つまりすべての存在の中の神性を人々が尊ぶようになるまでにはかなり時間がかかるだろう。
そうすると、現代のように宗教がほぼ無力化し、あらゆる精神的権威が失墜した時代において、何が人々にモラルを与え、維持させるだろうか。他者の中の神性を尊ぶより、(山ゆり園事件の犯人のように)「俺こそが神だ」と言わんばかりに他人を蹂躙し、他人の自由や権利や生命を奪う人間だらけになるのではないか。
自分の小さな知性で人々が手前勝手な判断をする限り、社会秩序を維持することは難しいだろう。つまり、何かの「権威」がやはりこの世界には必要だろう、というのが私の考えで、その権威には実は実体が無くてもかまわない、と思っている。
西洋におけるユダヤ・キリスト教的な唯一神というのがまさにその代表であり、その(非在の)神への信仰が、上級国民は別として、庶民生活のモラルを維持させてきたのである。イスラム教も同じであり、仏教も同じだろう。
もちろん、その弊害は大きいが、その害よりは利益のほうが総体的には大きかったと思う。
で、「権威」とは何かと言えば、基本的には「力に依らずして他人を従わせる存在」だと言えるだろう。権力が地位や財力や暴力で他人を従わせるのは、すべて「力」であるから権「力」なのである。
私自身は民主主義の信奉者のつもりだが、明治以降、敗戦までの「(人神的)天皇制」というのは、やはり優れた「権威装置」ではあったと思う。(ここでも、その弊害はさておく。)

今、読みかけの高島俊男の「お言葉ですが…」の中にあった興味深い部分を抜粋する。
「中略」以降の、なぜ公務員の瀆職(汚職)が増えたのか、ということの説明は、実に見事である。天皇云々の話は別としても、戦時中に拡大した公務員権限が戦後も維持された、という指摘はあまり誰も言っていないのではないか。そもそも、社会学者で戦後の公務員の汚職の起源を論じた人はほとんどいないだろう。(高島俊男は別に社会学者ではない。)



(以下引用)

かつてのわが国において、公務員の職務というのは、これは天皇から委任された神聖なものであった。もしその職務を利用して不届きなことをすれば、天皇からおあずかりした職をけがし、国家に対する国民の信頼を損ねることになる。それが「瀆職」(夢人注:「とくしょく」と読む。現在、通常は「汚職」と言い換えられている。)であって、つまりそこにはおのずから、その「職」は神聖なものであるという含意がある。

(中略)下の(汚職は)は夢人による補足。

当用漢字制定以前は(汚職は)「瀆職」であった、と言っても、戦前の日本にそうしょっちゅう瀆職事件があったわけではない。戦後になってめったやたらにふえた。
それにはいろいろわけがある。戦争中の統制経済が戦後も維持されて役人が広範囲の権限を握っていたこと、戦中から戦後にかけて公団・公社がたくさんできたこと、戦前は官庁の発注する仕事は財閥系の大企業がガッチリつかんでいることが多かったが、戦後は中小の企業でも役人を手なづければ結構うまみのある仕事をとれるようになったこと、また一方、公務員の職務を神聖なものとする観念が希薄になったこと、戦前は公務員の俸給が概してよかったが戦後は民間よりわるくなり、安い給料を職権でおぎなおうとする傾向が生じたこと、等々。



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