第十七章 アンセルムの村
フロス・フェリたちに別れを告げてから三日後にグエンたちは森を抜けた。なだらかな草地が上がったり下がったりして、時々は林もあるが、もはや密生した森林地帯ではない。周りの明るくなった景色に、一行は何となく心が軽くなる気分だった。実際には、森の中よりも人里のほうが危険は多いのだが、グエン以外の人間は、やはり人間の世界でこれまで生きてきたのだから。
「まず、道を探しましょう。その道を通っていくか、わざと道を避けるかは別にしても、どこをどう行けばどこに向うかという大体の見当くらいはつけておかないと」
フォックスの言葉にグエンはうなずいた。
「ならば、遠くまで見晴らせる高いところを探してみよう」
そう言って、グエンはゆるい斜面を先に立って登っていった。
その後からフォックスが早足でついていく。
「あなたたちはその辺で休んでいてもいいわ。近くに人はいないようだから」
後からついてこようとする子供たちにはそう声をかけたが、二人の子供は首を振ってグエンたちを追う。
やがて小高い丘の頂上に出た。
西の遠方には、彼らが来た森があり、その北には大山脈が続いている。この大山脈がサントネージュとユラリアの国境だったのである。そして、丘の東にはなだらかな平地が広がっていた。ここからタイラスの中心地に続いていくのである。
ずっと向こうに細く野原を横切っている薔薇色の線がランザロートに続く道だろう。その大都会は、もちろんまだ視界には入らない。だが、その道の途中途中に灰色の集落が見える。村が幾つかあるのである。
「まず、あの村に行きましょう。旅芸人としての初舞台ですよ」
「ああ、そうだな。後で、少しまた打ち合わせをしよう。俺たちの素性についての作り話もまだきちんとできていないからな」
「そうですね。名前はこのまま、ソフィ、ダン、グエンでいいと思いますが、私は変えましょう。フォックスという名前はサントネージュ宮廷では少し知られてますから。そうですね、ええと、前はフローラだったかな。似合わない名前だこと。いいわ、フォッグにしよう」
「フォックスに似すぎていないか?」
「そうかしら。じゃあ、フォギー」
「フォギーだな」
「いい、ソフィ、ダン、私はあなたたちのお母さんで、グエンの奥さんのフォギーよ。忘れないで、人から聞かれたら、そう答えるのよ。ただし、あなたたちはグエンの連れ子ということにします。いくらなんでも、こんな大きいこどもたちのお母さんでは、私が可愛そうよ」
「どうしてさ」
「つまりね、あんたやソフィを私が生んだとしたら、私は30歳くらいの年だと思われるの」
「そうじゃないの?」
「あのねえ、私はまだ25歳よ」
「たいして違わないじゃん」
「たしか、前には24だと言っていたが」
グエンが口をはさむ。
「えっ? そうでしたっけ。まあ、どっちでもいいでしょうが。案外と細かいことを覚えているわねえ」
「いや、すまない。なるべく打ち合わせは正確にしておきたいのでな」
「はいはい、25ですよ。大年増です」
「フォギーは若いわよ。それに、サントネージュ一番の美人だわ」
「ありがとう。ソフィはやさしいわね。それに比べて、この男たちは」
グエンとダンは肩をすくめた。フォギーの年が20歳だろうが30歳だろうが、彼らにはまったく関心の外である。
半日ほど歩くと、後少しのところに集落が見えてきた。
「さて、旅芸人ならば、本当は馬車の一つもほしいところね」
フォギーが言う。
「エーデル川を渡る時に、馬も馬車も捨てたからな」
「幸い、お金はあるけど、タイラスのお金ではないからねえ」
「あの、少しならタイラスのお金があります」
「えっ?」
フォギーはソフィを見た。
「あの、緑の森の盗賊たちと一緒にいたお姉さんから貰ったんです」
「貰った?」
「はい。その代わりに、サントネージュのお金を少しあげました」
「何だ。交換したわけね。でも、良かった。どれくらいある?」
「はい。これは、いくらくらいなんでしょう」
「ふうん、金貨と銀貨だから、結構あるんじゃないかしら。助かるわ。少なくとも、食事代や宿代くらいにはなりそうね」
「宝石は金にはならんのか?」
「都会なら金に換えることもできるでしょうけどねえ」
「物のほうが金に換え易ければ、俺の剣を売ってもいいぞ」
「まさか。売るなら、私の剣を売りますよ。私が剣を持つより、グエンが持つほうが百倍いいに決まってます」
「まあ、どうせ敵から奪った剣だから、それほど愛着もない。必要なら、そう言ってくれ」
「はい、じゃあ、必要なときは言います」
グエンたち一行が村に近づくのを、畑で農作業をしている農夫や農婦たちは奇異の目で見ていた。グエンの雄大な体格と、その虎の頭が人々を驚かせたのは当然だが、その驚きはグエンの持っている旗に書かれた「グエン一座」という看板の文字でいくぶんか治まった。この旗の文字は、少し前に、ソフィとフォギーが苦労して縫い付けをしたものである。
人々の驚きというものは、どんなインチキな弁明であれ、何かの説明があればそれで納得し、治まるものであるらしい。グエンの虎頭は、彼が旅の芸人であるというだけで作り物として受け入れられてしまったようだ。
「とざい、東西。ここに現れ出ましたるは、天下にまぎれもない驚異の一座、恐怖の虎男グエン・バードンとその一行。御用とお急ぎでない人は、この出し物を見逃すと、一生の後悔のもとだよ」
フォギーが流暢に弁じると、あたりに百姓たちがぞろぞろ集まってくる。
「お客さんたち、出し物が気に入れば、お金があれば結構だが、無ければ芋でも瓜でも結構。ただし、只見をするようなケチなお客は御免だよ。お代は見てのお帰りだ。では、はじめるよ。まずは、地上に降りた天使の歌声とはこのこと、歌姫ソフィ・マルソーの歌を聞けば、どんな悩みも消えて、地上の天国が味わえる。さあ、歌っておくれ」
ソフィが歌い始めると、遠くで働いていた者たちも集まってきた。まさしく、彼らにとっては、生まれて初めての「芸術」との遭遇だったのである。あるいは、生まれて初めて美の奇蹟を味わったのである。
「こりゃあすげえ。あの子は本物の天使じゃねえか」
「まるで頭の中に、きれいな光があふれるみてえだ。こんな気持ちは初めてだ」
「おらあ、何だか悲しくなってきちまったよ。こんなきれえなもんがこの世にあるなんて、うれしいよりも、悲しいみてえだよ」
「ああ、死んだ妹の声がおらに呼び掛けているみてえだ。お兄、うちは今、天国さいるんだ、幸せだから心配するなって」
歌声が終わると、人々は、その感動を失うのが怖いみたいに、しばらく黙っていた。ソフィはそのために居心地の悪い思いをしたが、やがて起った大きな歓声と拍手に、自分の歌が成功したことを知った。
「さて、お次は、この一座の看板の出し物。『悪党グエンと悲しみの姫君』だよ!」
今度はダンが幼い声を張り上げて、演目を叫ぶ。そのあどけない可愛さは、観客たちを喜ばせた。
「世にも奇怪な悪党グエン、頭は虎で体は人、そしてその心は、虎なのか、人なのか。彼は美しい姫君をさらって逃げました。しかし、正義の騎士、フォギーと、その従者にして利口者のダンは彼を追っておいつきます。はたして、フォギーとダンは、囚われの姫君を救えるでしょうか!」
小さな木の茂みを舞台の袖代わりにして、そこからグエンが飛び出してくる。上半身裸のその体は、それだけで見る者の度肝を抜いた。何しろ、2マートルもある身の丈の威圧感だけでなく、その逆三角形の見事な筋肉質の体は、ただの農作業などをしている普通の人間ではまずありえない体格であった。赤銅色の体はまるで油でも塗ったように午後の日差しに輝き、そして彼は観客に向かって棍棒を持った両手を大きく広げ、威嚇するように咆哮した。それはおそるべき虎の咆哮だった。聞いている者たちの中で気の弱いものは腰を宙に浮かせ、逃げ出そうとしたほどである。
「うわあ、虎だ、虎だ! 本物の虎だ!」
「ば、馬鹿言え、あの体は人間じゃねえか。あれはかぶり物だよ」
「だが、あの恐ろしい声は、ふつうの人間じゃあ出せねえぜ。あいつは本物の虎男にちげえねえ」
「本物の虎男って何だよ。虎か人間かどっちかに決まっている」
「しかし、あの体のすげえこと! ありゃあ、10人力くらいあるなあ」
「何、見かけだおしってこともあるぞ。何しろ、相手は役者だからな、すべてお芝居ってこった」
観客たちは興奮してめいめい勝手な感想を述べている。
その間にグエンはあたりをのそのそ歩き、時々恐ろしい咆哮をあげて観客を震え上がらせる。時には、わざと観客の一人に顔を近づけて唸り声を上げると、相手は「ひっ!」と叫んで飛び退る。
上半身裸のグエンの体は午後の日差しを浴びて、油を塗ったように赤銅色に輝いている。その見事な体だけでも、たしかに見物料を払う価値はある。
一回り回ると、グエンは茂みからソフィを引きずり出した。ドレスと呼べるほどの服は持っていないが、布地をつづり合せてそれらしく作ったドレスは、遠目にはお姫様のドレスに見える。
「あーれー」と芝居がかった悲鳴を上げてグエンに引っ張られるソフィの演技は、確かに芝居の中のお姫様そのものである。田舎芝居の役者にしては顔立ちが上品すぎるのだが。
「待て! 悪党グエンめ、姫を返せ!」
茂みから、今度は騎士風の格好をしたフォギーことフォックスが飛び出す。なかなか美青年風である。
「この正義の騎士フォギーが来たからには、姫は返してもらうぞ」
「ウウ、グルルルル!」
グエンは唸り声で不同意を示す。そして、両手に持った大きな棍棒を振り上げる。
ただでさえ雄大な体格のグエンが両手に持った棍棒を振り上げると、まさに神話の怪物である。
その棍棒が激しく振り下ろされる。フォギーの体は木端微塵か、と思われた次の瞬間、彼女はひらりと身をかわしてそれを避けている。もちろん、グエンが、当たらないように振り下ろしたのだが、観客にはフォギーの神速の動きに見える。
今度はフォギーが剣を構え、次々に技を繰り出すと、グエンはそれに煽られるように、必死に剣を避ける。そして、最後に両手の棍棒を打ち落とされ、剣で刺された格好で地面にどうと倒れる。
「姫、どうぞ私とともに参りましょう」
「はい、有難うございます。あなた様は命の恩人です」
「なあに、危難にあった人を救うのは騎士のつとめです。今頃宮廷ではあなたのお父上である王が、あなたの御無事を祈って待っているでしょう」
二人がしずしずと木の茂みに退場すると、ダンがつけひげをつけて、代わって出てくる。
「フォギー様、どこに行ったのですか? おや、ここに虎男が倒れているぞ。そうだ、私がこの虎男を倒したことにして、姫を私が貰うことにしよう。まだ生きていないだろうな?」
ダンは腰の木剣を抜いて、地面に倒れたグエンに打ちかかる。
すると、グエンがむっくりと体を起こし、猛烈に吠える。
ダンは悲鳴を上げて逃げていく。その後からグエンが追って木の茂みに走り込み、これで芝居の終わりである。この程度の内容でも、芝居を知らない観客たちは手に汗を握り、最後のダンの逃げっぷりに大笑いであった。
その夜は、村の大百姓である男の家に泊めてもらえることになった。
夕食の席で、その大百姓のゲオルグが聞いてきた。
「失礼な質問だが、その頭は、仮面なのかな?」
「まあ、そうなんだが、商売の都合で、本物の虎の頭ということにしている。この牙も本当は細工物だ」
「そうか、素晴らしい出来の細工だ。どう見ても、本物の虎の頭にしか見えない。と言っても、本物の虎など見たことはないが。それはともかく、あんた方は、この仕事を初めて長くはないだろう」
「なぜ分かる?」
「衣装だよ。どんなに下手な一座でも、長い間旅興行をしていれば、衣装はそれなりに充実してくるものだ。しかしあんた方の衣装は、うまく作ってはいるが、正直言って、今出来のものだ」
フォックスとソフィは顔を見合せた。
「まあ、そう言うな。確かにこの衣装はそこの女たちが素人細工で作ったものだが、田舎の見物衆には、これで十分だろう」
「まあ、そうだが、あんた方なら町で興行しても大喝采を受けることができる。その時には、さすがにこの衣装では貧弱だ。私のところに、昔、宿代代わりに旅芸人が置いていった衣装があるから、それをあんた方にやろう」
「ほう、それは嬉しいが、なぜそこまでしてくれる?」
「あんた方の芝居が気に入ったのと、あんた方の人物が気に入ったんだ。あんた方は将来名を上げるだろう。その時には、私の名を思い出してくれ」
「分かった。ゲオルグ殿、いずれ、このお礼はしよう」
「荷物が増えれば、荷馬車も要るだろう。古い荷馬車も一台やろう。ロバも一頭つけてな」
「そこまでしてくれると心苦しいが、何か今、お礼にできることはないか?」
「そうだな、あんた方の剣の腕は本物だと私には見える。もしも、次の町に向かう途中で盗賊に出会ったら、そいつを退治してくれたら助かる。まあ、無理な願いかもしれんが」
「ほう、盗賊が出るのか」
「ああ、シルヴェストルという、騎士崩れの山賊だ。手下が3人ほどいるから、あんたたちだけでは無理かもしれんな。しかし、我々百姓は、相手がたった4人でもかなわないのだ」
「そのシルヴェストルとはどんな様子だ?」
「やせて、背が高く、口鬚を顎まで垂らしている。頭は禿げている。年は30くらいで、目が非常に鋭い」
「手下たちの様子は?」
「最近シルヴェストルの仲間になったので、あまりはっきりしない」
「武器は?」
「剣と槍と棒だな。弓は使わないと思う」
「そいつらを我々が殺して、問題にならないか?」
「シルヴェストルを退治してくれたら感謝こそすれ、問題にはならない。これまでシルヴェストルのために5人が殺され、7人が不具にされている」
「まあ、うまく出会えたら、やってみよう。ただし、こちらも命は惜しいから、山賊に出会って逃げても我々を恨まないでくれ」
「それは当然だ。無理な願いなのは知っている」
ゲオルグに礼を言って退出した後、グエンはフォックスと相談をした。
「シルヴェストルという山賊は、次の村との間にあるモルドーという山に住んでいるらしい。山というほどの高さは無いようだが、街道がその山の中を通っており、その途中で山賊に襲われるということだ」
「人数はたった4人なの? じゃあ、多分大丈夫でしょう」
「しかし、こちらは子供連れだから、子供が危険な目に遭わないかどうか」
「意味の無い冒険なら、子供たちを危険にさらしたくはないけど、その山賊を退治することはゲオルグさんへのお礼にもなるんでしょう?」
「まあな。俺は、やる気は十分にあるんだが、相手は、卑劣な手段はお手の物の連中だ。だから、フォギーにはくれぐれも子供たちに注意していてもらいたい」
「分かった。私にとっては、子供たちを守るのが一番の使命なんだから、言われるまでもないけど、油断はしないようにするわ」
グエンはフォックスの言葉に頷いた。
(作者注:書いたのはここまでで、後は数年のあいだ放置したままである。いつか続きを書く意欲が起こるかもしれないが、今は放っておく。)