サッカーの日本代表監督だったハビエル・アギーレさんが解任されて以来、サッカーの世界では、後任監督をめぐる話題が行ったり来たりしている。
この件(代表監督の選任)についての私の意見は、5年前(←南アフリカW杯の直前のタイミング)の当欄で既に書いている。
つまり
「代表監督は、外国人でさえあればある程度誰でも良い」
ということだ。
この見解は、いま現在でも基本的には変わっていない。
理由は、リンク先を読みに行ってもらえばおわかりになっていただけると思う。が、なにぶん古い原稿でもあるので、補足も含めて、あらためて概要を以下に書き起こしておく。
- 日本人のサッカー選手(ならびに日本人全般)について毎度のように言われる「没個性」「事なかれ主義」「リスク回避傾向」「横並び志向」といったアンチサッカー的な諸傾向は、実は、われら日本人の「国民性」の問題というよりは、わたくしども日本人が集団として振る舞う時の「マナー」の問題であると考えた方が理解しやすい。
- 事実、個々の選手(あるいは個人としての日本人)を個別に観察してみると、十分に個性的で、それぞれにトンがっていたり素っ頓狂だったりする。一人ひとりを見れば、決して海外のサッカー選手と比べて見劣りするものではない。ただ、その個性的であるはずの選手たちがひとつのチームとして動く段になると、やはり、お互いの顔色をうかがい、突出することを避けるようになる点は否定しがたい。
- この傾向(集団内からの逸脱を回避しがちな傾向)は、小学校に入学するや最初の鉄則として、「教室内でのマナー」(具体的には「起立・礼・着席」)と、「校庭での整列の仕方」(「気をつけ」「前へならえ」)を叩き込まれる教育のあり方に起因するものでもあれば、わが国の社会全体に蔓延する「ヒトサマに迷惑をかけてはいけない」「場の雰囲気をかき乱してはならない」といった同調圧力がもたらしているものでもある。ゆえに、一朝一夕には解毒できない。
- そこで、集団が自縄自縛の相互監視統一行動に陥ることからの抜け穴として、「外国人のボスを招聘する」(外圧を利用する)というソリューションがある。
- 古来、われわれは、明治時代のお雇い外国人(シーボルトとかコンドルとか)をはじめ、外国からやってきた異文化の伝導者の力を借りてブレイクスルーを果たしてきた。実際に、外資系企業に勤務する日本人社員や、海外で暮らす日本人留学生を見ても明らかな通り、われわれは、ボスが外国人だったり、住んでいる場所が異国だったりすると、おどろくほどすんなりと「外国人のマナー」に追随することができる人々でもある。
- であるからして、外国人監督に率いられた日本人選手は、リスクを取ることを恐れなくなり、チャレンジングなパスや、自己責任のドリブル突破に果敢に挑む傾向を高める。
- この際、監督自身の有能さや手腕の問題とは別に、監督が「外国人であること」がとりわけ重要になる。というのも、相手が外国人であれば、われわれは、その意図を先回りして忖度することをしなくなるし、悪い意味での日本人らしい従順さから解放されるからだ。
(以下略)