現代仏教の各宗派はすべてインチキである、というのが私の考えだが、「宗教情報センター」というサイトの解説を見ると、私の認識は正しいようだ。(インチキだから無価値というわけではない。文学というフィクションにも大きな価値があるようなものだ。だが、インチキはインチキだ。)
(以下引用)赤字と下線は夢人による強調。
1.伝統仏教の「霊魂」観
(以下引用)赤字と下線は夢人による強調。
1.伝統仏教の「霊魂」観
「死後の世界」についての科学主義的な原則論と世論との乖離に直面しているのは公教育の現場だけでない。伝統仏教界にも、教理と民俗的信仰の乖離の問題がある。
仏教の開祖・釈迦は、「霊魂と身体の関係」や「死後の有無」などについては答えなかった(「無記」)。その理由として、毒矢が身体にささったときには毒矢を抜くことが最優先であるのに、それをせずに余計なことにこだわっていると毒がまわって死んでしまうという「毒矢のたとえ」がある。そのような問いは、生老病死などの苦の問題を解決するのに資することがないという考えからであろう[1]。とはいえ仏教は、あらゆるものに「永遠に変わらず独立的に存在し、主として支配能力がある実体[2]」は「ない」という「無我説」を説いており、「霊魂という実体的な存在を否定する」と一般に解釈されている。
だが、インド仏教にはヒンズー文化の輪廻転生思想が取り入れられ[3]、それが中国を経て日本に伝来した。さらに仏教は日本古来の霊魂観と祖先崇拝という民俗的伝統を取り入れ、15~16世紀ごろに「葬祭仏教」として日本社会に定着した[4]。そこでは一般的に、死者は、僧侶による葬送儀礼によって仏(ホトケ)となり、子孫によって墓に埋葬され、子孫による祭祀を受け続けて先祖、つまり祖霊となっていくとされた[5]。
こうして、霊魂についてはインド仏教も、さらに日本各地の民俗信仰を吸収して展開した「日本仏教」も教理の矛盾を孕んだまま存在している。このため日本の伝統仏教は、教理の基本としては無我説に基づき霊魂の存在に否定的であるが、ほとんどの宗派が統一された公式見解を持たず、個人的見解も多様である。
仏教の開祖・釈迦は、「霊魂と身体の関係」や「死後の有無」などについては答えなかった(「無記」)。その理由として、毒矢が身体にささったときには毒矢を抜くことが最優先であるのに、それをせずに余計なことにこだわっていると毒がまわって死んでしまうという「毒矢のたとえ」がある。そのような問いは、生老病死などの苦の問題を解決するのに資することがないという考えからであろう[1]。とはいえ仏教は、あらゆるものに「永遠に変わらず独立的に存在し、主として支配能力がある実体[2]」は「ない」という「無我説」を説いており、「霊魂という実体的な存在を否定する」と一般に解釈されている。
だが、インド仏教にはヒンズー文化の輪廻転生思想が取り入れられ[3]、それが中国を経て日本に伝来した。さらに仏教は日本古来の霊魂観と祖先崇拝という民俗的伝統を取り入れ、15~16世紀ごろに「葬祭仏教」として日本社会に定着した[4]。そこでは一般的に、死者は、僧侶による葬送儀礼によって仏(ホトケ)となり、子孫によって墓に埋葬され、子孫による祭祀を受け続けて先祖、つまり祖霊となっていくとされた[5]。
こうして、霊魂についてはインド仏教も、さらに日本各地の民俗信仰を吸収して展開した「日本仏教」も教理の矛盾を孕んだまま存在している。このため日本の伝統仏教は、教理の基本としては無我説に基づき霊魂の存在に否定的であるが、ほとんどの宗派が統一された公式見解を持たず、個人的見解も多様である。
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