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自由な決定という重荷

前に書いた適菜収の「小林秀雄の警告」の中に、オルテガ・イ・ガセットの言葉の引用があり、それはこういうものだ。(下線部は原文では傍点)

「生きるとは、この世界においてわれわれがかくあらんとする姿を自由に決定するよう、うむをいわさず強制されている自分を自覚することである」(「大衆の反逆」より)

「自由な決定」を「強制されている」というのが面白い。矛盾概念を結び付けた、ただの言葉遊びにも聞こえるが、我々の生の実相を示しているようにも思える。
ちなみに、上記の言葉の前には、こういう文章がある

「われわれは一つの軌道を課せられるかわりに、いくつもの軌道を与えられ、したがって選択することを余儀なくされているのである。われわれの生の状況とは、なんと驚くべき状況であろうか」

実際、我々は個々の事態を前にして、決断において常に不自由な自分を感じるのだが、それが本当に不自由かと言うと、実はどういう決定をしても自由なのである。ただ、その決定の結果責任を自分が負わねばならないことが言い知れぬ不安と恐怖を与えるだけのことだろう。
その不安と恐怖は自由であることの必然的結果である。だから、それらの決定は自由でありながら、感情としては「うむを言わさぬ強制」と言える。

その心的メカニズムの結果はどうなるか。

我々にとって自由は重荷だから、誰かにその自由を肩代わりしてほしく思う。それがどんな悪党だろうが馬鹿だろうが構わないくらいだ。そして、その「自由の委任」の結果が思わしくなければ、我々は「あいつに騙された」と騒ぎ立てるわけだ。読んだことは無いが、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」とはそういうことではないかと推測する。

私は、実存主義の本を読んだことも無いが、オルテガ・イ・ガセットの上記の言葉は実存主義的な印象を受ける。実存主義とは何かと言えば、それは「我々の生の意味は何か」ということを問う哲学であり、その答えに意味があるのではなく、問い自体に意味があった哲学だと私は思っている。それが何千万人もの人間が戦争の災禍で死んだ第二次大戦後の世界で大きな影響を持ったのも、戦争の膨大かつ不条理な死を目の前にして多くの人々が「我々の生の意味は何か」ということを痛切に考えたからだと思う。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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