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大怪我をした黄金丸が床に伏してから早やひと月ほど経った。身体を打たれた傷の痛みはなくなりはしたものの、骨を折られた右前足は癒えるにはほど遠く、歩くのさえやっとであった。
「このまま傷が治らず足が効かないようになってしまったら、生まれ持った大丈夫のこの私とは似ても似つ付かぬものになってしまう。そうなってしまっては父母の仇討ちなどできようはずもない。今のうちによい薬を手に入れ、この傷を癒さなければ、元の私の姿には戻ることはできまい」
黄金丸は右前足の怪我の治りがはかばかしくなく、思うように動かぬことをしきりに心配してこう言うと、あちらこちらと良薬を探して尋ね歩いていた。ある日鷲郎が慌ただしく帰ってきて、黄金丸にこう言った。
「おう、黄金丸、喜べや。今日な、出先でな、よい医者がおるという噂を聞いて来たぞ」
黄金丸は鷲郎に向かって膝を進め、矢継ぎ早にこう言った。
「それは何と耳よりな話。で、その医者はどこのどなたなのだ、鷲郎」
これを聞いて鷲郎は、
「うん、あのなあ、今日、俺は里に出て、あちらこちらうろついておったのだが、そこで古い仲間とばったり出くわしたのだ。その昔のよしみが言うにはな、ここを出て南の方へ一里ばかり行ったところに、木賊ヶ原という所があってな、そこに朱目の翁(あかめのおきな)という名のなかなか立派な兎がおるそうだ。この翁はな、若い頃、芝刈りの爺さんが留守の間に悪狸に妻の婆さんを殺められ、しかも殺された婆さんは鍋にされた揚げ句、狸の奴、婆さんになりすまし、帰って来た爺さんに婆さんの鍋を食わした事件があったろう。うん、そして悲しんでいた爺さんの仇討ちに手を貸して、見事仇の狸を海に沈めた兎がおった話を知っておろう。あのときの殊勲の兎がこの翁だそうな。この翁はな、その時の功を認められて、月宮殿にてかの嫦娥より霊力あらたかな杵と臼を拝領し、その臼杵を用い種々様々な薬を搗いては病に伏せるものに遍く施し、今は豊かに世を送っておるという。この翁の所へ行き、良薬を賜れば、病や怪我で苦しんでいる獣で治らぬものは大方ないということだ。実はその昔のよしみもな、先日、里の子供の投げた石で打たれて、左後脚に怪我を負ったそうだ。で、その傷を治すため、その翁の調合した薬を手に入れて処方したところ、傷はみるみるうちに治ったそうだ。ということだから、俺は早速その翁の所へ出向いて、薬を手に入れて来ようと思ったのだが、はて、ただ床に伏せたまま病と闘うまでには弱ってはおらぬばかりか、一刻も早く傷を癒して仇を討たんと諸処尋ね歩くほどの気根のあるお主のこと、俺がどうこうするよりも、お主自らその翁の許へ出向き、これこう、このようにと翁に親しくその傷を見せ、翁の眼識をもって処方を受けた方が、なおいっそう頼りになるであろうと思ったので、飛んで帰って来たのだ。お主、体を動かすのは甚だ苦しいではあろうが、少しも歩けぬという程ではなし、どうだ、気分が良くば、試しに明日にでも行って診てもらってはどうだ」
と言った。この話を聞き黄金丸は大層喜んでこう言った。
「それは実に嬉しいことだ。そのような立派な医者があるということを、本日今まで知らなかったというのは誠に間の抜けたことであったな。そういうこととあらば、明日早速出向いて薬を求めることにしよう」
と、黄金丸はクラゲの骨を得たような、あり得ないような話を聞いて嬉しくてたまらなかった。
翌朝、黄金丸はまだ東の空も明けやらぬ前から起き出し出立し、教えられた道を辿って行くと木賊ヶ原に出た。しばらく行くと櫨の木や楓などが美しく様々に色づいた木立の中に、柴垣を結いめぐらした草庵があった。丸太の柱に木賊で軒を作った質素な門があり、竹の縁側が清らかで、筧の水音も澄み切って聞こえる風情は、いかにも由緒正しい獣の棲み処らしく思えた。黄金丸は柴門の前に立つと、声を高めて来訪を告げた。
「頼もう。頼もう。主殿はおいでか」
すると家の中から声が帰って来た。
「どなたかな」
それは朱目の翁の声であった。声に続いて、耳が長く毛が真っ白で、眼光の鋭い赤い目をしたいかにも一見ただものではない兎が姿を現した。黄金丸は柴門にあって、まず恭しく礼をすると、翁に自分の傷について話し、薬の処方をお願いしたい旨を伝えた。するとその翁はすぐ了解し、黄金丸を草庵に招き入れた。翁は診察室に黄金丸を通すと、まずは黄金丸の傷を診て、あちらこちら動かしてみたり触ってみたりした後、何かしらん薬を擦り付けた。診断と薬の処方が終わると翁はこう言った。
「私があなたに施したこの薬は、畏くもかの嫦娥様直伝の霊法に基づき煎じたもの。たとえいかに難しい症状であろうと、すかさず治癒に向かうものである。その霊験はあらたかで、その効力は神のなせる技である。あなたの傷を診たところ、施しが遅れたのでやや症状は重くはなってはおるが、今晩までには完治するであろう。これで今日の処方は終わったので、明日またここにおいでなさい。すこしばかりあなたに尋ねたいこともあるでな・・・」
黄金丸は大いに喜び、帰り支度をすると分かれを告げ、草庵を出た。
さて、治療を終えて古寺へ帰る道すがら、とある森の中を横切ろうとしたときのことである。生い茂った木立の中より、ヒュイッと音を立て、黄金丸目がけ矢が射られた。
「ぬ、これは!」
と、流石、黄金丸、とっさに自分が射られたのに気づくと身を捻るや、飛んできた矢の矢柄をハッシと牙で咬み止めながら、矢が放たれた方角をキッと睨み付けた。すると、そこには二抱えほどもあろう大きな赤松があり、見上げた辺りの幹が二股になった処に一匹の黒猿がいた。黒猿は左手に黒木の弓を持ち、二の矢を続けて射ようと右手に青竹の矢を採り、弓に番えているところであった。
黄金丸に睨み付けられ、その眼光の鋭さに怖じ気づいたのであろう、黒猿は番えた二の矢も放たず、慌ただしく枝に走り上るや、梢伝いに木の間に隠れ、その姿を消してしまった。
さて、翌日になると不思議なことに萎えていた足は、朱目の翁が言ったことに少しも違わず、見かけの上も、さらにいろいろと動かしてみても痛みも何もなく、完く元通りの足に戻っていたのであった。黄金丸は小躍りして喜んだ。さて、取りも直さず急いで礼に行こうと、少しばかりではあったが、寺にあった豆滓(おから)を携え、朱目の翁の草庵に出向いた。翁に招き入れられると黄金丸は全快した旨を伝え、言葉を尽くしてその喜びを表した。
「私は主のない浪々の身分であり、思うに任せない暮らしをしております。翁にはこのように体を治していただきながら十分な返礼をすることができぬのですが、ここに携えましたこれは今私にできます心ばかりの御礼です。どうかお納めください」
と言って、持参した豆滓を差し出した。朱目の翁は喜んでこれを受け取ってくれた。しばらくしてから翁は黄金丸にこう言った。
「昨日、あなたに少々尋ねたいことがあると申したがのう、実は大事なことで、他でもないのだ」
と言うと、打ち解けて話していた姿を整えて、続けてこう言った。
「私は長い年月を経て、いくらか神通力を得ることができるようになったので、獣の顔の相を見て、自ずからそのものがどのようなものであるか、ずばり、分かるようになった。わが眼識に狂いはなく、十に一つの誤りもない。今、あなたの顔の相を見ると、どうやら世にも稀な名犬と思え、しかもその力量は万獣に秀でていると思えるから、遠からずして、抜群の功名を立てることであろう。私は、こうしてこの草庵に居て数多の獣と対面してきたけれど、あなたのような獣にはこれまで会ったことがない。どうやらあなたは由緒あるご出自のようであるな。どうでしょう、あなたのご身分をお聞かせていただけぬか」
黄金丸は少しも隠し立てすることなく、自分の素性来歴を語った。朱目の翁は黄金丸の話を聞いていたが、はたと膝を打つとこう言った。
「おお、そういうことであったか、なるほど会得した。獣というのは胎生であり、多くは雌雄数匹を孕んで、一親一子という例はほとんど稀である。お生まれの話を聞けば、あなたはただ一匹で生まれたということだから、あなたの力は五、六匹の力を兼ね備えているということになる。しかもそればかりか、牛に養われ、その乳により育まれたということであるので、さらにまた牛の力量も身に受けたということ。ということであればなるほど、そんじょそこいらの猛犬の比にならぬわけだ。ところで、何故にあなたほどの敏捷で猛きものが易々とそのように大怪我を負うたのです」
と訝し気に尋ねるのであった。
「これにはいささか深い訳がございます。もともと私は、その大悪の虎金眸と小悪の狐聴水を不倶戴天の仇として狙っており、常に油断なく過ごしておりました。しかし去る日、悪狐聴水を、帰路の途上で偶然見つけましたもので、正々堂々と名乗りをかけて討とうといたしました。ところが敵ながら聴水の奴め、私から逃れながら謀をし、人家に逃れ、その家人の力をを以てして己が力のなさの扶けにしようとしたのです。私はその計略にまんまと嵌ってしまったのです」
このように、黄金丸は大怪我をした時の情況をつぶさに語り、続けてこう言った。
「あの憎き聴水の奴め、もしまた目の前に現れたらそのときにこそ一咬みにしてその息の根を止めてやろうと、明け暮れ随所に目を配っておりますが、考えてみれば、私が名乗りを上げたことで、命を付け狙われていることを知らしめてしまったがために、奴も用心して、よもや私のいる里方には出て来はせんでしょうから、遺恨を返す機会も手がかりもなく、ただ無念なまま日々を過ごしているのです」
黄金丸は、こう言い終えると、あまりの悔しさに歯軋りをするのであった。朱目の翁は黄金丸の話に頷いて、
「あなたは実に正々堂々としておられる。それゆえにこそ無念であろう。しかしそうではあっても、黄金殿、あなたが本当にその聴水を討とうというお心であれば、私に奴を誘い出すよい計略がある。もし奴がこの手に乗って来なかったとしても、試してみてはいかがかな。ま、おおよそ狐や狸の類の性質というのはあくまで悪賢く、またどこまでも疑い深いというのが相場でな。こちら側も中途半端な謀では、相手の警戒心を解き、捕らえるには遠く及ばない。しかし、だ、好事魔多し。好きなこと、こういうことに関してはたとえ君子であろうと迷う、という。狐が好むものを以って誘き出し罠に落とす。聴水も狐。さもあらばあれ、それほど難しいことでもあるまい」
と、言った。これを聞いて黄金丸は喜んで、
「なるほど。で、翁、その、狐を誘い出す罠というのはどんなものなのでしょう。以前から聞いておるのですが、私はまだこの目で見たことがないのです。どのように作ればよいのでしょう、是非お教えくださらぬか」
と尋ねた。翁は黄金丸の願いに応えてこう言った。
「罠はな、このようにしてな、ここはこうして、そこはこうして拵える。よいか。そしてな、それに狐の好む餌をかけて置くのだ」
と、教えた。
「なるほど、仕掛けは飲み込みました。で、その最後の「狐の好む餌」というのは一体?」
黄金丸がこう言うと、翁は、
「それはな、鼠の天ぷらじゃ。太った雌鼠を油で揚げ、その罠に懸けておくのだ。そうすると、狐の奴らは大好きな、その得も言われぬ香気で心も魂もすっかり呆けてしまい、我を忘れ、大方は掛けた罠に落ちるという。これは狩人がよくやる手でな、かの狂言「釣狐」にも採り上げられているほど。どうじゃ、あなたはこれからお帰りになったら、まず今申した通りに罠を掛け、奴、聴水が来るのを待ち構えてみてはいかがか。今夜あたり、その狐、その雌鼠の天ぷらの香気に誘き寄せられ、浮かれ出て、お主の罠に落ちるやも知れぬぞ」
と黄金丸に丁寧に教えた。黄金丸は、
「これは良いことを聞きました。ああ、良いことを聞いた」
と言うと、何度も何度もその嬉しさを表したのであった。狐を陥れる罠の話が終わっても、二匹の四方山話は尽きず、次第に時が過ぎ、日は山の端に傾き、塒に帰る烏の群れの声がやかましく聞こえる時刻となった。
「やや、これは思いも掛けず長座をしてしまいました。どうぞお宥しください」
と黄金丸は会釈し、翁の草庵を後にした。
さて、我が家を目指して帰る道すがら、昨日と同じ森の中の道を辿り、例の木の側を通り掛かると、やはり樹上より矢を射掛けてくるものがあった。今度の一矢は黄金丸の肩を擦ったが、黄金丸はやはり流石の名犬。思わず身を沈めその矢をいなすと、大声で樹上に向かって叫んだ。
「おのれ、昨日に続き今日も狼藉をなすか。引っ捕らえてくれよう」
と、矢を放った木の元へ走り上を見ると、やはり昨日の黒猿がいた。黒猿は黄金丸の姿を見ると、やはり昨日と同じように木の葉の中に身を隠し、梢を辿って逃げ失せた。
「くそ、私に木を伝う術があれば、すぐに追いかけて捕らえてやるものを・・・。憎き猿め」
と思うばかり。猿が逃げるその姿を見ながら黄金丸は、
「しかし、またどうしてあの猿の奴、よりによって一度ならず二度までも私に射掛けて来たのであろう。我ら犬属と猿属とは古くから仲の悪いものの譬えに上げられるほど。互いに牙を鳴らし合う犬猿の仲ではある。が、どうして私だけがあの猿に執念深く狙われるのか。狙われる憶えは終ぞないのだが・・・。よし、明日またここを通り掛かった折、再び奴が出ようことがあらば、引っ捕らえてその辺の理由を糺さねばならぬな」
と黄金丸は独言を言うと、不意打ちの狼藉、しかも飛び道具を使う卑怯に対する怒りを抑えつつ、その日は帰途に着くのであった。
さて、黄金丸を襲ったこの黒猿の正体とは。
聴水を誘い出そうという罠の行方は。
これにて第一巻の終わり。続きは第二巻にてのお楽しみ。乞うご期待あれ。
(夢人追記)
ここまでで「第一巻の終わり」で、私自身読んでいるうちに、「これは現代の読者には無理な内容だなあ」と思ったので、全体の終わり、すなわち「一巻の終わり」にする。そもそも、人間的な「かたき討ち」を、動物世界の話にして明治時代、いや近世のモラルを無理やりねじ込んだ話なので、日本最初の創作児童文学という歴史的価値と、原文で読めば古文(明治文語文)の面白さがあるというメリットがあるだけに思えてきた。
猫が雌ネズミを強姦する(物理的に無理だろうww)とか、猿が木の上から巨大な犬を弓で射るのを「卑怯」扱いするというのも、なんだかなあ、と思う。現代っ子のように「話の先読み」をするのが好きな連中なら、この回の「狐はネズミの天ぷらが大好物」と聞いただけで、話の先が読めてしまうだろう。しかも、ご丁寧に「雌ネズミ」という指定であるwww こんな残酷で非人情な行為を主人公がするはずはないから、雌ネズミの何とかさんは自ら天ぷら鍋に身を投じてこがね丸に捧げるということまで容易に推測できる。
まあ、これが近世的モラルというもので、女性に人権は無かったと言ってもそれほど間違いではないようだ。小学校の図書館には置けない内容だが、実は私はこの話を小学校の図書館で(半分も理解できなかったが)読んだのである。昔はおおらかだったと言えるが、現代なら即座に悪書追放の対象になるだろう。