曽野綾子が道徳の教科書に載っていることは知っていたが、よく考えるとこれは大問題である。人種差別主義者お仲間で言うならば、ヒトラーを道徳のモデルとして採り上げるようなものではないか。あちらはユダヤ人を差別し、こちらはアジア諸国の人々を差別(当人の反論では「差別ではなく区別だ」ということだが、差別と区別など同じとしか普通の人は思わないだろう。まあ、「差別は上下に分けること、区別は横に分けること」とでも定義したら、子供でも理解はできる。だが、黒人やアジア人を白人とは区別して扱ったかつての南アのアパルトヘイト政策は、実際には差別以外の何物でもなかったことは世界の常識だ。)しているという違いだけである。
中学生の白紙のような頭脳に、曽野綾子が道徳テキストの「誠実」のモデルとして刷り込まれるのはいかがなものか、と思うのだが、逆に考えれば、これは政府発行の「道徳テキスト」など読む価値も無い、という良識を彼らに与え、彼らを政府の洗脳から守る良薬となるかもしれないwww
しかし、曽野綾子が「誠実」のモデルとは、いったい何を根拠にして選んだのだろう。まさか、アフリカやどこかへの観光ついでの貧民視察旅行(「まあ、汚らしい連中ね!」としか思っていないが、「目的」のためには我慢、我慢。ついでに、ちょっとした土産を数人の貧民たちに与え、子供たちと一緒に写真に納まれば、「素晴らしい慈善行為」一丁上がりである。金なら、日本財団会長か何かをやっていた関係で、競艇収益の一部をがっぽり貰っていただろうし。)などだろうか。まあ、夫ともども保守エスタブリッシュ層の放送塔、代弁者としてその権益を守るための発言(庶民に対して「自分の分際を知り、奴隷としての道徳を守り、お上に逆らうな」というお説教をすること)を長年続けてきた、という意味では「権力に対して」誠実であったわけだ。
なお、山崎行太郎のブログで曽野綾子関連の記事を見れば、彼女の人格の卑しさ、不誠実さは丸分かりである。
(以下引用)
だが、日本最大の日刊紙である保守系の讀賣新聞は曾野綾子が安倍晋三首相の教育政策についてのアドバイザーであった事実も、彼女が日本の文科省によって昨年全国の中学に配布されたテキストブックに大きく取り上げられた事実も報道しなかった。
この「私たちの道徳」とタイトルされたテキストブックの中で彼女は「誠実」のモデルとして取り上げられていたのである。
(追記)前説で触れた山崎行太郎の曽野綾子に関する記事の一つを転載しておく。曽野綾子の妄言・暴言は大昔からであり、その意味では筋金入りの「女石原慎太郎」である。
2007-12-02
曽野綾子の「沖縄差別発言」を総括する。
佐藤優が、「月刊日本」12月号掲載の論文「吉野、加名生詣でと鎮魂」で、沖縄集団自決問題に関連して、「沖縄の人々は、われわれの同胞である……」「左右の対立という瑣末なレベルに拘泥して、同朋意識を失ってはいけない……」「今、右派の沖縄に対する見方が、朝鮮や中国に対する見方と同じになっている……」「沖縄に外国に対するように処すれば、これは沖縄の本土からの独立運動さえ誘発しかねない……」「現に、沖縄での集会の中心にいたのは、沖縄における保守の人々であり、自民党だった……」「まさに沖縄にける右翼の人々から、内地への不満がたくさん出ている。そしてこうした状況を見越して、中国が策動しています。彼らは沖縄にやつてきては、『こちらにも歴史認識の問題があるようですね、どうです、私たちの気持ちが分かるでしょう』と揺さぶりをかけてきている……」というような、かなり重大な発言をしているが、曽野綾子やその仲間達の発言の中にも、沖縄集団自決問題を論じていく過程で、理性的な思考力を失って感情的になり、沖縄や沖縄住民にに対する、差別的な発言が多く見られる。たとえば、小林よしのりも、つい先日、都内で行われた保守派グループ主催の「沖縄問題シンポジウム」会場で、聞くに堪えないような沖縄への差別発言が飛び交っていたと書いているが、曽野綾子も、こんな差別発言を行っている。
私は東京生まれの東京育ちですが、右も左も縦も横も、めいめい勝手にいろんなことを言って、その混沌たるものが人間の自由な生活だと思って来ました。でも沖縄だけ違いますね。今度の件でも、どなたがと名前は明かさないけど、ある沖縄の方が「反対意見は述べられない」とおっしゃった。
(「サピオ」11/28日号)
僕は、東京生まれでも東京育ちでもないから、東京生まれ東京育ちの東京人と呼ぶべき人たちが、どれだけ自由奔放に物を考え、どれだけ自由闊達な発言をしているか知らないが、こういう馬鹿馬鹿しい差別的な発言を聞くと、自分達だけが自由に物を考え、自分達だけが自由に発言できる、なんてことは、たとえば言論統制、言論弾圧下にある北朝鮮の国民だってそう思っているはずであって、おそらく北朝鮮の国民だって、曽野綾子と同じようなことを言うだろうな……と思いつつ、ついでに江藤淳の『閉ざされた言語空間』は何処の国の話だっけと記憶を辿るうちに、思わず吹き出したくなった。むろん、曽野綾子が言っていることが、いわゆる独断と偏見に基づく俗論であって、理論的に考えるまでもなく、まったくのデタラメな妄想発言であることは言うまでもない。沖縄の人たちだって、自由に物を考え、自由に発言しているに決まっているじゃないか。沖縄には、曽野綾子が欲しくて欲しくてたまらなかったが、能力不足と才能不足でどうしても手が届かなかった芥川賞を、いとも易々と受賞した作家だって何人もいるじゃないか。むしろ、沖縄の人たちこそ、たとえば放浪と差別を強いられたユダヤ人のように、その地理的、政治的、思想的な位置の特異性の故に、われわれより、あるいは「東京生まれ東京育ちの東京人」より、はるかに「深く物を考えている」と見るべきだろう。逆に、沖縄の人たちが、自由に物を考えることができず、自由に発言できないとすれば、それは「東京生まれ東京育ちの東京の人」たちだって同じことだろう。少なくとも、「東京生まれ東京育ちの東京の人」たちが、沖縄の人たちより、深く物を考え、自由闊達に自己表現しているとはとても考えられない。たとえば、ここ一週間ぐらい日本中の目を釘付けにした「香川失踪事件」においては、日本国民の90パーセントが、「あのオヤジが犯人だろう……」と考えていたはずだと僕は思っているが、それは、われわれ日本国民が自由に物を考え、自由に発言出来るからではなく、マスコミの垂れ流すデマ情報によつて情報統制され、情報操作されているからで、われわれが、自分達だけは自由に物を考えていると思っているうちに、いつのまにか、自由に物を考える力を奪われていたということだろう。要するに、「自分達だけが自由に物を考え、自由に発言している……」という思考こそが、イデオロギーであり、妄想にすぎない。人間の思考は、様々な制度や物語の圧力によつて支配されコントロールされている。思考や言論への圧力や弾圧は、国家権力や国家暴力によってのみなされるのではなく、人間自身の中にも、そういう思考や言論への圧力や弾圧のシステムは、既に常に、形成されている。「東京生まれ東京育ちの東京人」だけが、自由に物を考え、自由に発言しているという曽野綾子的な妄想こそ、まさしく病的な妄想であって、曽野綾子のような「東京生まれ東京育ちの東京人」の思考こそが、もっとも類型的、紋切り型の思考に拘束され、薄っぺらな流行思想に、たとえば保守論壇を支配している「保守思想」という薄っぺらな流行思想に洗脳され、物を考える力を奪われている見本なのである。何故、「沖縄文学」や「在日文学」が、現代日本の文学で重要な位置を占めているのかを考えてみれば、それはすぐにわかることだろう。「東京生まれ東京育ちの東京人」よりも、沖縄人や在日朝鮮・韓国人の方が、「物を深く考える」ように強いられているのだ。さて、話を元に戻そう。最近の保守論壇には、沖縄への差別的な発言があふれかえっているが、曽野綾子だけではなく、たとえば、渡部昇一も、次のように言っている。
また沖縄は元来、天然資源があるわけでもなく産業が発達しているわけでもないので、豊かであり得たはずがありません。ですから、「基地問題」で騒げば必ずカネが出るということを学び、そのようなパターンができてしまいました。米軍基地の土地を持っている人たちは、基地反対運動で騒いでいる人たちを支援しているという構図もあるようです。「「騒げばカネが出る」というメンタリティーが相当広く沖縄の人たちの間に根付いてしまったということがあるように思います。
僕は、何回も繰り返すが、「沖縄集団自決」において「軍命令があったか、なかったか……」とか、「歴史教科書に『軍命令・強制』を書くべきか、削除するべきか……」というような議論・論争にあまり興味がないが、「沖縄集団自決問題の本質はカネである」と言いたげな渡部昇一のような人間を見ると、心底から軽蔑したくなる。こういうことを書いたり発言したりする人を、「保守派」とか「保守思想家」と呼ぶのだとすれば、半ば冗談とは言えども、「保守思想家」という看板を二度と掲げたくないと思うと同時に、こういう似非保守、似非保守思想家を徹底的に叩き潰してやりたくなる。「保守」や「保守思想」の本質は、「下品」が売り物の僕が言うのもなんだが(笑)、人間の品格だろう。曽野綾子や渡部昇一の発言に、「保守思想家」としての人間の品格があるのか。