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「利他主義」という「主義」への疑問

「東海アマブログ・利己主義から利他主義へ(その1)」より抜粋。
最初に言っておくが、これは東海アマ氏の言への批判的な内容である。そして、私は今、酒が入っている。当然、内容はかなりいい加減なものになるが、まあ、素面で書いてもくだらない内容のブログなのだから、その点は無視していい。
先に引用文から読んでおくほうがいいとは思うが、私の発言から読んでもさしつかえない。これは、東海アマ氏の発言を精査しての論文ではないから、東海アマ氏の言とは別の次元の話、と見てもらっていい。

私が疑問に思ったのは「利他主義」という言葉そのものであり、ひいては「主義」という言葉についてである。

「主義」とは何か。その人の生き方の根幹をなす思想や信条だろう。漢字を分析するなら、「主として義(正しい)とされること」か。「主として」であるならば、場合によってはその「主義」に反する行為をしてもさしつかえないか。そうは思われていないはずだ。その人が、自分の主義に反する行為を平然と行うなら、それは主義に対する裏切りであり、変節だ、とされるだろう。(バルザックの作中の哲学的悪党ヴォートランの名言を借りれば、「美徳は切り売りできない」のである。)たとえば、共産主義者の「転向」が想起される。
「主義」という言葉の性格からするなら、世上に言う「反知性主義」というのは明らかに「主義」ではないだろう。「反知性主義」とされる人々は、単に「馬鹿」「無教養」であるというだけであり、「主義」として知性に抗しているわけではないはずだ。(本来の「反知性主義」は、そうした「知性への反抗」であるようだが。つまり、知性をふりかざすインテリへの大衆の嫌悪を表すのが本来の「反知性主義」のようだ。だが、安部や麻生は「知性」に反抗しているのではない。単に馬鹿なだけだ。それを「反知性主義」と名づけるのはおかしいだろう。)

では、「利他主義」という「主義」はありえるだろうか。その人の生き方の根幹が他人を利することである、という生き方は可能だろうか。私には、それは非常に疑わしく思える。人間性の自然に反すると思われる。
人間は生物であり動物だ。そして生物や動物の基本本能は自己の生命を守ることである。その子供や家族を守ることはそれに準ずるものであって、主ではないはずだ。興奮のあまり、自己保存本能を忘れ、子供や家族のために命を落とすのは例外的な事象だ、と私には思われる。
ただし、人間は、岸田秀流に言うならば、「本能の壊れた動物」であり、自らの思想に殉じて自死することすらある奇妙な存在である。人間においての「観念」や「思想」の力は巨大なものだから、「利他主義」が人間本来の本能に反するから、ありえない、とは私も言わない。
だが、仮にも「主義」と言う以上は、それが当人の生き方を一貫する思想でなければなるまい。
そうなると、私にはこの「利他主義」というものが不可能な思想に思えてくるのである。
つまり、何事につけても「他人の利益」を優先させるような人間の生存は可能なのだろうか、ということだ。海上で遭難し、一枚の板に二人がつかまり、私ともう一人のどちらかが犠牲にならないと、どちらも死ぬ、という「カルネアデスの舟板」の状況において、自分が板から手を離し、相手を生き延びさせる、という選択を、あらゆる場合に実行できる人間がいるのだろうか。
私が東海アマ氏の「利他主義」という言葉に大きな反発を感じるのが、彼がそこまで考えて「利他主義」という言葉を使っているようには思えないからである。
そこまで徹底していないとすれば、何か困難な状況に陥った場合、この「利他主義」は簡単に崩壊するだろう、と私には思われる。

言うまでもなく、私は「利己主義」を全肯定する者ではない。だが、利己主義(自己愛)は、人間性の根幹である。それを否定することは容易ではない。それが可能になるのは、利己主義は結局他人だけでなく自分自身をも不幸にする、ということを人々が理解するしかない。単に「利他主義でいこう」というお題目を唱えたり、「利他主義」らしい立派な人々を称揚するだけでは世界はほとんど変わらない、と私は思っている。(「利他主義」らしい人々にしても、その行為によって自分自身の満足を得ているのだから、広い意味での利己主義と言える、というのは昔からある議論である。)

とりあえずの結論を言うなら、「利他主義」も「利己主義」も誤りであり、「共存主義」こそが正解だ、ということになるだろう。「共存」の不可能な状況にならないように社会システムを作っていくことが、これからの人類の課題ではないだろうか。




(以下引用)


 かくなる上は、上に挙げた、真の利他主義者たちを支援し、利己主義に汚染された日本社会の救済を諦め、崩壊するがままに任せて、未来を担う、子供たちのために、わずかな利他思想のオアシスを用意してあげるしかないと考えている。
 だから、山奥の過疎地に農業共同体を結成して、賛同者だけで、苦難の時代をやり過ごそうと提案している。
 未来は子供たちのものだ。彼らの未来に、素晴らしい利他思想の社会を用意してやるために、今何ができるのかを考えている。

 とまれ、人は愚かなものだ。この地上に誕生する、すべての人は、必ず愚かな失敗を繰り返すようにプログラムされている。
 なぜなら、地球は「苦悩の惑星」なのだ。どうしてもカルマを止揚できない、箸にも棒にもかからない愚かしい人たちだけが誕生してくる惑星なのであって、いわば、一種の地獄特訓道場か魂の監獄のようなものだ。
 ここで、我々は、真実が見えるようになるまで、愚行を繰り返し、自分の馬鹿さ加減を思い知らされることになっている。
 我々が、中村、服部、高遠のような利他思想に目覚めたそのとき、数百もの人生のなかで苛まれ続けた苦悩から解放されるのだ。

 筆者も、もちろん本当に愚かな利己主義者だった。
 今、自分の人生を振り返るなら、とても恥ずかしく忸怩とするばかり。絶望的な気分になり、鬱状態に閉じこめられそうだ。
 筆者の人生で、楽しく思い出されることは、ごく僅かでも他人の役に立てた思い出だけだ。後は、自分勝手な利己主義により、人を利用しようとして失敗した恥ずかしい思い出ばかりで、もう生きる気力さえ失ってしまう。

 利己主義の自分は恥ずかしく、苦悩に満ちている。しかし、利他主義の自分は楽しく、未来への希望を与えてくれる。
 人の原点は利他思想なのだ。我々は、母親と周囲の利他思想によって育まれた。利他思想、すなわち無私の愛情がなければ、子供は成長さえできない。
 親が利己主義者だったなら、残酷な迫害のなかで殺される運命しかない。
 だから、今、生きている、すべての人々は、利他思想のおかげで生きているのである。親や周囲の人々の愛に育まれて、ここに存在しているのであって、もし、子供たちの明るい未来を用意してやりたいと思うなら、我々は、利他思想で愛情をいっぱい与えてあげなければならない。

 それなのに、利他思想のおかげで育った人たちが、かくも利己主義思想に汚染され、洗脳されてしまっている現状は、いかなる理由によるものか?
 それは、まさしく、自分の原点を見失わせる洗脳教育の成果に他ならないのだ。
 資本主義社会は、一部の特権的な大金持ちが、自分たちの利権をますます増やそうとして、人々を資本主義が正しいかのように洗脳し、従順で臆病な家畜にしてしまおうとしている。

 利他思想を忘れさせ、利己主義の矮小な人生に埋没させようとしているのだ。
 我々は、自分の原点を思い出さねばならない。
 利己主義による洗脳の成果は、人々に愛を捨てさせて敵対をもたらし、包容・寛容を捨てさせて攻撃・制裁をもたらした。
 こうして愛情を捨てさせられた結果、我々は、まさに苦悩の王国に棲むようになった。
 利己思想が産み出すものは苦悩・絶望である。利他思想の産み出すものは希望と安心なのだ。
 しばらくのあいだ、このことを証明するためにブログを書き続けたい。








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