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憎悪心と破壊衝動の政治利用

「横板に雨だれ」というブログの下記記事が素晴らしいので、無断だが全文引用させてもらう。まさに、知性と教養ある人間の文章とは、こういうものである。
ここに書かれた中国は、少し前の中国であり、今の中国は違う、と言う人もいるかもしれない。私の「お気に入り」のブログ筆者の中にも中国嫌いの人間は多い。
だが、お互いに実際には知りもしない相手を、わずかなマスコミ情報だけで嫌悪し合ってどうなるというのか。日中が戦うことで金儲けをし、権力を増加させたいだけの連中の思うままになるだけだ。
異民族嫌悪、異国民嫌悪ほど政治的に利用しやすいものはない。いや、橋下の「公務員いじめ」に見られるように、我々は憎悪の対象をどこにでも見つけ、それを憎悪し怒りをぶつけることに快感を覚える存在なのである。
マスコミを手に握れば、人間のそういう破壊衝動を政治に利用するのはたやすいことである。






(以下引用)



2012.09.20 *Thu
中国の周恩来首相のことなど

石原慎太郎東京都知事は4月米国で尖角諸島(釣魚島)を東京都が買い上げると宣言し、その後一般から寄付を募って寄付金額がやれ10億円を超した、13億円になった、日本人もまだまだ捨てたものではない、などと勇ましかったが、その後中国側がこれではだめだと本気で怒って両国間に緊張と危険性が増し、また自分に対しても中国各紙が「石原」と呼び捨てにするかたちで論理的で実証的な、かつ徹底的な個人批判をするようになったら、すっかりおとなしくなってしまった。重大な騒ぎを引き起こした張本人であり、しかも当人自身文筆業者を名乗るのなら、このようなときこそ本領発揮、中国側の批判(こちらやこちらなど多数)に堂々と反論し、外部に向かって自分の計画の正当性を訴えるのが公人であり一人前の確かな人間である者のとるべき態度だろう。しかし当初からおそらく多くの人が薄々想像したことと思うが、この人は安全地帯にいて(右翼や産経新聞などの仲間に囲まれたなかで)、後先深くは考えずに調子に乗って一方的な悪態をつく以上のことはできないのだ。

14日、尖閣諸島周辺に中国の海洋監視船6隻がやって来ると、「人の家にずかずかと土足で踏み込んできた。追っ払えばいい。まさに気がくるっているのではないかと思う」とか、「かつてはいろんな教養や文化を持ち、孔子や孟子など日本に価値体系を教えるような先人がいた」が、「それをまったく喪失し、中国共産党の教導の下にああいうことを起こして平然としている国家は信じられないし、軽蔑する」と強い言葉で非難したそうだが、もはや精一杯はった虚勢、強がりにしか聞こえない。特に「軽蔑する」という発言は、相手側からの反響をそのまま口にしているだけのように聞こえる。「 かつてはいろんな教養や文化を持ち、孔子や孟子など日本に価値体系を教えるような先人がいたが、うんぬん」との発言にしても、中国側にしてみれば、「アンタにだけは言われたくない」で終るだろう。実際、言っちゃあ何だが、領土問題に関して石原氏(日本政府と日本のメディアも同様)の発言と中国側が繰り出す発言内容とでは、歴史認識の深さといい論理の確かさといい視野の広さといい、 双方の見識には目がくらむほどの差異があるように思う。もちろん中国側にもなかには感心できない論述もあるが、そんなことは当たり前のことであって、いつか浅井基文氏は自身のコラムで中国の論者には弁証法的思考法が身に浸みついていると評されていた。また別のところでは彼らには古典の素養が身に備わっているとも述べていたと記憶するが、確かに領土問題、日中関係を論評、分析した中国各紙の文章を読んでいると、その評価は適切だと思わないわけにはいかない。

それから民主党の前原誠司氏はTBS( 9月13日)によると、12日、アメリカ・ワシントンで講演し、南シナ海において東南アジア諸国と領有権をめぐり対立している中国について、「理解しがたい論理や主張に基づき行動している」「国際秩序への挑戦を恐れなくなってきている」と述べたそうだ。私は最初これを読んだとき、日本の与党政治家が中国の領土問題について発言したというのだから、当然日中間の紛争の種である尖角諸島について語ったのだと思い、 これまでに積み重ねられてきた中国側の尖角諸島に関する発言に対して前原氏は「理解しがたい論理や主張」と述べているのかと、私はそう受けとめてびっくりした。虚心に耳を傾けさえすれば、誰にとっても尖角諸島に関する中国側の論理や主張が「理解しがたい」なんてことはないはずと思うからである。そう思ってもう一度読んでみると、前原氏は尖角諸島についてではなく、中国がフィリピンやベトナムとの間に抱えている領土問題について語り、その件で中国を非難しているのだ。しかし私もその一人だが、日本人の大多数はよその国の領土紛争について事情を何にも知らない。そういうところにいきなり「理解しがたい論理や主調」「国際秩序への挑戦」などと中国に対する最大限の非難の言葉を投げかける前原氏の行動は浅薄であり品位に欠けるものだろう。もし中国のイメージを悪化させたいというような思惑があったのだとしたら、みみっちい卑怯な行動とさえ言えるだろう。領土問題は日本の例を見て解るように理解するになかなか厄介な事柄を数多く含みもつことが明らかだが、そもそも前原氏は他国の領土問題に対してそのように一刀両断するに足るどの程度の豊富かつ正確な知識を持っているのだろう。


2008年暮れに死去した文芸評論家の加藤周一は、文学者のなかで戦後の早い時期から中国との友好関係の重要性を指摘してきたうちの一人だったが、1972年に日中国交正常化が成るその10年以上も前の1959年に「中立と安保条約と中国承認」という題の文章において次の一節を書いていた。

「 私はアジア・アフリカ作家会議準備委員会で、中国の作家と同じ屋根の下に暮していたとき、もし私が中国を訪ねたら、中国の町や村の人々は私に対してどういう態度をとるだろうか、ときいたことがある。われわれは歓迎するだろう、と私の話相手の作家はいった。いやそういう意味じゃない。君たち作家は歓迎してくれるかもしれないが、大衆のなかには日本人に敵意をもっている人も多いだろう、と私はいった。相手は笑いながら――その笑いが何とあたたかく、人間的で、しかも誇りにみちていたことか!――中国のどんなところを旅行しても、どんな町、どんな村でも、君が敵意のある態度に出会うことは決してないだろう、と答えた。私はそういう保証を俄に信じる気にはなれなかった。町にも村にも、日本人に親や兄弟を殺された人々は少くないはずだが、その人々はわれわれに石を投じないのだろうか。投じたとしても、抗議する資格がわれわれにないという考えが私にあった。しかし中国の作家は、そんなことは決してないだろう、と繰り返し、中国の大衆は日本帝国主義と日本の人民とを区別することを知っているといったのである。事実戦後中国を訪ねた日本人から私のきいた話は、すべて彼のいうところに一致していた。日本の天皇の軍隊は――それはそう呼ばれていた、「皇軍」という言葉もあった――中国に侵入して、中国人大衆を掠奪し、拷問し、凌辱し、虐殺した。そのあとで、つまり大がかりな犯罪のあとで、日本人がその中国へ行って、石を投じられぬとすれば、それは人間の歴史に例の少いおどろくべき事態ではないだろうか。もし中国革命が六億の大衆の民族的自覚と共に倫理的自覚を意味していないとすれば、どうしてそういうことが可能であろうか。われわれは史上にいくつかの革命の過程を知っているし、また旧植民地または半植民地の独立と国民的統一の多くの例を知っている。しかしその倫理的きびしさにおいて、これほどの例は知らない。アグネス・スメドレー Agnes Smedley が中国革命軍の倫理的高さについて語ったときに、彼女はまちがってはいなかったのである。中国の作家と話しながら、私は一種の衝撃をうけた。衝撃は直接には、われわれ日本国民に対する中国側の態度から来ていた。しかしそれはただちに、中国に対する日本側の態度にもつながらざるをえない性質のものであった。日本人から被害をうけたにも拘らず、日本人に石を投じない六億の国民がある。その国民を代表する政府をわれわれの政府が正式に認めないという事態に、われわれが倫理的な抵抗を感じないわけにはゆかないだろう。中国の承認は、政治問題であり、損得利害の問題であるよりまえに、われわれにとっては倫理の問題であり、国民としての品位の問題である。
 しかし損得利害の問題もないことはない。経済的観点からみれば、……中国市場は、現在はもとより将来も、アメリカにとって致命的に大切なものではないかもしれない。また経済的にみてアメリカよりもはるかに小さな資本主義国であるイギリスや西ドイツにおくれて中国市場に乗り出しても、アメリカにとっておくれをとり返すことは困難ではないかもしれない。しかしイギリスや西ドイツよりももっと小さい日本にとっては、当然困難であろう。しかも将来の中国市場は、おそらく日本にとって致命的に大切なものになるにちがいないのである。要するにアメリカの実業家が中国との経済的関係の緊密化に不熱心なのは少しも不思議ではないが、日本の実業家が不熱心で、中国承認を躊躇う政府をだまってみすごしているのは、全く不思議である! もちろんすべての資本家は共産主義を嫌うだろう。それほどあたりまえのことはない。しかし中国承認の故に共産主義化した国はどこにもなく、将来共産主義化しそうな国さえどこにもない。そのことは中立主義政策に関連して先にも触れたとおりである。」(「世界」1959年4月号・著作集第8巻)

「 中国のどんなところを旅行しても、どんな町、どんな村でも、君が敵意のある態度に出会うことは決してないだろう」、なぜなら「中国の大衆は日本帝国主義と日本の人民とを区別することを知っている」から、と中国人作家は笑いながら言ったそうだが、その笑いについて、加藤周一は「何とあたたかく、人間的で、しかも誇りにみちていたことか! 」と書いているが、確かに当時中国人が日本人に対してそのような見解を自信をもって言えたのなら、そのときその人の表情が誇りある美しさにかがやきわたるのは当然のことだったろう。加藤周一は「事実戦後中国を訪ねた日本人から私のきいた話は、すべて彼のいうところに一致していた。」とも述べているが、これもものすごいことだ。

少し前のことになるが、8月19日付東京新聞に日中国交回復が成立した72年当時の日中の政治家の言動に関する記事が「日中正常化の原風景」という題名で掲載されていた。「正常化前後の中国を取材して印象に残ったエピソードを紹介しておきます。」との記者の前置きで中国の毛沢東、周恩来、日本の田中角栄、大平正芳などの各政治家が叙述されていたが、そのなかで私には周恩来の言動がとりわけ印象深く、感銘を受けた。記事の内容は下記のとおりであった。

「1972年9月、田中訪中に先立ち自民党訪中団と会見した周恩来首相は、随員の中に外務省の橋本恕中国課長(後の中国大使)がいるのを見て「田中訪中の準備は順調に進んでいますか」とたずねました。同課長は「中国側の配慮で順調です」と感謝しました。ところが周首相は即座にこう返しました。「配慮しているからといって、行き届いているかは別問題です。行き届かない点があれば遠慮なくいってください」」

周恩来のこういう態度は中国の一人の作家から加藤周一が聞かされた「中国の大衆は日本帝国主義と日本の人民とを区別することを知っている」という言葉の、その中国の大衆の姿勢と同じ根から出ているもののように思える。あるいは周恩来は自国民に向って折にふれそのようなものの見方を説くことがあったのかも知れない。中野重治は1957年に「第2回中国訪問日本文学代表団」の一員として中国に招かれ、山本健吉、本多秋五、堀田善衛などとともに総勢7人で40日間の旅をし、帰国後「中国の旅」という一冊の本を刊行している。この本はとてもおもしろく興味深い内容で他の人にも一読をお薦めしたいほどなのだが、ここには周恩来のことなど出てこない。いや正確に言えば、一ヵ所出てくることは出てくるのだが、それは中国旅行の前年に読んだという日本の新聞記事における周恩来の発言の引用なのだった。

「……けれども、去年夏の周恩来の言葉がある。アジアをまわつてアメリカヘ行ったときの日本の岸の言動について、周恩来は三項目をあげ、特に第三項については六つの点をあげて具体的に目本民間放送使節団に語つている。それは日本のすべての新聞が書いていた。そこにはこうあつた。
「吉田内閣は中国を敵視していた。鳩山内閣と石橋内閣とは中国と仲よくしようとする希望を持っていた。ところが、岸内閣は前進するよりも後退している。アジア諸国はみなバンドン会議の一員だから、岸首相がアジア諸国を訪問したのはよい。また日本の首相が当分のあいだ中国にこられない事情もわかる。しかし岸首相がわざわざ、鳩山も石橋も、そして吉田さえ行かなかつた台湾に行き、中国人民の反感を買っていることは私のとくに遺憾とするところである。つぎに岸首相が台湾で発表した談話である。岸首相は、『もし蒋介石政権が大陸反攻を実行できれば私にとってまことに結構なことだ』と言つている。これは中国人民を敵視している言葉である。」「第三に、岸首相がインドを訪問したとき、新聞記者に『日本は中国を承認しない。なぜなら中国は侵略国家であるからだ』と語つたことである。インドは中国を承認し、中国の国連加盟を支持している。そのインドに対してこのようなことを言うのは挑発的態度としか思えない。私は東南アジアの八つの国を回ったが、日本の悪口なんかは少しも言つていない。毛沢東主席も、日本をふくめたアジア諸国と仲よくしたいと希望している。日本の首相が外国に行って、中国をののしる必要がどこにあるか。」
 中国の人民が、あげて台湾解放を問題にしているのは伊達でも酔狂でもない。(略)」(「中国の旅」全集第23巻)

ところが、1978年刊行の同書の「著者うしろ書」によると、中野らは偶然のことながら周恩来に会って挨拶を交わしていたのだという。

「……私は、山本健吉、井上靖、十返肇、堀田善衛、多田裕計、本多秋五といつしょに中国へ行った。第二回中国訪問日本文学代表団というので、北京では中島健蔵とも一緒になつた。私たちはかなりの距離を動いた。私たちはいろいろのものを見、いろいろの話を聞き、いろいろの場面に出くわし、またいろいろのものを飲み食いした。帰り、重慶から船でくだろうとするとき、送りに来てくれた中国の作家とのあいだで、私でも知っている名高い孔子の言葉について、私などが通俗にいつてペシミスティックに取つているところを、相手がオプティミスティックに取つているらしいのに不思議なような、あるいはそれが正しいのかなと迷うような思いをしたりなどもした。この旅行で、偶然私は周恩来を見た。そこに人が集まつている。いろんな外国人たちがまじつていて、踊つているものもいる。そこを縫つて、周恩来がいろいろの人と挨拶しながらこつちへやって来る。堀田(善衛)が私を押しだすようにして私たちは挨拶することになつた。何とか言えと堀田が私に言う。私は何ひとこと言うことができなかつた。その印象は今に続いている。いまにつづいているこの印象について、私はいつかは一人の人間として書きたいと思つている。」(「全集第23巻「著者うしろ書」」1978年2月27日)

中野重治が周恩来から異様なほどに深い印象を受けていたことがありありと分かる文章である。しかし中野重治はこの翌年に死去し、「いつかは一人の人間として書きたいと思っている」と言った周恩来の印象について書く機会は残念ながらとうとうなかったわけである。

現在の中国は貧富の差の拡大や軍事力の急速な膨張など懸念材料が多いことも事実と思うが、しかし私は4月の尖角諸島購入問題発生後、中国の新聞の日本語版サイトをのぞいたり、浅井基文氏のサイトで浅井氏が翻訳されている中国の論文や新聞記事などを読ませてもらったりしているうちに、中国の人々には今も50・60年代のころの品位高い感情や姿勢が未だに残っているのではないかと思うようになった。中国各紙では「中日両国は和すれば共に利し、闘えば共に傷つく。」というような言葉も繰り返しつかわれている。現在の中国の日本に対する反感はほぼすべて私たち日本人の側に原因があるのではないかと今さらのことではあるがそう思わないわけにはいかない。加藤周一の死が2008年だったことは先に述べたが、その2、3年前に加藤周一は澤地久枝さんとの対談で、澤地さんに中国との関係改善の大切さを言われると、その大切さをもちろん重々認めた上で、「でももう無理でしょう」と言った。加藤周一が言外にその原因をほぼ全面的に日本のこれまでの中国・アジアに対する態度においていることは聞くまでもなく明瞭だったと思う。


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米国・イスラエルの失墜

本来なら「徽宗皇帝のブログ」に書くような国際政治の話だが、あちらの記事はもう掲載したので、こっちに書く。
要するに、田中宇によれば、米国の国際的影響力低下は、かなり明らかになっている、ということだ。それと同時に、イスラエルも孤立化しつつあるらしい。
なかなか、世界情勢も面白くなってきた。後は、政治の背後に隠れているパペットマスターたる国際金融家(ユダ金)たちをいかにして表に引きずり出し、様々な悪事の責任を取らせるか、ということだ。
過去の歴史では、経済人が政治を動かしながら、経済人がその責任を取る、ということが無かった。これがすべての世界的政治悪の根本原因だったのだが、私の予感では、その歴史が近いうちに大きく変わりそうな気がする。
私の星は四緑木星で、この星は「口にしたことが実現する」星であると、さる運勢占いのHPに書いてあったから、案外当たるかもしれないよ。(笑)



(以下「田中宇の国際政治分析」より引用)



 日本政府や石原都知事にとって、尖閣問題で日中対立を煽った目的は、日米が共同して中国の脅威に対抗する態勢を強めること、つまり日米同盟の強化だろう。中国の左派が尖閣紛争を逆手にとってナショナリズムを扇動し、中国の日中に対する外交姿勢が協調型から対決型に転換したとしても、米国が今後も盤石な覇権国である限り、中国は米国にかなわないのでいずれ譲歩し、日米に対して協調姿勢に戻り、日米同盟の強化は成功する。しかし、これまで何度も書いてきたように、米国の覇権は経済政治の両面で揺らいでいる。ドルや米国債の下落、米国の財政破綻、国連での米国の主導権喪失が起こりそうだ。半面、中国はロシアなどBRICSや途上諸国との連携を強め、これらの諸国が集団的に米国から覇権を奪う流れが続いている。(ドル過剰発行の加速)

 これまで米国の忠実な同盟国だったオーストラリアは、米国抜きのアジアを容認する外交戦略の白書を作り、近く発表する。「アジアの世紀のオーストラリア」と題する白書は、豪州が今後、中国、日本、韓国、ベトナム、インドネシア、インドとの経済関係を重視する戦略をとるべきだと書いている。米国に言及していない点が重要だ。豪州は米経済の回復に疑問を持ち、米国を軽視していると、WSJ紙が危機感をもって報じている。政治軍事的にも、豪州には、米国のアジア支配に協力すべきでないとする論調がある。豪州には、国家戦略を表だって議論して決める政治風土がある。国家戦略をこっそり決める傾向が強いアジア諸国(東南アジアや韓国など)でも、豪州と似た議論が起きているはずだ。(Oz Doubts U.S. Staying Power)

 この手の議論を、表でも裏でも見かけないのは日本ぐらいだ。今後、財政破綻などで米国の覇権が劇的に弱まると、その後の米国は、国力温存と米国債購入先確保のため、中国敵視をやめて、ベトナム戦争後のように、一転して中国に対して協調姿勢をとる可能性が高い。米国の威を借るかたちで中国敵視を強めた日本は、孤立した状態で取り残されかねない。(経済覇権としての中国)

 中東では今、米国の威を借りてイラン敵視策をやってきたイスラエルが、米国からはしごをはずされている。9月25日、国連総会でのイランのアハマディネジャド大統領のイスラエル批判の演説に対し、席を立ったのはイスラエル代表団だけだった。これまでイラン批判をしてきた米欧はどこも席を立たず、イスラエルの孤立が浮き彫りになった。中東政治における攻守が逆転した瞬間だった。イスラエル同様、米国だけを頼みの綱としている日本人は、この展開を他山の石として注目し、自国の戦略を深く再考する必要がある。だが実際のところ、もちろん日本のマスコミは、この国連総会の出来事をほとんど報じていない。(US Envoys Stay Seated For Ahmadinejad's UN Speech, Israel Walks Out Alone!)



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秋風と秋風邪

今日は何の引用も無しで、ただの雑談である。まあ、いつも雑談だが、政治的・経済的な内容ではない、ということだ。
朝晩めっきり涼しくなってきた。
日中は、この上なく気持ちのよい季節だが、夜になると気温が低すぎて、風邪などを引きやすくなる。
これは私自身の体感による推測なので、何の客観的根拠も無いのだが、体温が1度下がると、体の免疫力が1割から2割低下する、という印象が私にはある。
簡単に言えば、寝冷えによって風邪を引くのは当たり前のメカニズムだ、ということである。人間の体温は、確か就寝時には低下するはずである。体温低下が免疫力を低下させるとすれば、寝冷えによる風邪引きは理の当然だろう。
ところが、若いうちは免疫力が高いから、少々の寝冷えでは風邪など引かない。しかし、年を取ると、免疫力自体が低下するので、若い頃のままの気持ちでいると危険なのである。
それに、今の季節は、まだ涼しさが気持ちいいので、布団などかぶって寝るのは鬱陶しい。そこで、薄着のまま、掛け布団無しで寝て、夜の冷え込みで風邪を引いたりすることになる。
私も夜明け近くになると、「あっ、今俺は風邪を引きかけている」と夢うつつで気付いて、掛け布団を肩まで持ち上げる。それで30分ほど体を温めると、その風邪っ気は消えている。毎朝のように、その繰り返しである。
しかし、その「風邪っ気」に気づくかどうか、そしてそれにすぐに対処するかどうかが大きな分かれ目だろう、と思う。
まあ、最初から、寝冷えをしない態勢を整えて寝ればいいのだが、今の時期、寝る時には涼しいのが気持ちいいので、なかなかそうもいかないのである。
特に、高齢の方々には、寝る時には靴下をはき、長袖の上着を着て寝ることをお勧めする。そうすれば掛け布団が就寝中に外れても大丈夫だろう。風邪は足先と肩先から来る、というのが私の持論である。


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害虫だけが生き残る

「阿修羅」から転載。
この「日刊ゲンダイ」記事はおそらく内部情報に基づくものだろう。つまり、実現可能性は高いと思う。
民主党はこうして松下政経塾という松食い虫、毛虫どもに幹も枝も食い荒らされて枯れ果て、倒れるのである。
まあ、民主党はどうせ次の選挙で大敗北し、現在の代議士の大半が落選するに決まっているが、しかし「比例代表区」上位のメンバーは生き残るわけだから、当然、その上位にはまたしても松下政経塾メンバーがずらりと名を連ね、彼らはまたしても「野党第一党」のコアメンバーになるわけだ。
組織が一度乗っ取られると、もはや回復は不可能なのである。そして、権力は「今権力を握っている者」の手から奪い返すことは至難のわざだ。
民主党内に残り、内部改革を目指していた人々は、もはや改革は不可能だと見切りをつけるべき時だろう。


(以下引用)


史上最低 野田"松下政経塾"内閣の異様 (日刊ゲンダイ) 
http://www.asyura2.com/12/senkyo136/msg/364.html
投稿者 赤かぶ 日時 2012 年 9 月 27 日 00:03:46: igsppGRN/E9PQ


史上最低 野田"松下政経塾"内閣の異様
http://asumaken.blog41.fc2.com/blog-entry-6981.html
2012/9/26 日刊ゲンダイ :「日々担々」資料ブログ


前原、樽床、福山"入閣内定"で塾出身者が倍増

民主党の党役員人事はオソマツの一言だが、NYの国連総会に出席中の野田首相が帰国後に予定している内閣改造は、目をむくものになりそうだ。松下政経塾の出身者が激増しそうなのである。

漏れ伝わってくるところでは、党役員人事に伴って役職をはずれる樽床幹事長代行と前原政調会長、城島国対委員長の入閣が“確定”だという。

言うだけ番長で実績ゼロ、そのうえ対中強硬派の前原を入閣させようなんて正気の沙汰とは思えないが、それ以上に異様なのは“入閣内定者”が「松下政経塾」出身議員だらけなことだ。

現在、閣内にいる政経塾出身者は野田、玄葉外相、松原国家公安委員長。この3人は留任のうえ、新たに前原と樽床、そして参院から福山前官房副長官の入閣が取り沙汰されている。実現すれば政経塾OBが閣内に6人。一気に倍増だ。民主党の政経塾出身者は28人。国対委員長に昇格する山井国対副委員長も塾出身だ。当選回数が少ない若手は副大臣、政務官への起用が検討されている。まさに「松下政経塾内閣」である。

政治評論家の本澤二郎氏が言う。

「口先ばかりで中身のない松下政経塾議員が民主党崩壊の元凶なのに、この期に及んで6人も大臣とは、どうかしています。次の総選挙で民主党政権は終わり。どうせ最後だからと、野田首相は“夢の松下政経塾内閣”を実現させるつもりなのか。仲間に大臣ポストを与えるのは、選挙対策でもある。最低最悪の内閣になりそうです」

だが、大臣の肩書だけで選挙を乗り切れるほど甘くはない。

「いつものメンバーで主要ポストをたらい回しなんて、あまりに国民をナメています。入閣は最後のご褒美でも名誉でもない。次の内閣は、民主党政権最後の内閣。日本の政治をダメにしたA級戦犯として、歴史に名を残すことになる」(政治ジャーナリスト・鈴木哲夫氏)

民意を無視し、政権交代の意義を失わせた野田政権に対する国民の失望と怒りは生半可じゃない。

「選挙になれば、野田首相を支える閣僚や党三役など目立つ人ほど厳しい戦いを強いられる。最後の内閣は、そのまま『絶対に落選させたいリスト』になるでしょう」(ジャーナリスト・山田厚俊氏)

それを見越してのことか、滝法務相は、きのう(25日)の会見で「年だから、できるだけ外してもらった方がいい」と発言。現役閣僚が自ら「代えてくれ」と言い出すなんて前代未聞だ。しかも、滝は今年6月に法相に就任したばかり。そんなに嫌なら、ハナから受けなければよかったのだ。

人材払底も深刻だが、この党は完全にタガがはずれてしまった。

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一事を興すは一害を除くに如(し)かず

「日経ビジネスオンライン」の宋文州のコラムから転載。ただし、このコラムはだいぶ前に完結しているので、これは過去ログである。
なぜそんな古いものをわざわざ転載するのかというと、ここに今後の日本の課題の一つがあると思うからだ。
それは「目に見えない非効率性」の問題である。
下に書かれた過疎地域の自動販売機については誰もが一度は考えたことがあるだろう。それは、「目に見える非効率性」である。しかし、それすら改善されることはない。いや、それを変えることは「改善」とは思われていないのだ。
それは「サービス」であるから、停止されることはない。日本ではどこまでもサービス増加の方向に進むことこそが正しい、という無意識の前提がある。(「サービス増加」は「サービス向上」とは違う)
「お客様は神様だ」「お客様はサービス向上(増加)を望む」だから「どれだけサービスしてもし過ぎることはない」という三段論法である。
もちろん、経営陣は社員に「サービスを向上させろ」と命じるだけだから楽なものだ。そしてサービス向上は通常、ただの「サービス増加」になる。過疎地の自動販売機はその象徴のようなものだ。
しかし、過疎地域の自動販売機などはまだ目に見える非効率性だから、いつかは改善される可能性はある。
一方、銀行のATMの「硬貨処理サービス」については、我々はそれは最初からあったために、あって当然だと思っていたはずだ。これが「見えない非効率性」である。
我々は、その「硬貨処理機能」を付加するために、機械生産にどれだけのコストや労力がかかっているのか、まったく考えない。そして、その種の見えないサービス、それがサービスとも思わない人々のために設計されたサービスというものが日本には膨大にあるはずだ。
これは外国人の目にしか見えない。そして、その外国人の驚きを日本人は日本への称賛だと考える。確かに外国人は称賛しているのだし、称賛されて不快に思う人はいないから、日本人はいい気持ちになる。そしてその「過剰サービス」を良い日本文化としてもっともっとやっていこうと考える。
ところが、そこにこそ大きな落とし穴があるのだ。第一に、その種のサービスはほとんど誰にも必要とされていない。そして、その種のサービスのために、見えないコストが膨大にかかっており、経営にも労働者にも大きな負担を与えている。ただ、それが意識されていないだけだ。
たとえば、テレビのリモコンには無数の機能が付いている。私がその中で使うのは主にチャンネル切り替えと音量切り替え、そしてもちろん電源ボタンの三つだけだ。その他の機能は、私には不要である。だが、メーカー側の考えとしては、機能が多ければ多いほど消費者へのサービスだ、というものだろう。そして設計者に指示して他社より一つでも多くの機能を付けさせる。もちろん、買う方も、ほとんどの人は機能が多ければ多いほどいい製品だと思っているだろう。
こうして生み出される、「使われないサービス」を思い切って省略することで、社会全体からどれだけの無駄が省けるだろうか。
いきなり政治の話になるが、原発を存続させるためには電力の需要が大きい方がいい。だから、電力会社は、電力危機をアピールするが、誰でも知っているように、実際の電力需要は原発が一つも稼働しなくても十分に間に合ったのである。日本全国の膨大な自動販売機を減らすことで、電力需要はもっとカットできるだろう。さらに言えば、夜間の営業に制限を加えれば、もっと膨大な電力カットができる。一晩に一人か二人の客のためにコンビニの電灯を煌々と点けている必要はないだろう。いや、店を24時間開けている必要もないだろう。昼間のテレビ放送だって不要だろう。
要するに、我々が必要ともしていない「サービス」を存続させるために原発という危険な存在が存続している、ということだ。
我々は、社会の中の「見えない非効率性」や「いらないサービス」をどんどん洗い出していくべきだろう。
今回の記事タイトルはチンギス・ハーンの名宰相であった耶律楚材の残した金言である。



(以下引用)

 今回は“エネルギー”について考えたいと思います。「エネルギーだと。また環境か。なんて懲りないやつだ」とあきれられるかもしれません。しかし、これから触れるエネルギーは電気やガス、石油に関連することではありません。人の心遣いという“エネルギー”です。ただし、この気遣いエネルギーも使い過ぎると、地球環境にもあまり良くないとも思っているのです。
 例えば、今、買い物した品物を詰めるレジ袋が話題になっています。僕は以前から、日本では、なぜ商品をあれほど丁寧に包装するのか不思議でした。百貨店や高級スーパーでは、段ボールの箱にさらに紙で包装し、そして紙袋にまで入れてくれます。
 お店の人からすれば、お客さんに最大限の気遣いをしているつもりと思います。でも僕はこうしたあまりある丁寧な振る舞いを受けると、申し訳ないですが心地よさよりも、イライラしてしまいます。こう言うとまた怒られるかもしれませんが。
津々浦々に設置される自動販売機は消費者のため?
 日本全国、津々浦々に散らばる自動販売機も似たようなものに思えます。日本に来て驚いたのは、狐や狸しかいないような田舎の公園にも、自動販売機がズラリと並んでいることでした。海外なら、こんなに人通りが少ないところに置かれていれば、とっくに壊されたり、盗まれたりしてしまうでしょう。そうならない日本の治安の良さは誇るべきことですが、それを維持するために割く労力を考えると、果たしていいことなのかと考えてしまいます。
 大して販売量が見込めない所に配送するために、作業員が数トンの配送車を何十キロも運転してきて、わずかな数の缶やペットボトルの飲料を詰めては、また違う場所に行く。これは、果たして顧客にとって本当にためになっているのでしょうか。自動販売機を日本全国、隈無く設置すれば、商品の生産量は増やし、製造コストを下げられるかもしれませんが、販売に非効率な場所があれば、配送や管理コストを膨らまし、結局は売価の上昇を招いているのかもしれません。
 そしてATM(自動現金預け払い機)。日本のATMは全部ではありませんが、紙幣だけではなくコインも預け払いができます。ATMはそこまでやる必要があるでしょうか。皆さんはATMでどれくらいの頻度でコインの出し入れをしているでしょうか。コインが出ないより出た方が便利かもしれませんが、これも大局的に考えると本当に顧客のためになることとは限りません。
 コインを出すためには紙幣を出すだけより、ハードウエアやコンピューターシステムのコストを膨らまします。仮にそれが大したコストではないとしても、コインを扱うことで、ATMメーカーの社員のメンテナンス作業の工程は、確実に増えているはずです。それだけではなく、ATMを設置している金融機関の社員の管理業務も増やします。
 通常、労働者の労働時間が増えれば、人件費は膨らみます。作業が増えても、もろもろの効率化で人件費を抑制できるかもしれませんが、それがいつしか社員の精神的、肉体的健康に害を及ぼしてしまうこともあります。そうなれば、社会保障費が増加します。

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慌てずに、今はただ状況を観察しよう

「マドモワゼル愛」さんのブログから転載。(本当はHPの中の「日記」であるが、ブログと言ってもいいだろう。)
マドモワゼル愛さんは、名前の通りに愛に溢れた人柄であることは、その文章から分かる。しかもその愛は博愛であり、人間愛だ。だからこそ、人間を傷つける存在、人間に害を与える存在に厳しく立ち向かう、本物の男らしさがある。(弱者を守ることが本物の男らしさだ。)権力の虎の威を借りてマッチョぶった発言をし、弱者いじめをする石原や橋下とは対極的である。「マドモワゼル」という自称も、そうした外柔内剛性をユーモラスに表したものかもしれない。
さて、下記記事は今まさに日本が直面している国難を見事に分析したものだが、その大局的な見方は凡百の評論家やマスコミコメンテーターには見られないものだ。
しかし、ネット上では、こうした本物の識者の数は少なくないにも関わらず、それはやはりネット社会という狭い場所での話であり、実際の政治に影響を及ぼすのはテレビや新聞である、という状況はまだ変わっていない。逆に言えば、「彼ら」は、ネットと表マスコミの力関係が逆転する前に、東アジアを戦争に巻き込み、今のうちに稼げるだけ稼いでおこう、ということかもしれない。幾つかの情報によれば、なぜか「彼ら」は急いでいるらしいのだ。(「彼ら」とは、言うまでもなく現在の世界の支配者たちである。それが表社会の政治家や官僚ではないことは何度も言ってきた。政治家や官僚は道具や手下にすぎない)
事態を静観すること、慌てて暴発的行動をしないことが一番大切だ。
そうしているうちに、「彼ら」の瓦解が始まるかもしれない。彼らは経済が生命線であるから、経済的に崩壊すればその政治的権力も崩壊するだろう。そうすると、日中両国民が互いに無益に血を流す必要も無くなるかもしれない。


(以下引用)


石原が都長でしかないにもかかわらず、国政にしゃしゃり出て、尖閣を買うの買わないのとわざわざアメリカで言い出し、野田がこれに乗る。

まるで出来レースであることはわかる人にはわかってしまうが、マスコミがこれまで行ってきた大衆B層路線によって、多くはまんまと乗ってしまっている印象。

まあ、悲しい現実だが、こうやって、本当に戦争路線に入って行っていいのか。金儲けの戦争のためにわざわざ国民はそれに乗るのでしょうか。

20世紀の歴史はまさに日本と中国が組むことを阻止する白人対アジアの歴史だった。

本来なら日本と中国が組さえすれば、野蛮だった植民地政策は終わり、アジアの時代が当然訪れていた。

日本、台湾、半島、中国、そしてロシアがそれに続き、さらにインド、オーストラリアと行き、アジア経済圏はどうにもならないほどの中心勢力となって新たな時代を築いたことははっきりしている。

それに対抗するために、アメリカ、イギリス、フランス、はあらゆる謀略を尽くして対抗した。

その基本となるやり方は、統治者の上を懐柔し、スパイのような形にするやり方だった。先の大戦も同様だったのだろう。

日本はなぜかしら明治開国時に弱みを握られているような状況がおそらくあり、上は海外勢と組む以外に道がなかったのかもしれない。

戦後の日本のありようもまったく同じである。アメリカは日本が本当の意味で独立されたら大変だから、先の大戦を引き起こしたのと同じ勢力を上に立て、さらに日本と日本人に対して恨みを持つ者を上にして、日本人を支配した。

この構造は今すでに完成域に来ており、その体制の中で、こうした中国との第二ラウンドに突入への計画が切って落とされているわけだ。

石原は嬉しくて仕方ないことでしょう。ボスは都民でも国民でもない、彼のボスはアメリカの支配層であるのだから。

野田も同じ。彼らの顔は国民ではなく、日本と中国の戦争に巻き込んだ、当時と同じ海外勢に向けられている。福島のデタラメな対応も、まだ原発を続けるという対応も、支持をうしなってなを政権に居残る対応も、またそれを黙って見過ごすマスコミの対応も、、、こうして生まれている。

要するに現体制の元では、日本国民は質に取られ、売られているということであり、そのことをマスコミは必死に隠す役割を持っている。

唯一、マスコミに散々たたかれたのは小沢であったが、国民の生活については、一切、おもしろいようにマスコミは報道しない。要するに無視することで、その存在を国民が選ぶ際の選択肢にさせないためである。

小沢失脚にかんした陰謀では司法までかかわっているようであり、都合の悪いお尋ねに対しては、一切返答をよこさないし、そのことをマスコミはもちろん報道しない。

すでに国民は売り飛ばされているのと同じである。しかし、売り飛ばした上の者たちも、時間と状況が切迫してきている。彼らにはみずから富を生み出す力はなく、しかも自らの欲のためにデリバティブにおける失敗があり、その清算の時期が迫っている。

彼らとしてもとにかく急ぐしかない。なので、やり方が露骨になっているのである。野田も石原も自分がやっていることがどんな意味を持っているかはもちろん知っている。また、多くの良識ある人に見透かされていることももちろんわかっている。

しかしそれでも知らん顔をして、役割に徹していくという厚顔でやるしかない、、、。

習キンペイも行方不明となりおそらく脅されていたはず。そしてその後の反日デモである。

またしても極上の(夢人注:「ごく、うえの」か)一部の利益のために何億の民が殺しあわねばならなくなるとしたら、たまったものではない。

第一次大戦も、なんであんな戦争が必要だったのか、おそらく歴史学者も今ではわからないのではないのだろうか。要するに扇動によって対戦が勃発しただけ。

今回も同様の路線。ただ、今回は儲けのためというのではなく、それをしないと彼らも生きていけなくなるかもしれない、、、というかなり押し込まれた状況であるから、必死であり、露骨となる。

しかし、それでもやはり無理がある。中国でも多くの民は冷静であり、いつか、この反日デモを利用して、本当は中央へのデモに切り替えたいと思っている勢力も多い。

それを察知した当局はデモを抑止するしかない。大きな火にしてしまったら、それは燎原の火のようになり、反日は言い訳の体制へのデモとなることは見えている。

なぜなら、中国の民も上が日本を悪く言うことで、自分らの保険にしていることを見抜いてきたからだ。

ただ、子供の頃からの露骨な反日教育のおかげで、若者層の反日意識は強い。これを利用すれば対日戦争を起こせる土台は整っている。

私は野田や石原の力は今後急速に落ちていくと思う。日本はむしろ、それとは逆の方向に今後進むのではないだろうか。むしろ、そうした大きな流れに恐怖を抱いたこれまでの日本統治の上層部が、危機感を持って、あまりちゃんとした展望を持たずに、暴発した事態が現在の状況ではないか。

もっと大きな展望に立っているのはロシアではないか。プーチンの勝利はとても大きかった気がする。

あと、北では金正日が死んだあとの新たな体制の方向性がこれまでと異なるようである。一縷の望みが感じられる。

また、中東やアフリカに見られる、イスラムの動きなど、これまでどうにか抑えてきた新たな力が、古い枠組みを超えて胎動を開始した。

これらの動きにこそ、新たな可能性が見て取れる。これまで、私たちは、アメリカ、ヨーロッパが世界だと思ってきたが、実はもうそうではなくなりつつあるのだ。

しかし、日本も中国の上層部もかつての勝者である古いアメリカ、イギリス、フランスの支配層からの影響を受けており、新たな地球の動きに対応できずにいる。

(後略)

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常識と良識

数日前に私も「クリントンの中国大罵倒演説」で書いたヒラリー・クリントン演説の記事が「阿修羅」に掲載されていたので、その演説への反応はどうかな、と見てみたが、ほとんどがヒラリーの夜郎自大ぶりを嘲笑する冷静なコメントだったので、少し安心した。(「夜郎」は国名であり、「野郎」ではないので、ご注意。もっとも、アメリカ自体は「夜郎」のような小国ではないが、自分自身が見えていない、という意味で「夜郎自大」と書いた)
私は、ブログやツィッターなどのネット上の文章はただの「放言」でいいと思っているので、自分の書いた文章は、誤字の訂正程度の推敲ですぐに掲載する。しかし、自分の発言が根本的に間違っているならば、それはあまりいい気分ではない。だから、こうしたコメントなどで、自分と似た考えを見ると、ほっとする。自分もそれほど非常識な馬鹿ではないのだな、という気分だ。
もっとも、私は「常識」にはあまり重きは置かないので、ここでの「常識」はむしろ「良識(ボンサンス)」と言うべきだろう。「良識」とは、世間的合意ではなく、「合理的判断力」というようなものだと私は理解している。そして、その良識は、ほとんど生得的に誰にも備わっているのだが、むしろ世間に洗脳されることで曇るものだ、と私は思っている。これはデカルトの「方法序説」から私が学んだことだ。




(以下「阿修羅」より引用)



01. ルックウエスト 2012年9月23日 21:44:01 : yp6w3VNv0FOGw : q9bsheFzEw
歴史とはおもしろい。 これはアメリカ帝国の20年後を婉曲的に中国として表現している。
1。アメリカの金は中国にそそがれ
2。国民はほったらかしで、他国を侵略、戦争をバラますしか能がない。
3。有るのは競争社会と金持ちに成る事だけが生き甲斐。宗教は機能してない。でないと2項が?
4。国民にテロの恐怖を宣伝し、戦時体制を持ち込んでいるのは?
5。かつてはアメリカには誇りと開拓者スピリットが存在したが、いまは面子もなにもなく、略奪のみ
6。戦争による環境破壊は中国の比ではない、自国の足下を固め、アメリカ国民の幸せを先に考えないと
  革命はアメリカで起こるのではないか心配だ。
世の中すべて明暗、50/50で成り立っているのが真相。 他国の事より、今は自国の事を憂え、
世界の民を平和に幸せにする事を考え、実行したらどうか、クリントンさん?


02. 2012年9月24日 01:22:45 : sUpHQ8Q75g
> 1.移民申請の状況から見て、中国9割の官僚家族と8割の富豪がすでに(注:米国へ)移民申請を出した。またはその意向がある。
中国からの移民先にはカナダやオーストラリアも好まれてるようだが
ヒラリーが根拠としてる移民申請状況には米国以外も含まれてるんだろうか?
そうだとしたら各国は互いに中国人の移民申請状況を交換してることになるが?

ところで
この数字を除く全ての項目に米国自身が当てはまる
つうことにヒラリーは気付いてないんだろうか?
そうだとしたらヒラリーは極度に鈍感な人つうことになり
バカ丸出しだ



03. 2012年9月24日 02:09:31 : w18f1GkoJs
>>01
たしかにねえ。他者を鏡として己の姿を見るというのは心理学的によくあることだそうだ。

福澤諭吉の「脱亜論」だけど、その線に沿って行っての敗戦があり、そして今があると。まあ、そういうことだが、それで嬉しいの?




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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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