「だから、宗教の次元における、言語化、特に、固有名化は、物質化なのである。これは、当然、排他的になるのである。形而上学的次元に形而下的次元を持ち込んで、前者の秩序を破壊すると言えよう。」
は、非常に面白い指摘だと思う。言語化が物質化だというのはかなり大胆すぎる言い方だし、言語化が形而下的次元だという考えも少し首をひねるが、言語化することで概念操作が可能になり、概念操作から現実が動き出す、という意味では言語化は物質化であり、形而下的次元の出発点だ、と言える。(「悟り」は直観、あるいは無意識的思考の結果であり、概念操作の結果で生じるものではない。概念操作は常に概念要素自体で縛られている。)あるいは言語は形而上的次元と形而下的次元の接点であり、真の形而上学的次元は言語表現不能なもの、と考えてもいいのかもしれない。いわゆる「不立文字」であり、「言語道断」(これは、俗に使われている不道徳性への非難の意味ではなく、「言語で道(い)うことが断たれている」こと。)である。
この一節から想起したのが、「参照」に書かれているような、「神の名をみだりに唱えてはならない」という旧約聖書の禁忌であるが、これには、「参照」記事の言うような、神の名の呪文化や嘘の引き合いに神の名を出すことへの懸念よりも、神という存在を形而下的次元に引きずり下ろすことを禁止し、それによって神を「手の届かない」存在にするという、「神を作った人々」の高度な戦略があったのではないだろうか。
それはともかく、言語こそが現実化への出発点だ、という意味では、私は「形而上学的次元を形而下的次元に引きずり下ろす」ことに必ずしも反対ではない。しかし、言語化には絶望的なまでの限界というものがあることもまた事実であり、言語化できないものにこそあるいは至高の価値があるのかもしれない、という視点は持つべきだと思う。
これはサン・テグジュペリの「見えないものにこそ価値がある」と似ているようだ。
(以下引用)
でも、哲学的に、名をなくすことの意味は何だろうか。
たとえば、こころに感ずるなんらかの形而上学的なものを、
国之常立神 (くにのとこたちのかみ)
と呼ぶのと、なにも名をもたない存在とするのとでは、どう違うのか。
当然、名をつければ、その存在は限定される。特定される。哲学用語があったが忘れた。(追記:言葉は現実、物質界を指すことが大半である。だから、言葉の分節化は、いわば、物質的実体化である。だから、宗教の次元における、言語化、特に、固有名化は、物質化なのである。これは、当然、排他的になるのである。形而上学的次元に形而下的次元を持ち込んで、前者の秩序を破壊すると言えよう。)
有神化と一応言えようが、名をもたない場合は、無神ではなく、非神である。非神非仏的前宗教である。そう、プレ宗教である。
そう、どうやら、このプレ宗教という視点が大事ではないだろうか。
(参照)ウィキペディアより。
消失の経緯[編集]
#主のセクションにも言及したアドナイ(אֲדֹנַי [’Ăḏōnay][15])の語には、「主 (Lord)[16]」即ちヤハウェを婉曲に指す意味のほか、もともと「私の御主人様 (my master)[17]」即ち奴隷の雇用主など主一般を指す意味がある。
さて、前述の通りユダヤ人は、詠唱の際もアドナイと読み替えるなどして、ヤハウェの名の発音を避けてきた。現在もユダヤ人は一般生活において、ヤハウェをヤハウェと呼ばず、アドナイあるいはハッシェム(הַשֵּׁם [haš Šēm])などと呼ぶ。これらは、ヤハウェとは別の語である。
理由のひとつとして、出エジプト記や申命記などにみられるモーセの十戒のうち次に挙げるものについて、直接神の名を口にすることは畏れ多い禁忌である、との解釈が後代に成立したためではないかと考えられている。(同一の箇所である。また、ヱホバとはヤハウェのことである)
汝の神ヱホバの名を妄に口にあぐべからずヱホバはおのれの名を妄にあぐる者を罰せではおかざるべし
あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。
これは本来その名をみだりに唱え、口にあげること(ヤハウェの名を連呼して呪文とすること、もしくはヤハウェの名を口にあげて誓っておきながら実際には嘘をつくこと)について、「そのようなことをすべきではない」と教えるものであって、名の発音を禁ずる趣旨ではないという説がある[誰によって?]一方で、西暦1世紀にはすでに発音は禁じられており、当時成立した福音書によれば、神の子イエスもこれをはばかって「天の父」などと表現したという。
古くはこの名は自由に口にされていたようである。南ユダ王国崩壊からバビロン捕囚までの時代に書かれた『ラキシュ書簡』にも יהוה は頻繁に現れており、この名がこの時代に至ってもなお口にされていたことがわかる。また、それ以後にもこれを記した史料は散見される。
それがいつ頃から口にされなくなったのか正確には分からない。
しかし、紀元前3世紀初めごろから翻訳の始まった『七十人訳聖書』では、原語のヘブライ語での יהוה が置き換えられ、ほとんどの箇所で「主」を意味するキュリオス (Κύριος) と訳されている。
このことから、この頃にはこの名がアドナイと読み替えられていたのであり、バビロン捕囚以後の300年ほどの間にそのまま発音することが禁忌とされるようになったと考えられる[誰によって?]。