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「華麗なる(笑)ギャッツビー」に見る、一人称小説の映画化の不可能性

「偉大なるギャッツビー」を第二章少しまで読んだが、第二章の冒頭の段落が意味不明で、英語の原書をざっと読んで確認し、その意味不明さの理由が「一人称描写」によるものだという結論になった。つまり、語り手の主観で語られるから、描写の客観性が無く、ある意味詩的な飛躍的表現になるわけだ。
実はこれが、「一人称描写(モノローグ形式)の小説の映画化は不可能」な理由であり、「不可能」が言い過ぎなら、「成功しても傑作にはならない(も言い過ぎなら「小説とは別の作品になる」)」理由である。当たり前の話で、原作では語り手の独白で語られる内容が、映画では語り手を映像対象に含む「客観描写」になるから原作とはまったく性質が異なるものになるのである。
それが、あの世界的ベストセラーである「ライ麦畑で捕まえて(ライ麦畑の捕まえ手)」が映画化されない理由である。あの秀逸な語り口を失えば、何も残りはしないからだ。
一人称描写小説の映画化で唯一成功したのは天才キューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」だろう。あれは、主人公アレックスの独白と客観描写のミックスで見事に映画化されたものだ。
デビッド・リーンによるディッケンズの「大いなる遺産」の映画化は一人称描写を客観描写にしてかなり成功した部類だが、それでも、一人称描写の持つ「語り手の勘違い」という重要要素は消えている。その「語り手の勘違い」が、たとえばドストエフスキーの「未成年」の面白さなのだが、それに気づかないと、「『未成年』は失敗作、駄作」という評価になる。私自身、「作者と語り手の二重視点の面白さ」に気づくまでは、「未成年」はまったく読めなかったのである。

「偉大なるギャッツビー」に話を戻せば、これも「語り手が、その事件・出来事をどう感じ、どう考えるか」が重要要素になっているのだが、映画ではそれを描いていない(描けない)から、映画の内容はどうしても話の上辺だけをなぞった、スカスカの内容になり、せいぜいが1920年代アメリカのブルジョワの「華麗な」贅沢生活の描写、ブルジョワの精神の貧困性を垣間見せるだけにしかならないのである。美術と音楽と出演俳優の顔しか、見る部分は無くなる。
仮に、「ギャッツビー」を再映画化するなら、私が監督なら「カメラを語り手の目として扱う」手法を取るだろう。つまり、語り手は鏡や窓ガラスに映る以外は姿を見せない。(あるいは、誰かと握手する手くらいしか見せない。)ことにする。そして、話は語り手のモノローグで進めるだろう。それによってこそギャッツビーという男の神秘性(大きく言えば神話性、あるいは象徴性)が表現できるのではないか。

要するに、これはたとえば「梶井基次郎の小説を映画化して面白いか?」という問題だと思えばいい。作者(語り手)の個性や視点や語り口が面白いというのがこうした小説なのであり、そのほとんどは映画化不可能なのである。(一人称描写が大半で非現実的内容でも、漱石の「夢十夜」などは、話そのものが面白いし、映像性の高い話なので映画化できたわけだ。だが、もちろん原作とは異なる作品だ。)


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