忍者ブログ

「ゴミ」は本当にゴミなのか

今日は、「徽宗皇帝のブログ」との連動記事で、引用は無しで「資源の無駄使い」の考察をする。

私が大学生として上京した時、すぐ上の兄のアパートでしばらく一緒に生活をしたことがあったが、その時に驚いたのが、兄が漫画週刊誌(青年誌で、「漫画アクション」だったと覚えている。バロン吉元の『柔侠伝』などがお目当てだったようだ。)を買って、それを読んだらすぐに捨てていたことだった。当時の私には、本や雑誌を捨てる、いや、金を出して買ったものを捨てるという行為そのものがショッキングだったのだ。もちろん、捨てる側の言い分としては、「一度読めば、その雑誌はそこから得られる情報は吸い取った後の抜け殻にすぎない。つまりゴミでしかない」ということだろう。兄に聞いたわけではないが、その事はすぐに推測できた。確かに、狭いアパートの部屋に住む以上、ゴミを増やすわけにはいかないことは理解できた。だが、その時に感じた「冒涜」の感じは、今でも忘れられない。
その後、読んだ後の新聞や雑誌、ひいては文庫本までも捨てることが日本人の一般的習慣となったのだが、果たしてこれは正しいことなのだろうか、という疑問は今も抱いている。
泉鏡花のように、文字が書かれたものは商品の包み紙まで保存する、というほど「文字信仰」をしているわけではないが、それを読むことで自分の魂の一部を確かに形成した「文字(文章)」の書かれた物を「ゴミ」として捨てる行為は、それ自体が「魂の希薄化」につながるような気がしないでもない。
雑誌や新聞だけではない。現代では、「用の済んだ物」はすべて「ゴミ」である。
ならば、もともと「役に立たない存在」(これは「有能な、役に立つ人々」の目から見て、ということだ。)である老人や病人などが「ゴミ」と看做されるのは当然だろう。そして、「ゴミ処理」を請け負う業者だけが、老人や病人を「商売対象」として扱うことになる。そこには、敬意も何も存在せず、相手をただの「モノ」としてしか見ないことになるのは当然だろう。

話が逸れたようだ。本題は「資源の無駄使い」であった。
私は、ペットボトルなどを捨てることに、今でも心理的抵抗がある。明らかに、それは「容器としての機能」を持ち続けているからだ。仮に、江戸時代か明治時代あたりにペットボトルの空き容器を持っていけば、軽くて丈夫な、「驚異の水筒」として家宝扱いされただろう。それが、中の飲料を飲み終えると同時に、「ゴミ」として平気で捨てられるのである。
時代が違うから当然だ、何をごちゃごちゃ言っている、これだから老害(この言い方にも「人間をゴミ扱いする」思想があるようだ。)は、と若者などに言われそうだが、私にはこうした「物を粗末にする姿勢」が「人間を粗末にする姿勢」「人生や生命を粗末にする姿勢」とどこかつながっているような気がするのである。



拍手

PR

この記事にコメントする

Name
Title
Mail
URL
Comment
Pass
Pictgram
Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

カレンダー

04 2024/05 06
S M T W T F S
10 11
20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析