私は「歎異抄」の「善人なおもて(もって)往生をとぐ。いわんや悪人をや」という言葉がまったく理解できないのだが、浄土真宗は日本仏教の中で信者数がもっとも多い(あるいは、案外創価学会に抜かれているかもしれない)と聞いているので、それらの人々は、この奇怪な言葉を理解しているのだろうか。私が特別に馬鹿なのだろうか。
その考察をしてみる。ただし、一気に書くのではなく、気が向いた時に書き次いでいく予定だ。
先に書いておくが、私は「浄土宗」と「浄土真宗」の教義の違いが分からないし、そのふたつが分かれた理由も分からない。浄土宗から見て浄土真宗は邪教なのか、その反対に浄土真宗から見て浄土宗はどうなのか。また、他の仏教宗派から見て、この両派は邪教なのかどうか。そしてまた、「浄土(極楽・来世)」を前提としない仏教は日本の宗派にあるのか。(禅宗などがそういうイメージだが、良く知らない。)
なお、私は「悪人正機説」の「正機」の意味も知らない。信者たちには常識なのだろうか。一般人が日常で使う熟語ではないと思うのだが。一応、「善人」「悪人」は一般的な意味だとして考察する。
(以下引用)
第三条
一 善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世 のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。 この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむ けり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむここ ろかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のここ ろをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を とぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなる ることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、 悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往 生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰 せ候ひき。
(以下現代文訳)
その3
善人でさえも浄土に往生できるのだから、悪人が浄土に往生できないわけがない。 ところが、世間の人たちが言うには、「悪人でさえ往生できるのだから、善人が往生 できないわけがない」。この考え方は、チョット見は正しいように見えるけど、 阿弥陀さまの本願、つまり他力の考え方にはふさわしくないわけ。なぜなら、 善い行いをして、修行をいっぱいして、そしてその結果で仏になろうとしている 人(こういうひとたちを仏教では善人というんだけど)は、阿弥陀さまのお力に まかせるという他力の心が欠けているので、阿弥陀さまの本願の対象から はずれているのね、ところが、自分でなんとかして仏になってやろう、 という心を改めて、阿弥陀さまの力にお任せしちゃえば、真の浄土に往生できるわけ。 煩悩の塊みたいな私たちは、どんな修行をしたって解脱なんかできない。そんな わたしたち(つまり、修行もできないような、仏教でいうところの悪人ね)を、 阿弥陀さまが可哀想に思って、私たちを救ってあげようという願いをおこされた わけで、その願いの本来の意味は、悪人こそを成仏させてあげようというもの なわけだから、阿弥陀さまのお力にお任せしてしまう悪人こそが、一番浄土に 往生するのにふさわしいわけ。そういうことだから、「善人でさえ往生できる のだから、悪人が往生しないわけがない」と言うことになるわけだ。と、親鸞さまはおっしゃいました。(以上引用)以下考察

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