忍者ブログ

亀の首(ネック)が消えたか?

「阿修羅」から転載。
私は亀井静香ファンなのだが、彼のネックは石原(人間の屑)慎太郎との「友情」で、彼がしばしば石原との政治的連携をしようとする姿に、いつもがっかりしていた。
若い頃(青嵐会時代)の「盟友」である石原に対し、亀井が友情を感じているのは無理もないことだが、石原という男は政治家としては最悪の人間であり、その石原と亀井がとうとう決別したらしいことは目出度いことだ。これで亀井を安心して応援できる。
私は石原(人間の屑)慎太郎の悪口ばかり書いているが、彼にはある種の魅力や才能もあることは確かだろう。「前頭葉の委縮した」ボケ老人という言い方や見方は大間違いである。頭脳の働きに関しては立派なものだ。ただ、人格が低劣で、「人間の屑」である、というだけである。
作家としての才能もたいしたものであり、彼の「人間としての評価」を決定づけた「太陽の季節」「処刑の部屋」「完全な遊戯」も、悪徳の文学的表現もまた文学である、とするならば、見事な達成である、と言える。そういう文学がはたしてこの世に必要か、と言えば議論の余地はあるのだが。まあ、マルキ・ド・サドやマゾッホが存在したことで文学の空間が広がったのと同様だと言える。それほどの大物ではないが。
しかし、石原がそのサディスト的本性のままで政治の世界に出てきたことは大間違いである。
サディストとは究極のエゴイストでもある。
エゴイストが自分のエゴを満足させるために政治を行った結果、それが一般大衆の利益にもつながった、ということがはたして歴史上あったかどうか。
もちろん、凶悪な独裁者が、同時にいい政治「も」行うということはあるのは当然であり、それでなければ国家の維持はできない。したがって、政治家の評価は総合的に判断する必要があるのだが、その政策だけを見ても石原や橋下、あるいは現自民党執行部や現民主党執行部、あるいは権力の腰ぎんちゃく政党の公明党幹部などが全員、「政治家落第」であることは今さら言うまでもないだろう。
話が長くなり、中身もとっちらかった。とりあえず、亀井静香と石原(人間の屑)慎太郎が決別したことを慶賀しておく。



(以下引用)



盟友亀井静香が激怒「石原慎太郎は間違っている」 (日刊ゲンダイ) 
http://www.asyura2.com/12/senkyo137/msg/791.html
投稿者 赤かぶ 日時 2012 年 10 月 27 日 21:11:14: igsppGRN/E9PQ


http://asumaken.blog41.fc2.com/blog-entry-7263.html
2012/10/27 日刊ゲンダイ :「日々担々」資料ブログ


親としてのエゴしかない新党結成

任期途中で突然、仕事を投げ出した東京都の石原知事。批判もどこ吹く風の唯我独尊ぶりで、26日の定例会見も大半を新党関連に費やし、20分後には「約束があるので」と一方的に打ち切った。で、向かった先は映画の上映会。まだ現職の都知事なのに、責任感はまったくない。ホント、いい加減な老人だ。

こんな男が新党結成だなんてチャンチャラおかしい。マトモな感覚の国民は相手にしないだろう。“盟友”だったはずの亀井静香前国民新党代表にも、あっさり袖にされてしまった。

「石原さんも本音では自信がないのでしょう。亀井に“助けてほしい”と言いに来た。それをビシッと断ったのです」(政界事情通)

新党結成宣言の夜、会いに来た石原に対し、亀井はこう話したという。

「オレが国民のため、日本のためにオールジャパンでやろうと言った時には断っておきながら、今になって何サマのつもりだ。アンタが今やろうとしていることは、国民のためじゃない。それこそ我欲じゃないか。政治家というのは、国民のために己を殺すものだ。アンタは間違っている。オレは合流しないぞ」

まったく、亀井の言う通りだ。そもそも、「石原新党」構想は、亀井や「たちあがれ日本」の平沼代表らが提唱し、働きかけてきた。しかし石原は煮えきらず、今年4月に“白紙撤回”を表明したのである。

「それもこれも、長男の石原伸晃を総理にしたいという野望のためです。一方で、新党構想には、三男の宏高を当選させる目的がある。日本のためだ何だとエラソーに言っているが、石原都知事に政治理念などない。親のエゴで動いているだけなのです」(前出の事情通)

そんな男だから、亀井も愛想を尽かしたのだ。政治ジャーナリストの鈴木哲夫氏が言う。

「亀井さんの頭の中には、菅政権末期から『救国内閣』の構想がある。それが石原新党へとつながっていった。亀井さんが描いているのは政界再編で、自民党政権に戻してはいけないという思いが強い。そのためには小異を捨てて、大同団結するという発想です。そこが“純化路線”の石原氏や平沼氏とは相いれないのでしょう。どちらかといえば、小沢氏の『オリーブの木』に近い。今後は第三極の一角として、例えば民間人を旗に立てて、その下に政治家が集まるような形を考えているようです」

私利私欲の石原とは、決別して正解だ。

拍手

PR

日常の芸術化

私にとって長い間の謎の一つが「茶道」であった。お茶を飲むだけのことをなぜあれほど面倒臭い儀式にし、しかもそれがなぜ、血で血を洗う戦国時代の武将たちの間ですら広まったのか。
戦国武将に関しては、お茶の席が一種のアジール(「聖別された逃避所・緩衝地帯」という意味としておく)であり、そこでは敵と味方さえも平和のうちに政治的密談を行うことが可能であった、という説があり、戦国武将にとってはこのメリットは大きかったのかもしれない。だが、一般人にとっては「茶を飲むことの儀式化」がなぜ必要だったのだろうか。日常のストレスからの逃避の場ならば、日常以上に強いストレスと緊張を要するような様々な作法や慣習の存在はナンセンスだろう。
茶道の達人たちの中にはそういう外面的な作法に拘らなくてもいい、という人もいるようだが、作法を抜きにした茶道は「茶を飲むだけ」に見える。そこに「茶道の精神」があれば、茶を飲むだけの行為も実は茶道になる、というのが結論になるのかもしれない。ちょうど、キリスト教におけるパリサイ派の「外面的規範を厳格に順守せよ」という行き方に対し、「内面性こそが大事である」、というイエス・キリストの教えが対立するようなものが、茶道にもあるようだ。
では、「茶道の精神」とは何か、と言えば、私は「日常の芸術化」である、と考える。もっと気どった言い方をすれば「日常の聖化」である。もっと普通に言えば、「日常を美に変える」ということだ。つまり、我々の日常の意識の深度が1か2であるならば、それを10にも100にも深めた意識で日常のあらゆることを見直し、その深度で生きることが茶道の精神ではないか、と私は考えている。私が味わう茶の味は、はたしてその茶の味の可能性を100%引き出したものだろうか。私が茶碗を扱う手つきは、果たして「美しい」だろうか。私が茶を入れる段取りは「芸術」だろうか。
もちろん、「茶」は「日常の芸術化」の象徴にすぎない。その意識で毎日を生きることで我々は人生を「高次元の生活」に変えられる、というのが茶道の意味ではないか、と私は妄想するわけである。
茶を飲むことは誰にでもできる。しかし、「茶を本当に飲む」ことは誰にでもできるわけではない、というこの誰にでも参加可能な、不思議な「日常の芸術化」が昔から多くの人の心を捉えてきたのではないだろうか。
コリン・ウィルソンが日本の茶道を知っていたら、ここにこそ「至高体験」に至る道がある、と言ったかもしれない。
なお、念のために言えば、私は世間的な意味での「茶道」体験は一度も無い。利休その他の先人たちも自分たちのやっていることを「茶道」とは言わなかったはずだ。「茶の湯」が「茶道」になったことと、お茶の儀式化や形骸化は並行して進行した気がする。




(以下「がま仙人のブログ(ガマ仙人の徒然草)」より転載)




ワシんちからスーパーまで
買い物に行く間に
日本庭園があって
そこにひっそり茶室がある
(この写真)

たぶん茶室だと思う  (茶室じゃなくてもいいけど)
しかも一畳半のものである
もしこれが茶室だとすると
ここのオーナーは相当すごいレベルだと思う

で一畳半の茶室の話をしよう

一疊半の茶室はすべての無駄を省いた
究極の茶室で利休が理想としものだ
禅僧として修行していた孫の宗旦が
利休のわび茶の思想を受け継ぎそれを極め
清貧に徹して「乞食宗旦」といわるまでになった
宗旦が設計する一疊半の茶室は、ついに
床さえ抜いてしまうという徹底ぶりだったんだね

利休はそもそもわび茶を追求してたわけだから
それを徹底的に極めていけば
最終的には宗旦の一畳半の茶室になるんじゃないか
ワシはそう思う

ちなみに今伝わっている茶道は
わび茶じゃないよ
たんなる茶道だよ
きれいな着物着て
お菓子くって
茶碗ほめて
茶道具の値段でびっくりしてみたり
価値のわからない掛け軸を絶賛したり
嫁の嗜みとしての茶道
旦那芸としての茶道
身体動作は美しくなるだろうけど
本来のわび茶じゃない
ワシはそう思う

もともと茶の湯ってさ
禅宗の坊主たちが
眠気ざましで飲んでた茶を作法化して
時の権力者の嗜みになったというだけのもので
たいしたもんじゃない

(中略)

長くなってしまった
わしがいいたいのは
村田珠光や乞食宗旦が
日常やってた清貧な生き方
そのものが茶の道なんだということ
そして禅の道なんだということだよ

そういう達人の極めた道をみてみたいもんだ
ブルーシートの中にガラクタを
詰めるだけ詰め込んで安心しているホームレス
部屋を汚し、ゴミだらけにして
ねっころがってTVを見ている貧乏さん
ここには道とかはない

また
綺麗な着物を着て
窯の値段とか茶碗の値段とかしゃべっているおばちゃんたち
師範の免除がどうのこうのいっている旦那衆
そこにも道はない

あっさりした茶室のような小屋    (別にブルーシートでもいいよ)
掃除がいきとどいた庭に小さな花が咲き   (河川敷でもいいよ)
人知れず美しく貧乏している人がいたら
それは間違いなくわび茶を点てられる人です
作法とか関係なく美しいと思うよ

だって、わび茶とは生き方そのものなんだから




ちなみにね
「わびさび」という言語意識は
「美しい貧乏のなかの美しさ」という美意識に基づくもので
日本にしかない素晴らしい美意識です
ユダ金にとってはまったく迷惑な言語意識だよね






o 1. 坊主
o 2011年10月12日 06:30
o
写真の茶室、なんとも言えないほどの
味わい・風情があって、良いですね。




「一畳半の茶室の床を抜く」というのは
驚きました。

床を抜いてしまった茶室というのが
ちょっとイメージしにくいのですが
立ったまま、茶を点てたのでしょうか?





掃除がいきとどいた庭に小さな花が咲き
人知れず清貧に生きる人・・・

そこには、凛とした美しさがありますね。
2.
o 2. が
o 2011年10月13日 00:03
o 床抜きの茶室で
どうやって点てたのか
ワシにはわかりません

ゴザでもひいたのでしょうかね

「凛」という語感もすばらしいですね
日本語って随所に
すばらしいヒントがありますね

昔の人が残してくれた
魔法のキーワードですね
3.
o 3. ポン酢
o 2012年10月23日 14:53
o 古い記事に突然のコメント、申し訳御座いません。
臨済宗の泉田老師が、厳しい生活を過ごされる中「一服の抹茶で至福のひととき」との記事を読み、
禅とお茶の関わりを色々調べて行くうちに、利休さんと「わび茶」、そして茶道に辿り着きました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121019-00000122-san-soci

でも、何だか凄い違和感。
さらに茶道を調べて行くと、茶室への入り方だの座る位置だの、座り方だの立ち方だの、お礼の仕方だの、茶器の鑑賞の仕方だの、「もてなされる方の作法」ばっかが説かれていて。
利休さんや宗旦さんが追い求めた「わび茶」の神髄は、そこにあるのかなぁって。
もてなす方の「精神性」を言われる事はあっても、「作法」とか今の茶道みたいな「儀式化」なんて、考えてもいなかったんじゃないだろうかって。

そんな時に、この記事に出逢いました。
とても嬉しい気持ちになりました。
これで迷う事なく「わび茶」(茶道じゃナイですよw)を始められそうです。
有り難うございます。

拍手

着るだけで痩せて見える服

最近はいつも不愉快なニュースばかりなので、今日は明るいニュースを紹介する。
太めの女性の皆さんへの朗報である。
苦しいダイエットや運動などしなくても、「痩せて見える」服ができるそうだ。
服の柄を3D加工し、胸を大きく見せたり、体形を痩せて見せたりできるとかいうような話だが、これが商品化されるのが待ち遠しい人も多いだろう。
記事タイトルが「怠け者と軍人のための洋服」というから何か、と思ったが、この服は「迷彩服」としてまず実用化されるらしい。べつに「怠け者」と「軍人」が同類という意味ではなさそうだ。



(「ロシアの声」から転載。)



怠け者と軍人のための洋服


タグ: サイエンス, 解説, 国内
ゴンチャロワ・ユリヤ 24.10.2012, 17:04

Photo: SXC

ロシア・サンクトペテルブルグの学者たちは、3Dの特性を持つ新たな布を製造した。この布でつくられた衣服は、体型の短所を隠し、長所を際立たせるという。
新たな布の製造で重要な役割を演じたのは、サンクトペテルブルグ国立電子工学大学のニコライ・サフィヤニコフ職員。

これまで、立体的な柄が描かれた布はなかった。サフィヤニコフ職員は、多くの実験を行った。そして、布を形成している糸の網目を「対角線」にするという方法を見つけた。加えて、布の表面に高低がつけられた。これらの効果と人間の視覚特性によって、柄は立体的なものとして認識される。

3D布の柄は、サフィヤニコフ職員が開発した特別プログラムによって作られるが、製造するのは一般的な機械だ。

サフィヤニコフ職員はこれまでにも布を使った実験を行っている。サフィヤニコフ職員は、電磁波、太陽フレア、電磁嵐などから「遮断」する布の特許を持っているほか、特別プログラムを使ってコード化された糸でつくられた布の特許も取得している。これにより偽物の流通を防ぐことができる。

 サフィヤニコフ職員が3D布の開発を始めたのは2008年。3D布の特許は、サフィヤニコフ職員にとって「特許コレクション」の33番目の作品となった。

 3D布は、軽工業とファッション業界のための新たな展望を開いている。サフィヤニコフ職員は、「立体的な柄が描かれたTシャツ、ブラウス、あるいはネクタイがあったら、どれほど効果的に見えるか想像してみてください!見る角度によって、立体的になったり平面的になったり、あるいは柄の一部が変化します。人間が動くと、この布の特質は特に効果を表します。3D布は、たとえ柄が描かれていなくても、デザイナーたちの関心をひくはずです。なぜなら、この布をつかって作られた洋服は、体型を細く見せることができるからです」と語っている。

 このように、外科手術に頼らなくても、3D布でつくられたジャケット着ると、胸が大きく見せることもできる。またスポーツジムに通わなくても、この布で作られたワンピースを着れば、ウエストが細く見える。

 ロシア・イワノワ州の工場は、すでに新たな布の見本を製作した。現在、大量生産に向けて準備中だ。3D布を使って最初に大量生産されるのは、軍人のための迷彩服になる予定。

拍手

市民社会に根を広げる暴力の存在

「つむじ風」ブログ記事のこの部分が面白いので転記する。


(以下引用)


その喧嘩の啖呵は、これまた、尋常ではないことをツイッターに公開しまくっている。この人、何を考えているのであろう。こう言うことで日本のリーダーを本当に目指しているのであろうか?



 日本流ではない。



 どこかの国のようだ?! と思われるのは、必定だろう。



 罵詈雑言、悪態の吐き放題、先に吐いた方が勝ちの世界が、どこかにある。決して、我が国ではない。そう感じた者は私一人ではないだろう。



 このことが、出自の自己証明である。



 ヤクザの言葉に、『かまし』と言う言葉がある。ヤクザの喧嘩は、『かまし』の応酬だ。そのためにヤクザの子分衆は、日常、『かまし』の練習に明け暮れるのである。これは本当の話である。



 不肖、私の友人(別に親しくもしていないが・・)に、かつて、或組事務所にわらじを抜いていたものが居たが、その証言であるから、間違いはない。



 ヤクザの喧嘩は、初歩的には『かまし勝ち』で終わるのである。



(引用終わり)


私にはヤクザや暴力団との面識は無いが、そういう連中は「見れば分かる」はずだ。というのは、彼らは自分たちがヤクザや暴力団であることをアピールすることがシノギ(生活手段)の大前提であるはずだからだ。要するに、他人に怖がられることで恐喝行為をし易くするわけだ。そのためには、自分が「そういう存在」であることをアピールする必要がある。「黒塗りのベンツ」や派手なヤクザ風背広は彼らの趣味と言うよりは制服的なものなのである。警官の制服と同じことだ。どちらも「威圧」が目的である。
他人を威圧することで生きている人間は、正体を隠そうとしても猫を被り切ることができなくなる。そのうちに「お里が知れる」わけだが、目のある人間は、最初からそれが見えている。橋下のマスコミ登場の初期から、私が彼に激しい嫌悪感を抱いていたのは、彼の正体が見えていたからである。
橋下は「喧嘩が強い」ことが自慢なようだが、相手の親が暴力団かヤクザであると知っていれば、誰でも逃げるに決まっている。つまり、ヤクザや暴力団はこの世の「特権階級」なのである。そういう存在に対し警察がほとんど手をつけず、見逃しているのは、尼崎の事件を見れば分かることだ。
あの事件の一番の問題は、何十年にも亘ってあのような悪事を働きながら、あの「私設暴力団」の存在が問題化しなかったことだろう。つまり、「問題化しないという問題」である。





拍手

婉曲と強調

「ネットゲリラ」のコメントの一つが面白いので、転載しておく。
橋下という人間は条件反射で言葉を口にするだけで、論理性がゼロであることがよくわかる。新聞側のこういう表現は橋下に対して親切な「婉曲化」であり、「強調」とは正反対である。
ついでに言えば、「抹殺しなければならない」ではなく、「抹殺し」に「行く」と言う事は、具体的な行動を意味する。明らかな肉体的暴行を意図するものであり、はっきりとした殺人予告、脅迫である。これこそ脅迫罪で告訴されるべきものだ。
橋下という人間が根っからのヤクザであることを自ら示したとも言える。
口先一つでのし上がった人間が、自分の口のために滅ぶということになれば結構な話だが、この件が不問にされるなら、どうせマスコミとは八百長喧嘩だろう、という見方が正しいことになる。



(以下引用)




橋下「佐野を抹殺しにいかないといけない」
毎日「橋下市長は『佐野を(社会的に)抹殺しにいかないといけない』など激しい言葉を述べた」
橋下・>>1「毎日新聞は悪意をもって『抹殺』という単語を強調している!」




(追記) 「カレイドスコープ」を今読んだところ、まったく同趣旨の言葉があったので、援用させていただく。


(以下引用)


ハシズム独裁を是とする「維新の会」の危険性と狂気



橋下徹は、「ハシシタ」報道の前から、自分のツイッターを使って、少しでも反論しようとする論客たちに攻撃を仕掛けていたようです。

特に、週刊朝日の「ハシシタ」連載報道の一連の記事を執筆したノンフィクション作家・佐野眞一氏に対しては執念深く攻撃を続けています。

「佐野を(社会的に)抹殺しにいかないといけない」と公の場で発言するなど、これは駄目でしょう。

これは橋下の佐野氏に対する殺人を匂わす発言と受け取られても仕方がない。

この橋下というヤクザ者気質を表現するには、週刊朝日の「橋下の本性」という言葉を使う以外にないでしょう。
彼には、狂気と異常性が確かに見て取れます。やはり非常に危険な男です。

週刊朝日はすでに謝罪しており、さらに2ページにわたって謝罪文を掲載し、連載も中止することを約束しているというのに、決して許さない橋下の異常な人格には後ずさりしてしまうのです。



拍手

日常の中に突然侵入する暴力

尼崎の事件で世間は喧々諤々だが、この事件は「実社会というジャングル」の中で「人間の皮をかぶった野獣」に遭遇した場合に、我々は生き延びることができるか、という問題に帰着するだろう。井口博士のように、「銃刀法を破棄して、銃や刀を解禁しろ」という勇ましい意見もあるが、私は採らない。なぜなら、いくら普通人が武装していても、「不意打ちの暴力」には絶対に対処できないからである。
あなたの家に、十人ほどのヤクザ・暴力団がいきなり押し掛けてきた場合、あなたに何ができるだろう。角田という鬼婆ァがしたのはそれなのである。
つまり、「桃太郎」の話とは反対に、鬼たちの方が平和な人間世界に侵入してくるのである。しかも、相手は最初からターゲットを狙って、すべて準備して乗り込んでくるのだ。
我々が無事に毎日を生きていられるのは、「幸運な偶然」でしかないし、そういう「鬼」たちに目をつけられたら、もはや一生はお終いだ、ということだ。あなたもあなたの家族の人生も、そこで終わりである。
この世界は、そういう世界なのである。法や警察は、事件が終わってから犯人を捕まえるだけであり、あなたを事件から救うことはしない。なぜなら、それはまだ「事件」ではないからだ。「事件」になるのは、あなたやあなたの家族が死んだ後だ。
我々は暴力に対する耐性が無い。心の準備も無い。
できることは、常に、自分が暴力に遭遇する可能性があることを心に刻みつけながら生きることだけである。それによって、少しでもその確率を減らすだけだ。
暴力に暴力で対抗するのは困難だが、少なくとも、事態がはっきりした場合は、「敵」の首謀者と刺し違えるだけの覚悟は持つべきだろう。多くのいじめ事件と同様、被害者が無抵抗であることが世の中の暴力による支配を助長するのである。


山本直樹という漫画家の作品に「ありがとう」という18禁の作品がある。この尼崎の事件と同じく、平和な家庭にいきなり侵入してくる暴力を描いたものだ。エロチックな描写も多いのだが、しかし、暴力との不条理な遭遇を描いた、ある種の傑作で、確か映画化もされていたはずである。


上の話と一見無関係だが、「日常の中に突然侵入する暴力」への脳天気な反応の例として下の記事を引用しておく。自衛隊という暴力装置の高官であった人間であったにもかかわらず、暴力というものに対してこれほど無自覚であり、一般人の人権や平和な日常を守るべき政治の義務というものに対して無神経であるような人間だから、彼はその職を失ったのだろうが、そういう自分の在り方への反省がまったくない。こういう厚顔無恥さは、石原や橋下、前原などと共通のものがある。田母神の場合は、イデオロギーによって外界への反応がロボット化した例でもある。
兵士すら消耗品として扱うのが常である軍の高官にとっては、軍人以下の存在である一般人の人権など、無きに等しいのだろう。彼らが守ろうとしている日本とは、いったい何を指すのだろうか。



(以下引用)




田母神氏、ツイッターの発言に批判殺到、炎上状態に



トピックニュース
2012年10月22日17時45分

コメント 233







写真拡大

田母神俊雄氏ツイッターより
軍事評論家・田母神俊雄氏は、今月19日にツイッター上で呟いた内容が、6000を超えるリツイートがなされたばかりか、「togetter」でもまとめられるなど、ネット上で批判を受けている。

田母神氏がツイートした内容は、下記の通り。
沖縄女性暴行事件でテレビが連日米兵の危険性を訴えるが、この事件が起きたのは朝の4時だそうです。平成7年の女子高生暴行事件も朝の4時だったそうです。朝の4時ごろに街中をうろうろしている女性や女子高生は何をやっていたのでしょうか。でもテレビはこの時間については全く報道しないのです。

しかし、実際、平成7年に起こった暴行事件の被害者は小学生であり、時間は午後8時だったことから、フォロワーからは「検索すればすぐ分かる事を調べもせず、セカンドレイプを行うのは人間のクズだ」「今回の女性は飲食店勤務で帰宅途中のことだったのに『深夜遊び歩くふしだらな女』ってことにしたいの?」「同胞よりアメリカ軍を擁護する人が自衛隊のトップだったとは世も末」といったコメントが殺到、炎上状態となった。

22日現在、田母神氏は、その後4件の投稿をツイッターで行ったが、本件に関する発言はない。





拍手

大映特撮映画讃

井口博士のブログに載っていた「大魔神」の動画が面白いので、試しにこちらにもコピーしてみる。
私は子供の頃は東宝特撮映画のファンだったので、大映特撮映画など馬鹿にしていてほとんど見なかったのだが、この「大魔神」の特撮は素晴らしい。今のCGには無い「質感」と「巨大感」「迫力」がある。
CGの方が一見リアルに見えるのだが、実は本当の映画的迫力という点では昔の特撮の方が上だったのではないだろうか。初代ゴジラの、あの迫力は、CGでは不可能だろう。それに、昔の映画は「見せ方」が上手い。撮影角度を工夫することで、迫力を出し、特撮のアラを隠すことに長けていた。今は、技術が進化したために逆にそういう面での工夫がまったく無くなったのではないか。
しかし、この「大魔神」は欧米には輸出できないな。(やっても不評だろう)なぜなら、悪役の大名が最後に大魔神に殺されるのだが、それが「十字架」に磔にされる形で殺されるのである。これはキリストの磔刑への愚弄である、とされるのがオチだ。










拍手

カレンダー

06 2025/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析