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「瞑想」と「論理的現実的思考」の乖離

私が「シャンティ・フーラ」(この言葉が何を意味するのか知らないが)ブログを嫌いなのも、下に書かれたような異様なスピリチュアル臭のためである。竹下雅敏とか言う人物の政治眼はなかなか優れたものだが、こうした異様な言説(赤字にした)が実に残念だ。(マドモワゼル愛氏や神戸だいすき女史にも同じ匂い、合理的思考の点での根本的欠陥がある。)
「瞑想」と言えば言葉がきれいだが、それは多くは「妄想」への没入であり、瞑想による「神秘体験」とは、その妄想が暴走することで幻覚性を帯びるのが事実だろう。
引用した記事では竹下氏は「スピリチュアル」を批判しているが、彼自身が書いていること自体がその胡散臭いスピリチュアル言説そのものである。

(以下「混沌堂主人雑記(旧題)」から引用)
 キリスト教シオニズムには、原典の聖書には存在しない「終わりの時、携挙、大患難時代、イスラエル国家」という概念があるとのことです。
 携挙(けいきょ)とは、“死んだ人は栄光の体に復活し、生きている人は栄光の体に変えられ、生きたままで天に引き上げられ、空中でキリストに会う”という説のことです。
 スピリチュアルの「アセンション」の概念を非常に具体的にしたものが「携挙」だと言えるかもしれません。なお、瞑想の過程でこうした「携挙」の概念に近い体験をする事があります。それはサマーディ(三昧)と呼ばれます。
 私は、キリストの親分であるサナット・クマーラの霊体と会ったことがあり、マハー・アヴァター・ババジの肉体(広義)にも会ったことがあります。もっともババジの場合は、わざわざ私の家まで来てくれたわけですが…。残念なことに、彼らは『天界の改革』の過程で滅びてしまいました。
 ですから私は、キリスト教の「携挙」の概念は良く分かります。問題なのは先の私の体験は、サマーディですらないことです。『アーユルヴェーダの解説シリーズの 24 回目』において ヨーガ・スートラの二つの三昧体系を解説しました。先の体験は、瞑想の初歩である有尋三昧、有尋定ですらないのです。なぜなら、これらの体験は、それぞれ「3.0次元6層の第4亜層」と「3.0次元7層の第4亜層」の出来事だからです。これはサマーディではなく、「夢のヨーガ」に分類されるものなのです。
 私は、若い時に最終段階の「無種子三昧」も実現していますので、瞑想体験は全て終わっています。私からのアドバイスがあるとすれば、先の「携挙」のような子供騙しは無視することです。
 ヨーガ・スートラや小乗仏教の瞑想の階梯は、非常に優れておりレベルも高いのですが、これが大乗仏教、チベット密教になると格段にレベルが下がり、キリスト教や仏教の顕教レベルになると、先の「携挙」のようにどうにもならないところまで落ちて来ます。スピリチュアルは更に酷いです。
 「聖書スレッド」をご覧になると、“信仰”と呼ばれる幻想によって、言葉だけで人々が簡単に洗脳され、騙されることが分かるでしょう。宗教は人々を洗脳し、思い通りに操るための道具として権力者に利用されているのです。
(竹下雅敏)

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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