何度か、冒頭部分だけ読んで、読み続ける気にならなかったフィッツジェラルドの「グレート・ギャッツビー」を、なぜか読み始めてみると、実に詩的な文章で、ちょうど空が晴れて秋の日差しが射しこむ室内が、詩的な気分に満たされる。
たとえば、語り手がデイジーを描写する様子はこんなふうだ。
私はデイジーに目を戻した。あの心ときめく低い声音が、あれこれ私に尋ねようとしている。耳をすまして音程をたどりたくなる声だった。デイジーが何を言うにつけても、まるで一度しか演奏されない音楽のように聞こえた。その顔はというと、悲しげに愛らしくて、明るいものがある。つまり目は輝いているし、口元にも情熱の輝きがある。だが、デイジーに肩入れしたい男として、忘れがたい感興をそそられるのは声だった。歌のように聞き手を突き動かす。「あのね」と、ささやかれるだけで、たったいま浮き浮きすることがあったばかりで、すぐにまた浮き浮きすることがあるはずだ、と思えてくる。
まさに、この描写で思い出すのは、レッドフォード版ギャッツビーのデイジー役、ミア・ファーローである。そして、それとともに思い出すのは、あの映画の主題曲に使われた「What'll I do」だ。まさに「デイジーのテーマ」とでも言いたいような曲である。
そこで、ユーチューブでこの曲を探したが、私の大好きなナット・キング・コールの歌でもフランク・シナトラの曲でも、あの映画の歌とは少し違う気がするのが残念だ。それとも、私が自分の記憶を捏造しているのだろうか。
しかし、秋の晴れた午後に、「ギャッツビー」を読みながら、「What'll I do」を聞くのは贅沢の極みである。フィッツジェラルドを「小説の下手な小説家」と言って、御免なさい。(ほんの二、三日前が彼の生誕の日だったようだ。)
たとえば、語り手がデイジーを描写する様子はこんなふうだ。
私はデイジーに目を戻した。あの心ときめく低い声音が、あれこれ私に尋ねようとしている。耳をすまして音程をたどりたくなる声だった。デイジーが何を言うにつけても、まるで一度しか演奏されない音楽のように聞こえた。その顔はというと、悲しげに愛らしくて、明るいものがある。つまり目は輝いているし、口元にも情熱の輝きがある。だが、デイジーに肩入れしたい男として、忘れがたい感興をそそられるのは声だった。歌のように聞き手を突き動かす。「あのね」と、ささやかれるだけで、たったいま浮き浮きすることがあったばかりで、すぐにまた浮き浮きすることがあるはずだ、と思えてくる。
まさに、この描写で思い出すのは、レッドフォード版ギャッツビーのデイジー役、ミア・ファーローである。そして、それとともに思い出すのは、あの映画の主題曲に使われた「What'll I do」だ。まさに「デイジーのテーマ」とでも言いたいような曲である。
そこで、ユーチューブでこの曲を探したが、私の大好きなナット・キング・コールの歌でもフランク・シナトラの曲でも、あの映画の歌とは少し違う気がするのが残念だ。それとも、私が自分の記憶を捏造しているのだろうか。
しかし、秋の晴れた午後に、「ギャッツビー」を読みながら、「What'll I do」を聞くのは贅沢の極みである。フィッツジェラルドを「小説の下手な小説家」と言って、御免なさい。(ほんの二、三日前が彼の生誕の日だったようだ。)
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