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断食と生命力の向上

飢餓状態は生命力を向上させるということも私の健康理論の一つだが、例の医学生のブログからそれに関する文章を転載しておく。ただし、朝食抜きによるストレスという悪影響も考慮する必要はある。我々が食事を摂るのは、実はそれによる快楽と満足が大きな要素だからである。逆に、過食の原因も食事の快感が克服しがたいからなのである。

(以下引用)


                    Home Medicine Method Essay Books 朝食の是非
 一日3食きちんと食べましょう。特に朝食は一日の活動源を得るためにしっかり摂りましょう。朝食を摂ることで体温を上昇させ、血糖値を上げ、脳の働きを高めます。また朝食は排便を促します。早めに起きて、十分な朝食の時間を取りましょう・・・

 学校教育でも一般家庭でもこういった朝食の重要性を謳った話をよく聞く。おそらく厚生労働省でもこうしたことを推奨しているのであろう。もちろん、これだけ推奨するぐらいだから、それを裏付けるデータも存在するのであろう。例えば、朝食を毎日きちんと食べている中学生と朝食を食べてこない中学生の勉強の成績に有意な差が出たとか、医科大学の学生に必ず朝食を摂ってくるように指導したら国家試験の合格率が上がったとか。すると、子供の教育に熱心な家庭では、なおさら朝食をきちんと取るように子供を指導するようになる。

 当たり前のことであるが、あるデータの正当性を評価するためには、その前提条件が揃えられているかを確認しなければならない。普通は、数学の問題を解くときのように変数が幾つもあったら、まずはひとつの変数だけに着目して、残りは固定して定数として扱う。この場合、朝食を毎日きちんと食べる、ときどき食べる、まったく食べないといった朝食摂取に関する変数に着目するならば、その他の条件はまったく同一にしなければ出てきた結果に対しての正当な評価はできない。ところが、上のような朝食の重要性を示唆しているはずのデータは、どうもこれを満たしていないような気がする。朝食をきちんと食べさせている家庭は、おそらくその他の事柄に関しても子供のためになりそうなことを行っているはずである。例えば、小学生の頃から子供の宿題を見てやったり、毎日勉強する習慣を付けさえていたり、早寝早起きを習慣とさせていたり、家族全員で朝食を摂りながら楽しい話題を持ち出して子供のやる気を引き出すような家庭であったりと。つまり、朝食摂取と子供の成績の間には相関はあるが、因果関係は不明なのである。

 とは言っても、理論的には、夕食から12時間近くも何も口に入れていなければ、血糖値が下がってしまい、いわゆる低血糖発作に近い症状となる場合もある。頭がぼんやりして力が出なくなり、午前中の勉強や仕事の能率は上がらない。だから、朝食は必ず摂りましょう、ということになる。普段、朝食を摂っている人が、たまたま朝食を摂り損ねると、その重要性を特に感じるであろう。頭はぼんやりして集中できないし、排便はできなかったし、昼食をその分たくさん食べてしまったら逆に午後は満腹感で眠くなって一日が散々だった、やはり自分は朝食を摂らなければ駄目だな、と。

 朝食を摂らないなんて全くの論外。議論するに値せず。朝食を毎日きちんと摂っている人にとっては、そういうことであろう。何しろ、自身の経験が全てを物語っているのだから。

 ところが、である。「朝食有害説」、「朝食抜きで健康回復」、「朝食は万病のもと」、「朝食抜きダイエット」などなどという、全く逆の主張がある一部の人たちの間でなされているのである。全くの嘘をでっち上げているなんてことはありえないであろう。すると、たとえ一部の人にでもそれが有効であったならば、その理論的背景を考えてみる必要があるように思える。

 まずは、余剰カロリー摂取の問題。朝食を抜くことで摂取カロリーが減る。そうすれば、多くの人にとっての病気の原因を取り除くことができる。昔から腹八分目が理想というように、食べ過ぎは、糖尿病や動脈硬化の原因だけでなく、さまざまな病気の原因となりうる。病気になったときの回復も、あまり食べないほうが良好であったという報告もある。動物では摂取制限をした方の寿命が明らかに長いという。野生動物が病気になれば、じっと蹲って何も口にせず(できず)、体力の回復を待っている。食べないことでエネルギーを病気の回復に集中させているのである。断食療法が効果を発揮する理由のひとつもこうしたことによるのであろう。少食が健康にとってプラスに働くということは、多くの人が納得するはずである。昔の栄養不良の時代とは明らかに異なるのである。

 しかし、余剰カロリー摂取の問題だけでは、朝食の是非についての議論はできない。3食のカロリー摂取をそれぞれ控えて、朝食も摂れば良いからである。朝という時間帯に、食べ物を口にすることが生体に与える影響というものを考える必要がある。

 朝食を摂ることに対して、朝食推進派は、血糖値を上げる、体温を上げる、排便を促すなどという利点を挙げる。これに対して朝食否定派は、消化器官に負担をかける、血液が消化器官に集中してしまい活動が鈍る、排泄作用を阻害するなどという欠点を挙げる。朝食を摂らないことに対して、朝食推進派は、血糖値が上がらない、体温が上がらない、排便ができないなどという欠点を挙げ、朝食否定派は、カロリー摂取を減少させる、消化管を休ませることができる、脳への血流を促す、排泄作用が促進されるなどという利点を挙げる。さてさて、どちらを選択すれば良いのだろうか。

 どちらも利点と欠点があるならば、なんらかの対策によって欠点を埋め合わすことによって、利点が欠点を上回ることができるならば、そちらを選択すれば良いことになるだろう。すると、朝食を摂ることに対しての朝食否定派の唱える欠点は朝食を抜くこと以外に回避不可能のようであるが、朝食を摂らないことに対しての朝食推進派の唱える欠点は比較的容易に回避できそうに思える。血糖値が上がらないことに対しては、肝臓でのグリコーゲンの分解が不十分であるからであり、これは習慣的に朝食を抜くことによって肝臓から補給できるように身体が順応していくはずである。たとえそれが不十分であったとしても、糖分を含んだ飲み物を補給することで血糖値はすぐに上昇するであろう。また、体温が上がらないということに対しては、散歩をするなど身体を動かすことによって補うことが可能である。排便ができないということに対しては、習慣的なものなのであまり問題にはならないはずだが、あえて対策を考えるとすれば、水分を補給することで腸管に刺激を与えてやれば良いだけのことであろう。すると、こうした対策を講じておけば、朝食を無理して食べる必要はないということになる。むしろ、朝食を食べることによる欠点が存在するのだから、食べないことに対する欠点が克服されているならば、食べないことでその利点を得、食べることによる欠点を避けることが望ましいように思われてくる。

 ダイエットに関心のある女性のなかには、朝食を抜くと、昼食で食べた物の吸収が良くなって、かえって体重が増えると考えている人もいるようである。吸収効率が上がるのだから、少ない食べ物で多くのエネルギーを得ることができ、これほど良いことはないのではないかと思うのだけれども、ダイエットを中心に考えるとどうも話は逆らしい。本当に吸収効率が上がるならば、消化管の活動が良いということであり、また食べかすが溜まらず腸内環境も良好で、健康的である。健康であることはダイエットの目的である美を手に入れることに直結しており、なんら問題はないはずなのだが、どうもそうではないらしい。つまり、おいしいものをたくさん食べて、それでも痩せるということが彼女たちのポイントなのである。しかし、そういう虫のいい話はないのだから、ここでは問題外か。

 ある友人が、朝食を食べないとハングリー精神で午前中の授業は集中できると言っていたが、確かに彼の授業態度はそれを裏付けている。血糖値を上げるためには、副腎皮質からのコルチゾルを分泌させ、また交感神経系を緊張させることで肝臓でのグリコーゲンを分解して血液中に糖分を送り出させる。まさしくハングリー精神が働くのである。午前中にこうした交感神経系の緊張がより高まることは、一日の活動リズムを作るうえで重要のように思える。逆に、朝食を摂ればそれで血糖値が上がってくれるので、生体は楽をしていても良く、緊張感はなくなる。午前中から極楽気分である。これが大部分の人類が朝食を摂ることになっている本当の原因であろう。朝食推進派の本音もここにあるように思われる。食べることで血糖値を上げておくことの安心感は、飢餓と直面してきた人類にとって何者にも変えがたいのである。食べられるときに食べておけ、という要求が身体から生まれてくるのである。これは肥満の原因と同じである。肥満が健康に良くないのと同様に、身体の要求に素直に従っていれば、現代において健康を保てるということは残念ながらあり得ない。問題は、朝食否定派が主張するように本当に朝食に欠点が存在するのか、ということであろう。

 個人的な経験によれば、朝食を食べないことによる欠点は十分に克服できるし、朝食を食べないことによる利点も確かに得ることができる。朝食抜きをプチ断食と言っている人もいるが、確かに断食の効果に近いものを得ることができるのかもしれない。朝食の是非を議論する場合、人間が本能的に持っている欲求が前面に出てしまい、その議論の方向性を誤らせている可能性は否定できない。朝食を抜けば、誰でも身体が順応するまではひもじい思いをするのである。そうしたひもじさが議論の方向性を誤らせるのである。

 どうか、初めの数週間のひもじさを乗り越えて、朝食抜きの効果を確認された方は御一報を。


 05/06/2004.

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健康と体温

例の医学生さんのブログから。体温と癌(あるいは病気)の間に関連性があるかもしれないというのは私も少し考えたことがあるので、備忘のためにコピーしておく。ストレス(とくに睡眠不足)から来る免疫不全というのも重要な指摘だ。


(以下引用)


                    Home Medicine Method Essay Books 体温と病気
 泌尿器科の病棟実習で早期の腎細胞癌の患者さんを担当させていただいた。画像で1.7cm大の腫瘍を左腎臓上極に認めたのだが、良性のものなのか悪性 (癌)のものなのかは画像からだけでは診断できなかった。一般的に、癌が疑われたときの腎臓の針生検は、腫瘍への血流が豊富なために播種を招く危険性があり、禁忌ということになっている。したがって、これ以上の診断材料がないため、まだ腫瘍が小さいので経過観察にするか、手術によって摘出するかの選択が問題になった。結局、患者さんの意向が優先され手術を行い、それによって癌であったことが判明した。腫瘍は完全に摘出できたために、結果的に手術をして良かったことになったわけある。

 患者さんは35歳の男性であり、肉体労働だという。35歳の若さでも癌になるのだなあ、と僕は初めてカルテを見させてもらったときに素朴に思った。しかも、身体を使う職業ということで見た目もガッチリしていて、病気とは縁がないような雰囲気を漂わせているのである。いくら小さな癌であったとしても、身体も強そうであり、まだ35歳という若い男性が癌になるということには、どうも釈然としなかったのである。

 しかしその後、ふと温度板(体温や血圧の変動などを記録しているシート)に目を移してみたとき、その疑問が解けたような気がしたのだ。というのも、この患者さんの体温の変動を見てみると、どの日でも35.5℃以上には上がっていないのである。既存の西洋医学ではおそらく、だからどうしたというのだ、という質問が返ってきそうであるが。

 体温と病気は、密接に関連していることは確かである。風邪をひけば熱が出るし、寒ければ風邪をひく。癌になれば熱が出ることもあるし、熱が出ることで癌が治ったという話もときに聞く。体温を上げるような食材を摂ることによって病気が治った、という本も本屋さんに行けばたくさん並んでいる。

 おそらく西洋医学では、35.5℃程度の体温では個人差の範疇として扱われるのであろう。癌のリスクファクターとしての低体温など、まったく聞いたことがないのである。喫煙やさまざまな汚染物質などは、癌のリスクファクターとして問題視されるが、体温の話に至っては、少なくとも僕は正規の授業では一度も聴いたことがない。

 だけど、感染症によって体温が上昇する機能的役割については、おそらく常識であろう。少なくとも現在では、むやみやたらに解熱剤を処方する医師はいないはずである。体温の上昇は、病原細菌の増殖を抑制し、免疫担当細胞の活性化を促すという役割を持っているからである。ということは、これは癌についても同様なのではないだろうか。体温を上げることによって、免疫細胞の活性化を促すことができれば、癌は縮小の方向に向かうはずである。もちろん、どれだけ癌の縮小に対して効力を発揮するのかは分からないが、少なくともそのような方向に働くことは確かなはずである。癌細胞というのは、一般的にも多くの人が知っているように、身体の中で毎日たくさんできているといわれる。しかし、免疫細胞(NK細胞が有名)によってこれが壊されるおかげで、そう簡単には癌になることはないのである。

 ところが、免疫細胞の活性化が弱いとしたら? 免疫細胞の数が少ないとしたら? 若くして癌になっても不思議ではない。平熱が低いということは、普段の免疫担当細胞の活性が弱いということを示唆しているのかもしれない。免疫細胞の活性を弱める原因としては体温以外にもさまざまなものがあるであろう。たとえば、ストレス。ストレスによって副腎皮質から分泌されるコルチゾルは、ヘルパーT細胞のバランスをTh1からTh2へシフトさせ結果的に細胞性免疫(傷害性T細胞やNK細胞など)の活性を弱め、また胸腺を萎縮させる作用を持つ。たとえば、睡眠不足。睡眠中はメラトニンが松果体から分泌されるが、これはヘルパーT細胞のバランスをTh2からTh1の方にシフトさせる。つまり、細胞性免疫が強まることになるのだが、メラトニンの分泌が悪いとやはり細胞性免疫は弱まることになるのである。たとえば、・・・。

 そうした免疫細胞の活性に影響を与えている因子のひとつとして体温があるのである。あるいは、このような因子は相互に複雑に作用を及ぼしあっており、たとえばストレスが強いと体温が下がったり、体温を下げるような生活が睡眠不足を招いたりと、おそらく単一の因子だけに着目していては、本当のところは見えてはこない。だけど、とりあえず今回は、体温に注目してみようということだけのことである。

 担当患者さんのところに話を伺いに行ったときに何気なく聞いてみた。お酒は好きなんですか? ビールは良く飲みますか? 仕事が終わってビールを一杯、という生活を毎日送っているのではないかと思ったのである。ビールでなくても冷たい飲み物は、身体を冷やす大きな要因であると思う。消化管は身体の中に埋まっているけれども、口と肛門の間にある外部とつながった管であり、皮膚と同様に外界と接触する場なのである。皮膚に冷たい水をかけられたら、飛び上がって身体を震わすのだけれども、幸か不幸か、消化管はほとんど冷たさを感じないで冷たい飲み物を受け入れてくれる。皮膚に冷たい水をかけられたら誰だって寒さを感じる。そして、そのままにしていれば風邪をひくであろう。これは特に水が蒸発するときに熱を奪うことで、より冷えをもたらすのだろう。消化管の場合は、中に入った冷たい飲み物は蒸発はしないにしても、最終的にはそれを吸収して体温まで温める必要がある。そのエネルギーの損失はいかほどか?

 人間は、それほど冷たい飲み物を消化管の中に入れることに適した身体にはなっていない。なにしろ冷蔵庫が出来上がってから、1世紀も経っていないのだから。それまでの何億年にもわたる進化の歴史を考えれば、それに適応することなど、とてもできるものではない。おそらく、仮に冷蔵庫というものが大昔からあったとすれば、我々は、冷たい飲み物を口にするたびに飛び上がってこれを避けようとし、ブルブル震えては一生懸命に熱産生をしているのではないだろうか。

 冷蔵庫の発明は、体温の低下をもたらす大きな要因であると思う。現代人の体温は低下傾向にあるという話も聞く。体温の低下は、免疫担当細胞の活性を低下させる。そしてそれは、癌などのリスクファクターになっている可能性があると僕は推測する。もちろん、体温低下の要因は、冷蔵庫で冷やされた冷たい飲み物だけにあるのではない。運動不足もあれば、精神的なストレスも関係しているだろうし、夏なのによく効いたクーラーの下で一日中過ごさなければならない仕事環境などもあるであろう。しかし、こう挙げてみるとどうもどれも現代的な利便性を追及した生活との関係が深そうである。なぜ病気になるのか、という視点でものを見るとき、どうしても進化的に獲得してきた我々の機構とそれに合わない現代的な生活環境に答えを求めたくなるのは、自然な思考の流れだと思うがいかがであろうか。

 と言いながら、よく冷やされたビールを片手にこれを書いている僕であるのだが・・・。まあ、こういう暑い日にはまだいいのかな~と言い訳をしつつ。


 06/05/2004.

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勉強は贅沢であり、娯楽でもある

今年は、毎日ひとつは有益なこと、言い換えれば、時間の浪費ではなく、後に残ることをしようと思う。インターネット探索でも、お気に入りブログばかり見るのではなく、もっと頻繁にネットサーフィンをして新たな賢人たちを見つけてみようと思っている。そうして自分の知的世界を広げることを今年の目標にしてみよう。

下記の記事はある医学生のブログからのもの。特に新奇な発言ではないが、学問や勉強についての考え方が私とよく似ているので、私の代弁者としてここに保存しておく。


(以下引用)

                    Home Medicine Method Essay Books 勉強は贅沢
 勉強することは贅沢な行為だと思う。しばしば、勉強が義務のようなものとして位置づけられることがあるが、これは、まったくの認識の誤りではないだろうか。「やらなければならない」ものとして勉強が捉えられるとき、それは苦痛の対象でしなくなるのであるが、「やらずにはおれない」ものとして勉強というものがあるとき、それは楽しみの対象であり、場合によっては贅沢な行為となり得る。

 よく言われるように、知る喜びというものは、誰でも持ち合わせている。そこには、人間としての本質が潜んでいるのだと思う。好奇心旺盛なわれわれの祖先がわれわれの祖先として生き延びてきたのである。

 そうは言っても、もちろん、人間は空間的にも時間的にも有限の存在なのだから、すべてを知ることには無理がある。そうだから、そうした無限に対しての有限の存在として、人それぞれに興味関心が異なってくる。それが、それぞれの専門分野になってくるのであるし、それぞれの興味関心に適度なばらつきがあるお陰で、世の中もある程度はうまく回っていく。自由でのびのびとした知性は、本来的に備えた旺盛な好奇心という人間としての本質に根ざし、かつ、その好奇心の向く方向が人それぞれに異なることで社会が動いていけるという保証によって、この世界で優位な立場に身をおさめることが可能になっている。

 そうした知性が思う存分に働くとき、それは人間としての本質をより顕在化させることによって、喜びの感情として心の中を駆け巡るのである。これがなければ、現在に至るまでの人類による膨大な知識の蓄えが存在することは、到底ありえない。

 勉強することは、とりあえずは、先人が蓄えてきた知識を自分のものにすることなのであるが、それが自らの興味関心とぴたりと一致するものであるならば、楽しいのは当然である。逆に、そうした楽しみが得られないとしたならば、その勉強にはどこかにズレがあると考えなくてはならないのであろう。

 勉強と試験とは多くの人にとって密接に結びついている。試験は勉強するための動機として、多くの人にとっては最も大きいものであるに違いない。だけど、そうした勉強には、本来ののびのびとした知性が発揮されることは、ほとんどない。そうだから、そうした勉強は苦痛となる。「やらなければならない」ものは、それが達成できたことによる勉強とは別次元の喜びを生むことにはなるが、自由でのびのびとした知性が発揮されることによる喜びを生むことはない。勉強そのものは、苦痛の対象となるのである。

 試験とは、ある対象領域においてある一定の知識レベルを得た人を選別するものである。当然、そうした試験のための勉強というものも存在する。試験のための勉強とは、その対象領域、対象レベルの知識に適合した知識を習得することである。それから外れた領域、レベルを勉強することは、試験のための勉強としては好ましくはない。自らの心の向く方向、深さを適切に調節しておくことが不可欠となる。

 多くの人にとって、勉強とは、興味関心が異なる領域の知識が要求される試験のためにある。理想的には、自由でのびのびとした知性が導く知識の獲得に、試験で要求される知識が包括されていることが望まれるのであろう。そうであるならば、学ぶことは楽しみの対象であるし、かつ試験に合格するための手段ともなる。しかし、これが逆転する場合もある。試験で必要とされる知識を得るために勉強していたら、途中で興味関心が向けられる分野に出くわす場合である。苦痛と思っていたものが、喜びに変わる瞬間である。そうして、その喜びをもとにして、興味関心の分野に突き進むことが自然な心の動きではあるのだが、試験のための勉強をしているときには、そのような心の動きはむしろマイナスに働く。そうして、やはりまた苦痛に引き戻されるのである。

 このように、試験は本来ののびのびとした心の動きを制約する働きを持っている。試験を中心に考えると心は萎縮していく。長期的な視点で考えると、試験のための勉強は、自らの心の質の向上に対してマイナスに働く可能性を持つ。心の質の評価を誰がどのようにするのかは分からないが、仮に自身で行うとしたならば、自らの興味関心に従った勉強によって得た知識ほど価値のあるものに違いない。自らの興味関心に従った勉強によって得た知識が試験領域の60%をカバーしているならば、普通は合格をもらえる。僕はこのような勉強がやはり理想的であると思う。

 高校時代、野球がうまくなるために、何冊かのスポーツ力学の本を読んだことがある。スポーツの技術は、力学によって支配されているわけだから、当然にそれを自分のものとしようと思ったのなら、力学の勉強が必要になってくるのである。そうした力学の知識を基にして野球の具体的な動作を導き出す。新聞や雑誌にある写真を丹念に観察し分析し、テレビのスローモーションは食い入るように見つめる。そうして得た情報と、力学的な原理とを照らし合わし、理想的な動作を追求していくのである。大学受験の物理では、バットとボールの衝突問題がよく出題されるが、それは自らの興味関心に沿った勉強によって得た知識の中に十分に包括されているものであった。

 勉強をしている子供は偉い子供、という図式がなんとなく存在するようだが、勉強というものの理想的な姿を考えたとき、むしろ、勉強ほど贅沢な行為はないと思う。それは、人間の本質に根ざした知性の躍動であり、だからこそ大きな喜びを得る原動力ともなる。勉強というものを小さな枠に閉じ込めることで、これを阻害してはならない。


 02/06/2004.

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年頭のご挨拶

あけましておめでとうございます。
この酔生夢人のブログは、自作小説などの発表をメインとしており、その作品もほとんど掲載したので、いつ閉鎖してもいいのですが、こうして残しておけばいつか誰かの目に触れることもあるだろう、ということで、当分はこのままにしておきます。
今後は月に数回程度、エッセイ程度の文章や、他のブログで載せにくい作品を書いた時に掲載することになると思います。
それでは、今年もよろしく。

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社会の洗脳からの脱出

IT技術者で神秘思想家(というといかがわしく聞こえるのが現代の世の中だが、要するに、人間がこれまで知っている世界だけが世界のすべてではないという、あたりまえの思想である。)のケイさんのブログから転載して、今年のこのブログをしめくくろう。ケイさんの言葉は、まさしく私が現代社会について考えていることを見事に表現しているからである。
では、良いお年を。


(以下引用)



2010.05.07
不安を滅ぼす
不安なしに生きている人なんていないのではないかと思う。
そもそもが、人が何かをする理由なんて、不安をなくすためであるようにさえ思う。楽しもうという行為も、不安を紛らわすためのものである。
社会の中で偉くなり、金持ちになれば不安は無くなるかというと、金持ちも自分ではそう思っているかもしれないが、実際は、金を持つほど、不安はますます大きくなっているのである。
一流企業の幹部になり、人も羨むような高給取りになったとしても、突然リストラされたり、会社が倒産することもある。そんな人は、多額のローンを背負っていたり、本人や家族も、収入が減っても、それまでの生活水準を落とせない。そして、家族は破綻する。
そして、社会で成功している人でも、自分の立場が実は危ういものであることは、心のどこかでは知っているのである。そして、その不安は百パーセント実現する。
「消費意欲の拡大」なんてのは、人を破滅に追い込む恐ろしい言葉であることに気付かないといけない。それは、大衆の心を貧しくして、際限なくモノを欲しがる状態にするということである。これが、不安を低レベルの欲望を満たすことで紛らわせようとする哀れな行動に人々を駆り立てる経済至上主義社会のカラクリである。我々は、すっかりそれにはめ込まれているのである。今すぐ脱出する決心をしないと、待っているのは悲惨だけである。

不安を消す唯一の方法は力を得ることであるが、まがいものの力の獲得に突き進ませようとするのが、国家や大企業、そして、その下僕である学校やマスコミの使命である。
偽者の力は、得れば得るほど、逆に不安は強くなる。本物の力を得なくてはならない。
(偽者の力の獲得に失敗することを世間では落伍者と言い、その意味での落伍者にはただ消費者の役割を押し付け、消費者にもなれないと、自主的にアル中になったりするのである。)
本当の力は外側にはない。内側にある。ところが、内側にある本物の力は存在せず、それがあると考えることは恥ずかしくて滑稽であると我々は思い込まされているのである。
本来は、そんな誤りを正して人々を啓蒙すべきはずの宗教は堕落し、芸術も金儲けに利用され、本当の役割を果たし難くなっている。
しかし、大衆の教義や信念を疑い、これを打ち破ることに全力を尽くせば、内側の力に目覚める道は開ける。
テレビのアナウンサーの言うことや、CMの宣伝文句を疑わないといけない。それらは、現在ではほぼ全て嘘と思っても間違いはない。
世間や学校、会社の常識や決まりごとを無思慮に受け入れないこと。これらは、全て悪とは言わないが、少なくとも、あくまで二次的(二義的。根本的でないこと)であり、決して自己の信念にしてはしてはいけないことを忘れてはならない。

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粘土団子による砂漠の緑化

「がま仙人のブログ」より、備忘のために転載しておく。砂漠の緑化、地球全体の食糧確保は、私の思考テーマの一つである。




[晴耕雨読-0053] わら一本の革命 福岡正信自然農法わら一本の革命
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 --雨は上から降るのではない。下から降るのだ--
 
 福岡正信の有名なこの言葉は自然農法の本質を良くあらわしている。
 彼の発見・開発した農法を駆使することによって砂漠を緑の原野に変えることができる。これは実際に世界に散在する砂漠の緑化実験でことごとく成功を収めている。種を粘土の団子にまぜた無数の粘土団子を空から砂漠に蒔く。たったそれだけの方法である。粘土団子を撒くだけであとは何もしない。不耕起(たがやさない)、無農薬でも種はちゃんと発芽し、自然に草木の野になるのである。粘土団子の中には当然土の栄養と水分が含まれている。種はそれによって粘土の中で育つのである。やがて下に根を張ってゆき無数の粘土の中のどれかの苗が地下の水脈に達し、水を葉にひっぱりあげる。この過程でその他の苗に水分が補給され善の循環が起こる。やがてその一群はお互いに助け合ってより深く広く群生するようになる。これが粘土団子による砂漠緑化のプロセスである。自然の力だけを使いその他一切の人的な行為を排除するのである。すばらしい農法である。
 この本ではその粘土団子による自然農法のノウハウが書かれているが、ほとんどが自然農法を発見するまでの彼の試行錯誤とその哲学について書かれている。実に老荘的だが自然と仲良くして自然の本来の力をそのまま引き出す農法には驚かされる。自然を味方にするのが最も強いということがよくわかる。
 実際に2年間、私は粘土団子による自然農法を自宅の庭で試してきた。最初はもちろん疑心暗鬼だったが、いつのまにか雑草のように生い茂る野菜の葉の群れを見たとき、一気に自然農法を信じることになった。また農薬が必要がないというのも雑草や枯れ木がそのままそれが自然のサイクルの中で肥料に変化するからだが、その過程を目の当たりにしたのでいまではとてもよく理解できる。もし、自分が帰農し自給自足を行うのだったら間違いなくこの農法を実践するだろう。ただし、自給自足という条件は必要最低限である。なぜならばこの農法で作られた野菜は自然に完全適用するため野生化する。その結果形の悪い野菜となる。したがって商品としての出荷はできないというデメリットがあるからだ。しかし、この農法でできた野菜はとてもうまい。自分の生活を満たすのはそれで充分だろう。

 ちなみに、ビックコミックに連載していた「Seed」とい漫画があった。主人公の農業コンサルタントが発展途上国でODA活動として農業を教える内容だが、そのキーテクノロジーとして「粘土団子」があった。彼は粘土団子を駆使して各地で農業を成功させる。視点がとてもおもしろくユニークな漫画だった。しかし、原作者に物言いがついたらしい。粘土団子を勝手に漫画で紹介したので福岡氏の取り巻きが原作者に抗議したということらしい(たぶん福岡氏本人はどうでもよかったことなのだろうが)。結果的に和解したということだが、漫画で紹介した粘土団子は福岡氏によって発案されたものだから(特許も取っている)、彼の功績について説明なり感謝の言葉なりを書いておけば問題なかったのだろうと思う(実際に連載中は福岡氏の名前は一切でてこなかった)。ただ、この漫画によって粘土団子のすごさを知った人はたくさんいるはずである。福岡氏の「わら一本の革命」は自然農法派の人たちにはバイブル的な存在であるが、それ以外の人はほとんどと言っていいほど知らないはずである。その意味では両者の間の和解はとても意味のあるものであると私は思う。

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羊は群れて、そして食われる

だいぶ間が空いたので、場つなぎに、他のブログの中のいい記事を転載しておく。kayというIT技術家で神秘思想家の女性(?)の文章だ。これは現代社会の「奴隷作り」の基本戦略をよく見抜いた文章だと思う。


(以下引用)




友達がいないのは恥ずかしいことでない
友達が出来なくて悩む大学生がよくいるらしい。
学食で1人で食べるのが、寂しいのではなく、恥ずかしくてトイレで食べるような人もいると聞く。
この、「寂しいのではなく、恥ずかしい」というのはよく分かる。
幼稚園から大学、さらには、会社でも、常にグループ活動が強いられ、1人で行動することに罪の意識を持つように強要されてきたはずだ。

しかし、そんな人はもう心配無用である。
そんな人の話題が多いということは、「1人ぼっち」である「仲間」が大勢いるということだ。そして、それは、最も正常なことなのだ。
友達がいないからといって、その人に親愛の情がない訳ではない。むしろ、仲良しグループというのは、グループ外の者に非常に排他的、薄情な場合が多いものだ。
友達がいなくても恥ずかしいことではない。これは絶対に間違いない。
友達がいても別に悪くはないが、いないならいなくて良いし、無理に友達を作る必要はない。作為的に友達を作ってもロクな友達はできない。

友達がいないということは、無理矢理徒党を組ませる学校の策略をかわした賢い人であるということだ。
グループ行動をする者の方が奴隷根性を植えつけやすいのだ。学校は奴隷生産工場である。

私が幼稚園の時、1人でジャングルジムの天辺に居たら、女性教諭が私を見て、「1人で遊んでるの?」と言った。
見ての通りである。なんでそんなことをわざわざ聞くのだ。
空に太陽がさんさんと輝いている時に「良い天気ですね」と言うのは、暗に雨降りを悪いことであると言っていることであるように、「1人で遊んでるの?」と聞くのは、「友達と遊びなさい」という非難や蔑みを感じさせるものだ。

最初に、学食で1人で昼食をとることを「寂しいのではなく、恥ずかしい」という気持ちが分かると書いたが、私も、ほとんど友達というものを持ったことはないが、寂しいと感じたことはなかった。しかし、学校や会社の中で、「不都合」「辛い」「苦しい」ということは大変に多かった。既に書いた通り、社会というのは、グループ活動をしないと、非常に居心地が悪く、屈辱を与えるところである。奴隷とはグループ活動をするものであり、単独活動してはならないものだ。奴隷でないことは許されないのが社会である。

友達がいないなら、天使と友達になれば良い。
自分が天使になれば天使の友達もできる。別にこれは、メルヘンでも何でもない。
天使とは、仏教でいう菩薩のようなもので、神や仏に近付きつつあるものであり、世間ではなく、宇宙を主と認めているというだけのことだ。
天使になる方法なんて、誰でも一度は目にしたことがあるはずなのだ。
優れた詩や文学やエッセイはもちろん、現代ではアニメの歌なんてのも、宇宙が作者に霊感を与えて書かせているのだから、案外にあちこちに見られる。
それは、簡単に言えば、感情に無防備になることだ。哀(悲)しみ、嘆き、あるいは、怒り、屈辱、羨望といった、日常何度も感じるものに対してだ。
それらをまっすぐに受け止める。すると、心はぐらつく。ぐらつかせておけば良い。やがて抜け落ちる。その時はもう天使になっている。
自分が天使になれば、同じ天使の友達もできるかもしれないし、目に見えない友達も良いものだ。宇宙そのものが親愛に満ちた友である。

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