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人間の社会的行動原理

昔書いた文章がフラッシュメモリーの中から出て来たので、このブログに載せておく。まあ、この文章自体、既に載せたかもしれないし、似たようなことは昔から何度も書いていると思う。

(以下自己引用)



人間の社会的行動の原理はとても簡単である。それは、① 自己保存の欲求 ② 自己拡大の欲求の2点からほとんどの行動は出ているということだ。①の自己保存の欲求は飲食の欲求と、苦痛や危害への恐怖の二つの感情を主とする。つまり、自分自身の生存を守るための行動が社会的行動の第一パターンだ。しかし、自己の生存を守るだけでは人間は精神的に満足できない。そこで、快楽や快感を求める行動が社会的行動の第二パターンとなる。ここには言うまでもなく、性欲や恋愛、あるいはさまざまな文化的活動が入る。


資本主義社会においては、消費者の「自己保存の欲求」と「自己拡大の欲求」をそれぞれターゲットにして企業や個人の商行為が行われる。


中でも生命維持のための支出は、消費者にとって喫緊の支出であるから、医療産業や健康産業は大きなマーケットとなる。


だが、ここでは「自己拡大の欲求」と、それに伴う社会のメカニズムを考えよう。


 


人間が社会的に生きていくためには、様々な装飾が必要となる。たとえば衣服を着ることなどがそれである。衣服を着ることは必ずしも生命維持に必要なものではない。温暖な地にあれば、年中裸で生活してもいいはずだ。だが、現代社会の中で生きるには衣服を着なければならない。さらに、その衣服にも様々なランクが付けられ、高価な衣服を着ることがその人の社会的ステータスを表すことになっている。(これを無視できるくらいの社会的ステータスというものも、またあるのだが。)冠婚葬祭なども社会的装飾である。人が死んだ時に、必ず葬式をしなければならないということはない。しかし、周囲の圧力によって、遺族は高い金を出して葬式を行うことになる。結婚式も同様である。これらにはもちろん、意義や役割もあるが、その一番の意義は、冠婚葬祭産業にとっての儲けの機会だということだ。


また、現代社会というものは、スポーツを人々に勧めることに熱心である。それもやはり、スポーツが人々の金銭消費行動に結びついているからである。一方、文化的行為は個別的・主観的なものであり、必ずしも消費行動とは結びつかない。たとえば、空を見上げるだけでその美しさに感動できる人間が、空を書いた絵を高い金を出して買うだろうか。もしも買うとしたら、それは「絵を鑑賞することの素晴らしさ」を社会全体が教育したからである。そして、そういう教育をいくらほどこしても、高価な絵よりも自然の美の方が素晴らしいと思う人間は、やはり出てくるのである。つまり、文化は個人の内面に関わるものであり、金銭消費と必ずしも結びつかない。


スポーツを愛好する人間をバックアップするのに金を出しても、それは回収できる。だが、文化的行為に金を出しても、それが回収できる確率は低い。だから、この社会は文化活動に対して冷淡なのである。なにしろ、障害者までがスポーツをやり、それを社会全体が美談として応援するのがこの社会である。たしかに、スポーツというものは、結果が目に見えて、分かりやすい。逆に、文化活動の価値を判断するのは難しい。スポーツの世界で好結果を出した人間を称賛することには、誰も反対はできないのである。0.1秒差で決まろうが、1位は1位、2位は2位というのがスポーツの世界の厳しさである。一方、文化活動に関しては、ルノアールとセザンヌの優劣の判断など、人それぞれに違うものだ。ある人にとっての芸術も、他の人にとっては子供のいたずらだ。村上隆の「芸術」を芸術とすることは芸術への冒瀆だと思う人は沢山いる。しかし、村上隆の場合には、資本主義社会の中ではっきりと商品価値がある、と見做されてはいるのである。


この社会では、文化活動であれ何であれ、最終的には「値段がつくかどうか」で物事の価値は決まるのである。村上隆の作品には金を出しても買うという人間が現れ、値段が吊り上って行った。彼は、資本主義社会での芸術の勝者なのである。それがどういういきさつでそうなったかはともかくとして。もちろん、こう書いていることからも分かるように、私は、村上隆というものは、「電通・博報堂」的操作によって作られた虚像だと思っている。彼の作品に価値がないとは言わないが、その値段はあきらかに法外である。


茶器の値段などに見られるように、物の値段というものは売る側が勝手に決めるものである。朝鮮の農家の床に転がっているような平凡な茶碗に利休がお墨付きを与えたら、それが何万両という値段になる。無駄金を持った人間が、それに騙されて買うと、その後は、その茶碗の値段はその高価な値段で固定され、国宝にまでなるわけだ。


つまるところ、この世は大昔から資本主義社会だったのであり、貨幣というものがこの世に出現して以来、そうだったのだ。そして、物の価値という得体の知れないものによってこの世のあらゆる悲喜劇が生じるのである。


 


物事の価値についての考え方や哲学を価値観と言う。仏教の根本思想は、実は価値観そのものを捨てることである。あるいは世の中のすべての物事に対して、価値観による判断をしないということに価値を置く思想と言ってもいい。「空中無色、無受想行色、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、無眼界、無意識界、無苦集滅道、無智亦無得」と、すべての差別相を捨てて物事を見るのが仏道だ。そこには自分という意識も無いから、恐怖も無いし、また悟るということすらない。物事に対して主観的な価値観を張り付けて見ることはしないから、ただ「花は紅、柳は緑」と、見るだけだ。いや、そのように言語化することすらしないだろう。


こうした人間は、おそらく資本主義の対極にいる存在である。


もちろん、人間である以上は、彼らとても生存の欲求を完全に捨てることは困難である。だが、前に書いた、第二の欲求、つまり、自己拡大の欲求からは完全に逃れているのである。これを動物的生と批判してもいいし、非文化的だと批判してもいい。だが、少なくとも、「求不所得苦=(求・不所得)苦」という現代の最大の精神病は彼には無いし、また文化とは金によってのみ作られるものではないのである。美とは、我々の心の中で生じる感覚であり、その対象によってのみ決まるものではない。金を掛けて作った壮大なゴミの山のような「芸術作品」もあるし、道端の草の葉の上の露のきらめきや空を行く雲のような金のかからない美もある。


おそらく、我々が生活するのに必要な金は、そう多くはないのだろう。社会の圧力によって、我々は金を使わざるを得ない生活を送っている。そして、その生活を疑うこともないのだが、その、馬車馬のように働いて金を稼ぎ、不必要な消費をして稼いだ金を使う生活が、我々を一種の精神病にしているという可能性もあるのである。

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