私は東海アマ氏の「利他主義」という言葉が大嫌いなのだが、それは、人間(動物)の本能の基本は自己愛だと思うからだ。それが自己保存本能でもある。つまり、自分自身を守るのが生きる原点だということだ。そうでなくて自然の中に生きることは不可能だろう。
だが、人間は文化と文明を生み出し、そこから他者は自分と同等の生きる価値を持っていると認識するようになった。だが、それは「利他主義」ではない。いわば「平等主義」であり、私が最近重要な観念と考えている「フェアネス(公平)」の観念だ。この観念が人間の文化や文明を生み出したのではないかと私は考えているが、それは「利他主義」とはまったく違う。
「利他主義」が本当に存在するなら、たとえばカルネアデスの板のような状況において、まったく見知らぬ他人にその板を渡し、自分は海に沈むことを選ばねばならない。そうであって初めて「利他主義」という言葉が言えるだろう。
人類の歴史において、自己犠牲的行為は無数にあっただろう。しかし、それは利他主義という思想ではなく、「自分よりも、自分の愛する存在のために我が身を捨てる」行為であったはずだ。
利他主義という言葉には、私はまったく荘厳さも真剣さも感じられない。軽薄な「頭の中で作った観念」としか思えない。
なお、山本太郎は善行を苦とせず行う稀な人間だと思うが、彼の行動は「博愛」であって、利他主義とは違うと思う。つまり、他人の苦を自分の苦と感じる稀な人格からの行動であって、主義などという「外付け」の思想ではないだろう。
(追記)私がなぜ東海アマ氏の「利他主義」という言葉にこだわるのかと言えば、それが東海アマ氏の中心思想と思われるのに、それがまったく土台の無いアホ思想であるのが残念だからだ。東海アマ氏の鋭い知性やこれまでの反原発などでの戦いを深く尊敬するだけにその土台があまりに弱いのは、人々の氏への評価を大きく下げかねないのが残念だからだ。言葉は思想の器である。言葉を疎かにした思想は脆弱になるしかない。
(以下引用)
私も50年代生まれなので、「アフター団塊世代」だ。
この世代の特徴といえば、めったやたらに子供の数が多かったため、学校に行っても、机も椅子も不足しているから、遅れてゆくと「立ちんぼ授業」を受けねばならなかったほどだ。二人机に三人掛けなんて常識だった。
1学級に60名なんてザラだった。私の世代ですら、1学級50名近かったのだ。ちなみに、今では30名でも多い方ではないだろうか?
こんなに子供たちが過密だと何が起きるかというと、序列付けがひどくなる。当時は、まだ戦前の「末は博士か大臣か」という権威主義の価値観が色濃く残っていた時代だったので、教師も親たちも、子供たちに序列をつけて上に這い上がる競争をさせるのが大好きだった。
もう幼稚園や小学校、中学校を通じて、序列一本槍の教育システムで、何にでも点数をつけて、子供同士でコンプレックスを持たせて競争させるのが教育であると、大人たちも教師たちも、みんな勘違いさせられていたのだ。
そうして、子供自身も、いつでも自分は全体の何番目かなどと序列を気にかけて、上にゆけば褒められるし、下に落ちれば貶されるし、序列をカサに着て、威張りまくってみたり、序列の低い同級生を小馬鹿にしてみたりと、見栄張りばかりで、人間関係に優しさが失われていった時代だ。
知的障害のある子供が一般学級に入れば、イジメの標的になるので、この頃には「特殊学級」というのが作られていた。それでも、クラス最下位の子供は、侮蔑され徹底的にイジメられた。
人々の関心事は、人間の序列ばかりに目が向けられ、わけても学歴で人間を評価する悪しき伝統が定着したのもこの頃だろう。
こうして、「序列こそ人生の価値」と洗脳された子供たちが、大量に世間に出てくることになった。
一番序列の上が天皇で、次は東大卒、それから公立大卒、私立大ときて、高卒、中卒は、社会の恥であるかのように思い込まされた人々が、日本社会の中核となり、バブル時代を生み出していったのだ。
私の通った小中学校は、名古屋市中村区の大門という歓楽街に近かったから、ここで生計をたてるヤクザが非常に多かった。また日本社会の差別システムによって底辺に追いやられた在日朝鮮人の街でもあった。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-5.html
こんなヤクザの世界にも、序列価値観が押し寄せていて、学校で白い目で見られる劣等感をバネに、学校内イジメ勢力の主役だったし、ヤクザ同士の見栄の張り合いも大変なものだった。
私は、国鉄勢力だったが、学校でどれだけイジメられたか分からない。今でも同窓会など行きたくない。
当時、私を一番虐めたYは、あるとき殺人で無期懲役判決を受けたと新聞に出ていた。生徒会長にまでなったO組長の息子は、「二丁拳銃のO」とヤクザ世界で異名をとるほどの有名人だったが、人妻との恋愛が元で、飛び降り自殺した。
後に、バブル時代に「研修」と称して、社員を街頭に立たせて、自分がどれだけアホか、延々と懺悔させたりした人間疎外の会社経営者も、この団塊世代ではないだろうか?
凄まじい競争に弄ばれた世代ではあるが、それは日本社会全体の競争力を引き上げていたのも事実だ。
戦後、日本社会のイノベーションの大半は、この世代がもたらしたものだ。
だが、競争に明け暮れた世代は、自分の評価ばかりを気にする姑息な価値観に洗脳された世代でもある。人に対する優しさを見失った者が多かった。
人が多すぎると、やはりどうしても、自分の序列と評価ばかり大切にしたがる輩が増えてくるものだ。今の70才代前半がそうだ。
そして、その子供たちの世代も、「第二次ベビーブーム」となり、やはり一学年50人というすし詰め教育体制で、何もかも競争の価値観を迫られた。
しかし、この世代は、戦後バブルが崩壊し、ロストジェネレーションを思い知らされる世代となった。
正社員の道を閉ざされ、必死になってバイトや派遣で生き抜いていても、大不況がくれば、真っ先に企業を追い出され、普段の貢献など、何一つ評価されないまま、公園でのホームレス生活を強要されたのだ。
みんな40歳代になっても、正社員の安定した生活は許されず、もちろん結婚もできず、派遣先を渡り鳥のように駆け回って、あげく何かあれば捨てられる悲哀の人生を強いられている。
だが、そんな苦悩の世代のなかから、山本太郎や須藤元気が出てきた。
また、ちょうど社会的差別から、芸能界スポーツ界に向かうしかなかった在日者と同じように、芸能人、スポーツ人になった者も多く、実力者が揃っている。
http://sedainet.web.fc2.com/dankaijryumeijin.html
私は、地を這うような苦悩を強いられてきた、このロスジェネ世代こそ、新しい日本の救世主になるだろうと確信している。彼らは、いわれのない差別に苦しんできたから、自分が差別者になることもないだろう。
また、人間の序列が、どれほど無意味なものかを思い知らされた世代なのだ。本当の人間性と実力だけを頼りに、新しい世界を作り出す主役になってくれるだろう。
そもそも、繰り返し書いてきたとおり、「心豊かな良き社会」の正体は、「利他主義」を人生観の基礎に置いた人々の作り出す社会なのだ。
我々が幼い頃から経験されられた、たくさんの子供たちに序列をつけて選別する「競争社会」は、他人を踏みつけて自分だけが特権階級を手に入れる徹底した利己主義を生むことしかできない。
団塊世代も、アフター団塊世代も、物心ついたときから競争に晒され、社会に出ても、競争に追い立てられ、自分のことにしか関心を持てないように薫陶された世代なのだ。 いいかえれば、「利己主義」でなければ生きられない時代だったともいえよう。
だが、団塊ジュニア世代=ロスジェネ世代は違う。理不尽で辛い目に遭い、不条理を押しつけられ耐え忍んできた世代なのだ。
だから、苦悩の底から、「利他主義」に生きることの大切さを学んでいる。
利他主義でなければ、まともな、良き社会は作れないことを、身をもって知っている世代だ。
私は、日本中で起きている震災や台風禍で、すぐに駆けつけてくれる人たちの多くが、ロスジェネ世代であるような気がしている。
金儲けしか知らない世代に「無償の愛」が分かるはずがない。何ものも得ずに、他人に優しくできるのは、自分自身が辛酸をなめて、利他主義が新しい世界を作り出すことを知っている人々だと思う。
だが、人間は文化と文明を生み出し、そこから他者は自分と同等の生きる価値を持っていると認識するようになった。だが、それは「利他主義」ではない。いわば「平等主義」であり、私が最近重要な観念と考えている「フェアネス(公平)」の観念だ。この観念が人間の文化や文明を生み出したのではないかと私は考えているが、それは「利他主義」とはまったく違う。
「利他主義」が本当に存在するなら、たとえばカルネアデスの板のような状況において、まったく見知らぬ他人にその板を渡し、自分は海に沈むことを選ばねばならない。そうであって初めて「利他主義」という言葉が言えるだろう。
人類の歴史において、自己犠牲的行為は無数にあっただろう。しかし、それは利他主義という思想ではなく、「自分よりも、自分の愛する存在のために我が身を捨てる」行為であったはずだ。
利他主義という言葉には、私はまったく荘厳さも真剣さも感じられない。軽薄な「頭の中で作った観念」としか思えない。
なお、山本太郎は善行を苦とせず行う稀な人間だと思うが、彼の行動は「博愛」であって、利他主義とは違うと思う。つまり、他人の苦を自分の苦と感じる稀な人格からの行動であって、主義などという「外付け」の思想ではないだろう。
(追記)私がなぜ東海アマ氏の「利他主義」という言葉にこだわるのかと言えば、それが東海アマ氏の中心思想と思われるのに、それがまったく土台の無いアホ思想であるのが残念だからだ。東海アマ氏の鋭い知性やこれまでの反原発などでの戦いを深く尊敬するだけにその土台があまりに弱いのは、人々の氏への評価を大きく下げかねないのが残念だからだ。言葉は思想の器である。言葉を疎かにした思想は脆弱になるしかない。
(以下引用)
私も50年代生まれなので、「アフター団塊世代」だ。
この世代の特徴といえば、めったやたらに子供の数が多かったため、学校に行っても、机も椅子も不足しているから、遅れてゆくと「立ちんぼ授業」を受けねばならなかったほどだ。二人机に三人掛けなんて常識だった。
1学級に60名なんてザラだった。私の世代ですら、1学級50名近かったのだ。ちなみに、今では30名でも多い方ではないだろうか?
こんなに子供たちが過密だと何が起きるかというと、序列付けがひどくなる。当時は、まだ戦前の「末は博士か大臣か」という権威主義の価値観が色濃く残っていた時代だったので、教師も親たちも、子供たちに序列をつけて上に這い上がる競争をさせるのが大好きだった。
もう幼稚園や小学校、中学校を通じて、序列一本槍の教育システムで、何にでも点数をつけて、子供同士でコンプレックスを持たせて競争させるのが教育であると、大人たちも教師たちも、みんな勘違いさせられていたのだ。
そうして、子供自身も、いつでも自分は全体の何番目かなどと序列を気にかけて、上にゆけば褒められるし、下に落ちれば貶されるし、序列をカサに着て、威張りまくってみたり、序列の低い同級生を小馬鹿にしてみたりと、見栄張りばかりで、人間関係に優しさが失われていった時代だ。
知的障害のある子供が一般学級に入れば、イジメの標的になるので、この頃には「特殊学級」というのが作られていた。それでも、クラス最下位の子供は、侮蔑され徹底的にイジメられた。
人々の関心事は、人間の序列ばかりに目が向けられ、わけても学歴で人間を評価する悪しき伝統が定着したのもこの頃だろう。
こうして、「序列こそ人生の価値」と洗脳された子供たちが、大量に世間に出てくることになった。
一番序列の上が天皇で、次は東大卒、それから公立大卒、私立大ときて、高卒、中卒は、社会の恥であるかのように思い込まされた人々が、日本社会の中核となり、バブル時代を生み出していったのだ。
私の通った小中学校は、名古屋市中村区の大門という歓楽街に近かったから、ここで生計をたてるヤクザが非常に多かった。また日本社会の差別システムによって底辺に追いやられた在日朝鮮人の街でもあった。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-5.html
こんなヤクザの世界にも、序列価値観が押し寄せていて、学校で白い目で見られる劣等感をバネに、学校内イジメ勢力の主役だったし、ヤクザ同士の見栄の張り合いも大変なものだった。
私は、国鉄勢力だったが、学校でどれだけイジメられたか分からない。今でも同窓会など行きたくない。
当時、私を一番虐めたYは、あるとき殺人で無期懲役判決を受けたと新聞に出ていた。生徒会長にまでなったO組長の息子は、「二丁拳銃のO」とヤクザ世界で異名をとるほどの有名人だったが、人妻との恋愛が元で、飛び降り自殺した。
後に、バブル時代に「研修」と称して、社員を街頭に立たせて、自分がどれだけアホか、延々と懺悔させたりした人間疎外の会社経営者も、この団塊世代ではないだろうか?
凄まじい競争に弄ばれた世代ではあるが、それは日本社会全体の競争力を引き上げていたのも事実だ。
戦後、日本社会のイノベーションの大半は、この世代がもたらしたものだ。
だが、競争に明け暮れた世代は、自分の評価ばかりを気にする姑息な価値観に洗脳された世代でもある。人に対する優しさを見失った者が多かった。
人が多すぎると、やはりどうしても、自分の序列と評価ばかり大切にしたがる輩が増えてくるものだ。今の70才代前半がそうだ。
そして、その子供たちの世代も、「第二次ベビーブーム」となり、やはり一学年50人というすし詰め教育体制で、何もかも競争の価値観を迫られた。
しかし、この世代は、戦後バブルが崩壊し、ロストジェネレーションを思い知らされる世代となった。
正社員の道を閉ざされ、必死になってバイトや派遣で生き抜いていても、大不況がくれば、真っ先に企業を追い出され、普段の貢献など、何一つ評価されないまま、公園でのホームレス生活を強要されたのだ。
みんな40歳代になっても、正社員の安定した生活は許されず、もちろん結婚もできず、派遣先を渡り鳥のように駆け回って、あげく何かあれば捨てられる悲哀の人生を強いられている。
だが、そんな苦悩の世代のなかから、山本太郎や須藤元気が出てきた。
また、ちょうど社会的差別から、芸能界スポーツ界に向かうしかなかった在日者と同じように、芸能人、スポーツ人になった者も多く、実力者が揃っている。
http://sedainet.web.fc2.com/dankaijryumeijin.html
私は、地を這うような苦悩を強いられてきた、このロスジェネ世代こそ、新しい日本の救世主になるだろうと確信している。彼らは、いわれのない差別に苦しんできたから、自分が差別者になることもないだろう。
また、人間の序列が、どれほど無意味なものかを思い知らされた世代なのだ。本当の人間性と実力だけを頼りに、新しい世界を作り出す主役になってくれるだろう。
そもそも、繰り返し書いてきたとおり、「心豊かな良き社会」の正体は、「利他主義」を人生観の基礎に置いた人々の作り出す社会なのだ。
我々が幼い頃から経験されられた、たくさんの子供たちに序列をつけて選別する「競争社会」は、他人を踏みつけて自分だけが特権階級を手に入れる徹底した利己主義を生むことしかできない。
団塊世代も、アフター団塊世代も、物心ついたときから競争に晒され、社会に出ても、競争に追い立てられ、自分のことにしか関心を持てないように薫陶された世代なのだ。 いいかえれば、「利己主義」でなければ生きられない時代だったともいえよう。
だが、団塊ジュニア世代=ロスジェネ世代は違う。理不尽で辛い目に遭い、不条理を押しつけられ耐え忍んできた世代なのだ。
だから、苦悩の底から、「利他主義」に生きることの大切さを学んでいる。
利他主義でなければ、まともな、良き社会は作れないことを、身をもって知っている世代だ。
私は、日本中で起きている震災や台風禍で、すぐに駆けつけてくれる人たちの多くが、ロスジェネ世代であるような気がしている。
金儲けしか知らない世代に「無償の愛」が分かるはずがない。何ものも得ずに、他人に優しくできるのは、自分自身が辛酸をなめて、利他主義が新しい世界を作り出すことを知っている人々だと思う。
PR