誰かのお母さんが言っていたという「平凡が一番」というのは、最高の叡知の言葉だろう。
(以下引用)
ドラマの無い人生
『耳嚢』という江戸時代の随筆集で読んだ格言が、人生の秘訣をなかなか簡潔に言っているので紹介する。元の言葉通りではないが、
「気は長く、仕事は強く、色は薄く、食は細く、心は広く」
というものである。単純だが、まさに人生の指針として過不足の無いものだろう。特に、「食は細く」というのは過食から不健康になりがちな現代人への良い戒めだし、「気は長く、心は広く」というのもストレスフルな現代人が心がけるべきことだろう。もちろん、仕事を一生懸命にやるのも大事だし、過度の情事を慎むのも大事だ。全体を一言で言えば「節制」である。あるいは「生活を自己コントロールせよ」ということだ。
こういう戒めを守っていると、ドラマチックな人生にはならないだろうが、ドラマとは実は「不幸の塊」なのである。あなたは父親を殺し、母親を犯したいと思うか? ところがそれが古典古代世界最大のドラマとして古来有名な『オィディプス王』のプロットなのである。あるいはハムレットのように恋人を発狂させ、義理の父を殺し、恋人の父親を殺し、友人すべてを破滅させるというプロットもある。あなたはそういう人生にあこがれるか?
世の中にドラマがあふれた結果、自分の平凡な人生に満足できなくなった人間がいるとしたら、ドラマも罪つくりである。(『ドン・キホーテ』とは実はそういう小説である。)
実際、世間の人間はドラマに毒されており、私は、たとえば世間の恋愛の90%はドラマの真似をしているだけだと思っている。封建時代には恋愛など無くても人々は結婚し、幸せに暮らしていたのである。そうした時代には恋愛とは不倫でしかなかったと言ってよい。近松の心中物とは「封建時代における真の恋愛は不倫のみである」ことの証明のようなものだ。
しかし、私が案ずるまでもなく、ドラマチックな人生を送るには多分、才能が要るのである。才能もない人間が現実人生にドラマを求めると、周囲をめちゃくちゃにするのがオチだろう。もっとも、そのめちゃくちゃがドラマではあるのだが、ただし、周囲の人間にとってはいい迷惑だし、面白いものでも美しいものでもないはずだ。
というわけで、平凡な人生をなぜ人々が嫌うのか、私には理解できない。自分の力で生きているだけで立派だし、周囲に迷惑をかけずに生きていたらもっと立派だ。それだけでも、ドラマチックな人生を送った犯罪者の1万倍も称賛する価値がある。
もっとも、実人生と混同しなければドラマは有益なものだ。有益どころか、ドラマ世界に浸っている時間は「高次元の人生」と言ってよい。これはたとえば歌謡曲やポップスの中のドラマであってもいい。我々がそのドラマの美に感動するというのは、より高次元の人生を自分の脳内世界で体験していることなのである。ただし、それはあくまでヴァーチャルなものであり、現実世界の美や感動はそれとは別だ。
(夢人追記:言語芸術の「魔術」とは、悲惨や不幸も美に転化されるというものだ。現実人生で失恋をしたいと思う人はほぼゼロだろう。しかし、歌謡曲やポップスでは失恋は甘美な陶酔なのである。そして小説では殺人も強姦も犯罪も戦争も恐怖も絶望も苦悩も娯楽になるのである。現実では抑圧される暴力や性への衝動や死への恐怖がフィクションでは大きな美的要素・娯楽要素になるわけだ。)
コリン・ウィルソンの言う「至高体験」はドラマチックな出来事に遭遇して生じるものではない。たとえば、若い母親が夫を仕事に送り出し、洗濯をした後、その洗濯物が青空を背景に揺れているのを見て、何とも言えない幸福感に包まれる、そういうものこそ至高体験であり、「自分の今の状態こそが幸福なのだ」という感覚なのである。
あなたはドラマの無い人生は空しいと思うだろうか? この若い母親の幸福感を馬鹿馬鹿しいと思うだろうか?
「自分はいつも幸福だったのだ」(カミユ『異邦人』の主人公ムルソーの死刑前夜の呟き)