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「装飾的目隠し」の思想

「ギャラリー酔いどれ」から転載。
私は、日本画は、水墨画以外はあまり好かないし、特に浮世絵は人物が(顔もポーズも)グロテスクで嫌いなのだが、下の絵は面白い。
画面右上と、中景から遠景にかけて広がるピンク色の、端が丸い帯状のものは何か。これは明らかに現実に存在する何かではない。私の解釈では、むしろ、「この絵は現実そのものではないよ」ということを強調する何かだ。
我々は西洋の絵画の本流である「絵とは現実を写すものだ」という思想に毒されているから、現実めいた絵を見ると、すぐにそれを現実を写したものだと思い込む。しかし、言葉が世界を完全には表現できないように、絵画も世界をそのまま表現できはしない。たとえば木を描く時に木の葉のすべてを正確に再現しているわけではない。「それらしく見せる」だけである。それが絵画の技法だ。日本画は、最初から、「絵画は現実を写す」という思想そのものを放棄し、独自の発展を遂げたのではないか、というのが、この絵を見て私が考えたことだ。(とっくに誰かが言っている説かもしれないが、まあ、そのあたりはどうでもいい。)
絵を描く、ということは、世界や現実の中に、特に何か描きたいものがある、ということであり、それは現実の中の「通常の現実以上のもの」だ、ということになる。そうでなければ描く意味はない。で、それを描く時に、「描きたいもの」を邪魔する何かが現実の中にあれば、それを排除して描くことになる。それが写真と違う絵画の利点でもある。
しかし、その排除をする際にできる「空白」はどうするか。
下の絵では、その「空白」を空白のままにしたのである。そして、その部分を、幾何学的な直線で作られ、円の端を持つピンクの帯(「雲」と言っておこう。)にすることで、「見る人は、ここはただの背景(空白)として見なさい」ということを親切に指示してくれているのだ。つまり、絵画鑑賞は作者と見る人のコラボレーションで行われる、という当たり前のことを一部の日本画作者は心得ていた、ということだ。
これは西洋の「作者絶対主義」の芸術観からは出てこないものだろう。
なお、このピンクの「雲」は、背景だけではなく、右上の部分のように前面にも出てくるから、「装飾性のある目隠し」とでもいうべきものだろう。そういえば、日本の建築にはそういう「装飾的目隠し」の思想があった。(障子の破れを千代紙の小花で隠すなど。)それは絵画にも共通する「日本的発想」なのだろう。

花田清輝か誰かが、「洛中洛外図」について似たようなことを書いていたと思うが、そこでは「装飾的目隠し」の思想には触れておらず、不要部分を「雲」で隠すことによるクローズアップ効果のことを言っていたような記憶がある。まあ、うろ覚えの話だ。


(例によって、編集画面と掲載画面で絵のサイズが違うので絵の一部しか見えなくなってしまっているようだ。興味のある人は元記事参照のこと。)

 画は 葛飾 北斎(葛飾 北齋)かつしか ほくさい 

 宝暦10年(1760)? ~ 嘉永2年(1849年)

 号は、葛飾 北齋、前北齋、戴斗、為一、
                  画狂老人、卍 など。        作


  「目黒不動 詣り」です。

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