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「仁」と「人」、「理」と「里」

かなり前に新古書店で宮崎市定の新訳による「論語」を買ったので、気が向いた時に、気が向いたページを少し読んでいるが、宮崎市定という人はかなり自信家で、その新訳も強引な印象が強い。好きな学者ではあるが、信頼できる発言ばかりとは限らないので、半分は眉に唾をつけて読んでいる。
で、「里仁編」を少し読んで、「仁」という概念についてあれこれ考えたことを思いつくまま書いてみる。読むのが面倒な人は、赤字部分だけでも読むといい。これは、儒教とは無関係な、「世界の思考的把握」に関する私自身の創見による画期的思想である。

先に「仁」という「儒教の最高善とされる倫理思想」についての私の基本解釈を書けば、これは「ヒューマニズム(人間尊重主義)(→必然的に「平和主義」)」であり、「仁」という漢字を偏と旁に分ければ、「人偏(ニンベン)」に「二」である。つまり、人が二人存在すれば、そこに必然的に生まれる、あるいは生まれるべき感情が「仁」だ、というのが私の解釈だ。

「里仁編」の冒頭、「子曰里仁為美」を宮崎市定は「子曰く『里は仁なるを美と為す』」と書き下し、「里」とは村の一区画の意味だとして「『家を求めるには人気のいい里がいちばんだ』という古語がある。」と訳しているが、これはかなり呆れた解釈だろう。宮崎は「論語」の意味不明箇所の多くは古語の引用だ、としているが、これはその暴走だと私は思う。この解釈だと、続く「択んで仁に居らずんば、焉(いずく)んぞ知なるを得ん」が実に俗臭に満ちた「どんなに骨を折って探しても、人気の悪い場所に当たったら、それは選択を誤ったと言うべきだ」と解釈している。まるで、孔子の時代の人間(主に農民)が自分の居住区を勝手に選べたような言いぐさである。ただし、「仁」が「人」の意味に通じるという根幹は正しいとは思う。

私の解釈は「里」は「理」だというものだ。里の原義が村の一区画だというのなら、「頭の中を区画整理するのが『理』だ」というわけである。
そこで、「里仁為美」とは「理は仁を美となす」となり、「合理的に考えれば、『仁』であることがもっとも賢明(至高)なのである」、という思想になり、これは孔子の思想、つまり「原始儒教」が「仁」を道徳の根本に置いたことと一致するだろう。

ついでに言えば、西洋哲学の根本的欠陥は、「神と人間」、「思考自体」、「政治」については考えたが、「人間対人間(社会道徳)」についてはほとんど考えず、ただ「神への服従」か「神への反抗」かの二者択一だけしか考えなかったことである。それがあの西洋人の「他者(他人種、他民族、他階級)への酷薄さ」「闘争性」「侵略主義」の根本原因なのではないか。知識人は「哲学」によって、考える内容が規定され、それ以外の思考法ができなくなるわけだ。そして、「知識人」の意見や発言が社会をリードし、社会を洗脳するのは昔も今も同じである。

これもついでに書いておけば、幼児は知性が未発達だから、周囲が教えて「人間化」する必要がある。つまり、「生まれつきの善」というのは基本的に不可能であり、周囲の教化によって人は善性を身につけるのである。これを荀子は「偽善こそ善の本質である」という意味のことを書いており、「偽」とは、分解すれば「人為」なのである。何も、心からの善意が自分には生まれない、と嘆く必要はない。善とは「習慣(訓練)で身に付ける」ものなのである。




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