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イマジン

昨日の記事の続きのようになるが、(公平を期するために)「日本民族解放戦線」から、記事の後半にある、ノーベル平和賞批判の部分を転載しておく。
私も、ここに書かれたことにはまったく同意見で、特にアウンサンスーチーとダライ・ラマについてはまったく同じことを、同じようにウィキペディアなどに書かれた彼らの経歴から推理して書いたくらいだ。
しかし、憲法9条がノーベル平和賞を受けることの意義は、全人類的な意味、あるいは歴史的な意味がある、と思っている。それは、世界は平和を希求しており、戦争に反対するものであることを明確にし、戦争を引き起こす一部勢力を人類全体の敵として批判する動きがここから出てくる可能性もある、と思うからだ。憲法9条がノーベル平和賞を受けた場合、あるいは、未来において、ここが全人類史的なターニングポイントであった、となるのではないか、と私は考えている。それは夢想であり、妄想かもしれないが、すべての新しい現実は、最初は空想や夢想から始まるのである。


Imagine, all the people living in perfect peace!




(以下引用)



ノーベル平和賞の真の目的は以下の二つ…

①エスタブリッシュメントの世界経済コントロール政策提案に対する報償

②反西欧エスタブリッシュメントの人間を権力側に取り込むための装置

過去の受賞者を見て検証してみて欲しい。→Wikipedia

あまりにも見事にどちらかにあてはまっているではないか…

この賞はエスタブリッシュメントの政治的な意図が反映されているだけで、あまりありがたがっていると洗脳されてしまうので注意が必要だと思われる。


ちなみに、北ヴェトナムのレ・ドゥク・トは受賞を辞退しているし、ガンジーも5度も候補に上がっていながら固辞している。

一方、受賞したミャンマーのアウンサン・スー・チーの場合は、彼女の夫はイギリス人で、彼女自身もその経歴から見てイギリスのエージェントと目されている。

他にも、ノーベル平和賞受賞者であるダライラマ14世に関しては、1959年に彼の亡命を手引きしたのはCIAである(証拠がある)。それ以来、アメリカはこの人物をプロパガンダに利用してきた。共和党あたりがダライラマをやたらと持ち上げるのも、中国との駆け引きにおける政治的な意図がアリアリなことは誰が見ても明らかだろう。



とにかく「ノーベル平和賞」なんてものは、そういう西欧エスタブリッシュメントのために造られた政治的な駆け引きの「道具」の一つに過ぎない。今年は誰が受賞するのかは知らないが、注意して見るべきであろう。

村上が文学賞をとらなかったのも、西洋にとって政治的な意味がほとんど無いからだろうな…。(何かの受賞演説で、パレスチナ人の側に立った批判をしたこともあったからね)

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憲法9条は「世界憲法」となるべきである。

「The Huffington Post」から転載。4月11日の記事だから、もう旧聞に属するだろうが、私はノーベル賞委員会が、この推薦を受理した、ということは知らなかった。記事の所在は「日本民族解放戦線」というブログで知った(ただし、そちらは「東京新聞」記事)のだが、管理人氏はノーベル賞(特にノーベル平和賞)のいかがわしさをブログ中で嗤っており、それは「9条を平和賞に」という考えにも否定的だということだと思われる。しかし、私は9条に平和賞が授与されるということは、世界に憲法9条の存在を知らしめることになり、また安倍政権が戦争に前のめりになることへの足かせにもなると思う。特に、世界に憲法9条の存在を知らしめることは、大きな意義があるだろう。あるいは、この思想が世界に広まる、という動きがここから生まれたならば、日本が世界に貢献する最大のものになるのではないか。
70年近くもの長期に亘って、世界の先進国の中で、ほとんど日本だけが戦争に関与せずに済んだという事実そのものを見れば、憲法9条の力がはっきりと分かるはずだ。だからこそ、安倍戦争政権は是が非でも憲法9条を廃棄したいのである。
ノーベル平和賞という欺瞞に満ちた賞も、仮に9条に授賞する(受賞させる)ならば、それによって初めて真の世界平和に貢献することになるかもしれない。
私の夢想だが、「世界憲法」というもの(各国の憲法の範例となるもの)を世界の賢人たちに作ってもらい、その中に(人権思想とともに)この9条を入れるというのはどうだろうか。敗戦ですべてを失った日本は、不死鳥のように復興したが、その原動力は「不戦」にあった。一方、戦勝国アメリカは、いまだに戦争を世界中で行い、暴力で世界の政治と経済を支配しながら、世界中の嫌われ者となっている。はたして、真の勝利者はどちらになるのか。

日本は美しい自然と魅力的な文化、そして平和の国として世界の中で独自の位置を占めるべきである。




(以下引用)





「憲法9条をノーベル平和賞に」一人の主婦が発案 委員会が推薦受理

The Huffington Post  |  投稿日:   |  更新: 2014年04月11日 14時35分 JST



戦争の放棄を定めた憲法9条をノーベル平和賞に推した「憲法9条にノーベル平和賞を」実行委員会(事務局・神奈川県相模原市)に、ノルウェー・オスロのノーベル委員会から推薦を受理したとの連絡があり、正式に候補になったことがわかった。朝日新聞デジタルが報じた。

連絡はメールで9日夜、実行委に届いた。「ノーベル委員会は2014年ノーベル平和賞の申し込みを受け付けました。今年は278の候補が登録されました。受賞者は10月10日に発表される予定です」との内容だ。

(朝日新聞デジタル『「憲法9条をノーベル平和賞に」推薦受理 実行委に連絡』より 2014/04/11 11:34)

事務局の岡田えり子さん(53)は「受理されてうれしい。受賞者は個人か団体となっているが、受賞者を日本国民としたことを委員会は受け入れてくれた。これで日本国民一人一人が受賞候補者になった」と話したという。


今回の取り組みは、神奈川県座間市の主婦鷹巣直美さん(37)が始めた。2013年5月に署名サイトを立ち上げ、5日間で1500人の署名が集まった。ノーベル委員会に送信すると返事があり、推薦締め切りは毎年2月1日で、国会議員や大学教授、平和研究所所長、過去の受賞者らが推薦できる。また、受賞者は人物か団体のみで、憲法は受賞できないということがわかった。鷹巣さんは、考えた末、受賞者を「日本国民」にしたという。

鷹巣さんは受賞者を「日本国民」にした。「9条を保持し、70年近く戦争をしなかった日本国民の受賞に意味がある。みんなが候補として平和を考えるきっかけになれば」

この取り組みを相模原市の市民団体「9条の会」などに報告すると、協力者が次々現れ、8月には「憲法9条にノーベル平和賞を」実行委員会が発足。実行委は今年2月1日までに大学教授や平和研究所長ら43人の推薦人を集めた。推薦状に2万4887人の署名も添えてノーベル委員会に送った。

(朝日新聞デジタル「憲法9条にノーベル賞を 主婦が思いつき、委員会へ推薦」より 2014/04/02 18:43)

署名は4月11日現在、4万人を超えているという。鷹巣さんは「一人ひとりの小さな平和への願いがつながって、候補にまでたどりつくことができました。たくさんの方々の協力に感謝でいっぱいです」と話したという。



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他者への共感や同情心がなぜ政治として現れないのか

スカイヲーカーさんのブログを先ほど見ると、今日の徽宗皇帝のブログで私が書きたかったことが、そのまま書かれているような記事があったので、転載させて貰う。スカイヲーカーさん自身はちょっとした金持ちで、御自分の生活には不安は無いはずだが、こうして日本の若者全体の不幸を気の毒に思っている。こういうのがまともな人間の感情というものであり、安倍、石破、麻生、高市その他の自民党議員や、橋下、石原といった売国奴たちにはこうした人間らしい感情がまったく欠落しているのである。そのような非人間たちが政治の中心にいることが、今の日本を悲惨な状態にし、これからの日本を絶望的状態に追い込むのだ。そして、そのような状態を作ってきたのが、今の大人たちである。つまり、我々が自分の子供たちを殺しているのである。


(以下引用)


     

日本の将来は真っ暗。特に若者は不憫だ。

犠牲




















「政府が3日午前の閣議決定した2014年版「子ども・若者白書」によると、「将来に明るい希望を持っているか」という問いに、「ある」・「どちらかと言えばある」と答えた日本の若者は、1位のアメリカの91・1%に対し61・6%で、8~9割だった他の6か国をも大幅に下回った。」

「若者の自殺率は諸外国と比較しても深刻で、15~34歳の若い世代で死因の第1位が自殺となっているのは、先進7か国では日本のみだった。」



 戦後日本は、総じて夢も希望もない国だが、とりわけ、1990年以降人為的に不況が蔓延するためのオペレーションが継続しているので、不況の継続が先行きが暗いイメージを増殖させているんだろう。その通りだ。日本の現状は暗いし、若者が感じているように、先行きも全く見通しが立たない。必然的に、若者一人一人の明るい将来など全く期待できないだろう。先行きを悲観して、自殺する若者が続出するのも当たり前だし、子供の将来を悲観して子供を棄てたり殺してしまうのも理由がある。むしろ、そうならない方がおかしい。何せ、日本の国自体が、国民が不幸になるように、また、住みにくい社会をつくり、ますます将来の不安を促進しているのだから当然のことだ。

 米国の若者の91.1%が将来の希望を持つのは当然のことだ。何せ、米国は将来に希望があるからだ。米国には国民が十分に暮らせるだけの食料やエネルギーが確保されている。仮に、自由貿易を明日からやめて鎖国したころで農業でもやっていれば、何とか食っていけるし、餓死する心配はないだろう。但し、従来の世界一水準の豊かな生活は不可能になる。現在の大半の米国人や一部の中国人や韓国人などが豊かに暮らせるのは、日本人が朝から晩まで働いているお陰だ。日本企業が続々と企画する新商品が洪水のごとく米国市場や中国、韓国に流れ込むのは、日本が米ドルを基軸に認め、すべての労働対価を米国通貨に振り替えているからだ。米ドル取得を目的に経済活動に勤しむ日本企業が中国や韓国、東南アジアに進出し、インフラ整備を行い、工場を建設し、雇用を確保する。現地住民は日本企業からの指示通りに動くだけで豊かになれる。市場が豊かになれば、ますます米ドルの流通価値は上昇することになる。だから、米国人や中国人、韓国人や東南アジア人は、日本企業からいわれるままに過ごすだけで、豊かになれるのだ。

 世界で展開する日本企業は現地で工場を作り、現時採用するから日本企業の展開する地域においては、ますます繁栄する。しかし、一方で、日本国内では国内から第三国へ資金移動、技術移転、雇用の喪失が行われるのでますます苦しくなる。雇用機会が失われることで、貧富格差社会となり、一部の富裕層と大多数の貧困者に分かれる。大多数の貧困者階級は、普通に結婚もできないし、子育ても困難で、人間が従来から当たり前にできるはずの生活が困難になる。一部の富裕層は明るい未来が開ける。しかし、大多数の貧困層は人間が当たり前に過ごすだけの所得を得ることもできず、社会に漂流することになる。

 日本国民の富は、すべて外国人が支配し、使うことになっている。日本には主権がなく、自分の所有物を自分で使う権利がないのだ。国民の将来は、国民の選択により決められるのではなく、外国人によって決められる。日本は民主主義国家ではないし、国民の将来の選択権も存在しない。選挙も当然、セレモニーのようなもので、実際にはコンピューターによって、事前に結果は決められているのだ。だから、選挙なんて全く意味がない。だから、一番感受性の強い若者が、日本の将来を悲観するのは当たり前だし、自殺したり、将来を悲観して子供を棄てたり殺したりするのは当然のことだし、むしろ、将来に希望を感じる若者が存在すること自体がありえない。

 今後、米国の戦争にも駆出されるので、カネだけじゃなく、当たり前に生きる権利も蹂躙されるんだろう。全く、不憫だ。大多数の若者の大半は殺されてゆくんだろう。日本の若者の将来は真っ暗だ。本当に可哀想だ。


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兵站軽視の民族

「zeraniumのブログ」から転載。
兵站を叩く、というのは戦略の初歩だが、日本人には昔からその思想があまり無い。というのは、長期戦の経験が少ないからで、あの関が原の戦いですらわずか一日で終わっている。上杉謙信など、「敵に塩を送る」ことまでしており、それは日本では美談なのだが、世界では通用しない。だから、第二次大戦で日本兵の大半は飢餓死と病死だった、という悲惨なことになる。これが兵站軽視の思想の結果であるのは言うまでもない。つまり、「どんなに不利な状況でも、気力で戦え」という思想であるが、これが上に立つ人間の無能を隠す言い訳にもなるわけだ。スポーツの世界でも、企業でも、精神主義の指導者ほど本人は無能なはずだ。負ければ部下のせいにできるのが、この精神主義というものだ。
さて、下記記事から話がかなり逸れたが、日本の水源地が外国資本に買われている、というのが事実ならば、これは憂慮すべき事態である。もっとも、水源地を買った後で、それをどのように金儲けにつなげるのか、それがまだ明確になっていないのだが。まあ、一種の「人質」のように水源地を使って、自治体を恐喝する、くらいしか想像できない。それはともかく、確かに、水を握られることは生命を握られる、ということだから、水源地を外国資本に渡さない、というのは国家としてやるべき基本事項だろう。ところが、それどころか、水道事業を外国資本(おそらく日本の事業者を装うだろうが)に叩き売ろうとしているのが大阪の橋下市長という売国奴である。

なお、常勝のナポレオンがロシア侵攻で惨めに敗れたのも、兵站軽視の思想のためとも言える。クトゥーゾフの「戦略的後退」により、ナポレオン軍はロシアの奥まで軍を移動せざるを得なくなり、食糧、軍装すべてに欠乏状態になり、自壊したのである。



(以下引用)


日本に住んでいられるのは、外国資本に土地を売らない人々のおかげ?

 
エランビタールのニュース [水][活性][浄化]   

危ない!日本の水源地が外国資本に買われている!




    これは何の地図でしょう? 分かりますか?

   赤く塗られた箇所は、中国資本によって買い占められた森林や水源地のある都道府県です。北から順に、北海道、青森、埼玉、東京、長野、山梨、三重、岡山、鳥取、愛媛、大分、宮崎、長崎の1都、1道、11県に及びます。

   さらに次の地図をご覧ください。



   北海道は中国以外にもイギリス、ニュージーランド、オーストラリア、シンガポール(華僑?)に山林が買われています。中国が買い占めた場所は水源地だけでなく、自衛隊基地周辺の土地も含まれています。

   同様のケースは長崎でも見られます。
   海上自衛隊施設の隣接地を韓国資本が買収し、リゾートホテルを建てています。水源地はいわば国土・国民の心臓部です。それが安易に外国に売られていいものでしょうか!!

   許し難い行為です。
   こういう事態になってもまだ動きの鈍い政府に対して、15の自治体が立ち上がりました!



   3月26日付産経新聞に、上記の記事が載っていました。

   埼玉県久喜市、熊本市をはじめとする15の自治体が、国に水源地売買に関する規制強化を求める意見書を提出していたのです。北海道や埼玉県ではすでに取引監視強化の条例が成立しています。山形、群馬、長野の各県も条例を検討中です。

   ただ、今の日本ではそれ以上の規制は難しいようです。
   民法上、日本の土地所有権は絶対・不可侵が原則。所有者は地下水をいくらでも汲み上げる権利があるとのこと。これまで地下水の取水を包括的に制限する国の法律はなく、2年前に自民党側の議員立法として規制法案が提出されましたが、継続審議扱いのままで一向に前進していません。

   北海道ニセコ町の担当者は「水源地を整備したいときなど、外資にどうやって連絡取ったらいいのか。水源地を自分たちで管理できなくなるのは死活問題」と話しています。ニセコ町は町内の15ある水源地のうち2つがすでに外資の手に渡っています。

   そもそも水源地の水はその土地だけのものではありません。
   周囲の山林があってはじめてその地に水が湧いているのです。しかもその山林を懸命に維持管理してこそ良い水が得られるのです。そういう意味でも水はみんなのもの、国土全体のものです。決して水源地の所有者だけのものではありません。

   国民の生命と国益に直結する水源地買収問題。
   一刻も早く法整備をして欲しいものです。

                               sun

 エランビタールのニュースさんより転載させて戴きました。
   
http://news.elavita.jp/?eid=57

  実に信じられないことです。
  なぜ日本の国土にある山林や水源を、国を守るはずの林野庁や日本国政府が守らないのでしょうか? 一体何が起きているのでしょうか? なぜ日本政府は日本の国土を外国資本に売り渡すことを許しているのでしょうか? 日本政府の官僚たちはもしかすると、すでに日系中国人や日系韓国人に占められてしまっているのでしょうか? それとも買収されているのか? そうとしか考えられない事態が起きているようです。なぜなら日本人の心を持っている人であるならば、自らの国土が外国資本に売り渡されていくのを黙って見ているはずがないからです。

   国際条約があって外国資本の参入だけを規制するのは難しい、と日本政府は言っているそうです。そのような条約がいつ作られたのでしょうか? そうであればなおのこと、それに対抗できる条例を作らなければなりません。お金さえ手に入れば国土でも何でも売るし、日本なんかどうなってもいいと思っている人々を責めても仕方がありません。しかも自らが日本人として日本の国土に住んでいられるのは、実は外国資本に土地を売らない多くの人々のおかげであることなど、そのような人たちには思いもよらないし理解できないことなのです。

   政府があてにできないのであれば、各自治体でしっかり監視せねばなりません。
   外国資本は、特に中国資本はダミーの不動産会社を通してくるそうなので、出どころをしっかり見極める必要があります。
                                        zeranium


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仏とは自分自身である。

「バカ国民帝国日本の滅亡」から、記事の一部を抜粋転載。
キリスト教やイスラム教が、仏教の影響下で生まれた、というのは面白い想像だと思う。実際、これらの宗教には、エゴイズムの否定、という共通点がある。つまり、「我」の否定だ。仏教は宗教と言うよりは哲学だから、それが形を変えて宗教化したのがキリスト教だ、と言えるのではないか。
つまり、宗教とは、崇拝の対象としての何かの(他者としての)「神」を前提とするが、仏教には崇拝の対象としての他者なる「神」は存在せず、悟りを得れば、その人自身が「仏」になるという点で、キリスト教などとは異なるわけだ。ここが神と仏の根本的相違だ。
大日如来だとか、何とか仏を「神」のように拝むというのは、仏教の精神に反した行為だと私は思っている。禅宗で言う、「祖師に遭えば祖師を殺し、仏に遭えば仏を殺せ(殺す)」というのは、そうした錯誤を戒めるものだろう。いわんや、商売としての新興宗教などが「仏」を神のように拝ませ、仏教の教義の一部を自分たちの教義として、仏教を利用して金儲けをしている現実は、仏教を辱め、貶めるものである。
ただし、多くの仏教で「他者としての仏」を神のような存在として拝むのは、それによって自我の放棄の機縁としているという面はあるだろう。しかし、それは仏教の本質を誤らせるものだ。



(以下引用)最初の一文の主語はもちろん、「仏教は」である。



宗教であって、宗教ではない…迷信やおまじないとはこれらの一線を画す教えなのです。




アショーカ王の尽力で、西はエジプト、シリア、ギリシャ、ペルシャ、アフガニスタンにまで伝わりました。




ただ、その地域には「仏教」として根付くことはなく、イスラム教、キリスト教と形を変えました。





いずれも、教義や戒律に類似点があり、質素な生活や所有の否定、己の善(良心)以外に頼らないといったところなどが共通しています。




西洋や中東の宗教、文化の底辺に、仏教の教えがあるのではないでしょうか?




1+1は、だれがどうしようとも、2にしかなりませんからね…





老荘思想の中心人物、荘子と”禅”にも共通点があります。




老荘思想にも、仏教が影響を与えている可能性がありますね…





イスラム教といえば、「偶像崇拝の禁止」…ですよね?




キリスト教も本来は、そうですし、一番古株の仏教が、そもそも「偶像崇拝の禁止」なのです。





ゴータマが生きていた間はもちろん、死んでからも百年間、仏教教団は崇拝の対象となるものを建造しない方針を貫いていました。




「仏法僧」の三つ以外を崇めることは、仏教の外部を崇めることだ…ということでした。





まあ、寺も、位牌も、墓もないみたいなもんですか…「私はそこにはいません。千の風になって…」w




もっとも、死者を祀るものでは本来、ないですからね…





葬式仏教は、まさに「仏教の外部」です。そんなものを熱心にやっても「成仏」はできません…




実際、行われているのは卑弥呼以来の呪術でしょうがwwww仏教の体裁をしてはいても…





別に八百万の神様を拝んでもいいのですが、そんなものに帰依し、頼りにしてはいけないってことです。




仏教は、宗教であって、宗教ではないのでね…




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他者への執着と、自我の放棄

「バカ国民帝国日本の滅亡」から転載。
記事も面白いが、コメント間の問答が面白い。
母親が、子供のために自分の死を忘れる、というのはいわば子供という存在に執着する執着心から、自分自身の死の恐怖を忘れることであり、君子が死を恐れないのは、この世の何物にも執着しないから死を恐れないのである。つまり、この二つは、まったく違う方向から、同じ結果になっている。
私の考える「宇宙の原理」は、「無限大はゼロに近づく」というものだが、他への愛着心の極限は自我の放棄に至るわけだ。逆に、自我を放棄すればするほど、この世界そのものへの愛(世界と自分は同一であるという思い)に至る、ということもあるだろう。表と思って進んでいたら、いつのまにか裏側に回っていた、というメビウスの輪のようなものである。

余談だが、「観念する」という言葉は面白い。「観念する」とは本来哲学的(仏教的)思索へ没頭することだが、それが「あきらめる」意味になるというのは、実はこの言葉の本質を見事に示している。また、「あきらめる」とは本来、「明らめる」、つまり「明らかにする」意味だったというが、「明らかにする」ことが「あきらめる」につながるというのも、日本人が仏教というものの本質を体感的に知っていたことを示しているのではないだろうか。



(以下引用)


”君子の自由”と”小人の自由”
NEW !
テーマ:

まったく内実の異なるものが、同じ「自由」ということばで呼ばれている…





奴隷や囚人にとっての「自由」とは何だろう?




喰えることであり、痛い目に遭わずに済むことであり、




いつかは、この境遇から脱することができると信じられる”希望”であろう…





自分が、自由でいられること、自由にできるモノがあること。




そして、自由な時間があることだろう。





欲望が満たされていること…




恐怖から逃れられていること…





それが、”奴隷の自由”、”囚人の自由”である。





日本人の多くが求めている「自由」はこれである。





ゆえに、彼らはたやすく権力に支配される…




権力に支配されて、「自分が自由である」と錯覚している…





豚舎でブタは腹いっぱい食えて、寒さもなく、天敵の襲来にも脅かされず、「自由」を満喫している。




だが、彼らはなにひとつ自分で決定できはしないし、生死も飼い主に委ねられている。





ブタどもにとって、欲望が満たされることが、「幸福」であり、「自由」なのである…




ブタどもにとって、「安全」を信じられ、恐怖のないことが「幸福」であり、「自由」なのだ。





喰われるために生きている者たち…





君子は、権力に支配されず、主体的な立場を維持しようとする。




だから、くだらぬ欲をそもそももたない…




偽りなく生きているので、怖いモノがない…




欲をもたず、恐怖しない…




だから、君子は権力から自由である。




権力に対して、常に主体的な立場を維持することができる。





そもそも権力とはなにか?…




欲で釣り、刑で脅すことである。





欲と恐怖によって、人間を支配することができる。




だが、君子は支配されることがない。





欲がないから釣られない。




死ぬことも怖くないから、脅しが通じない。





ゆえに、君子は常に”自由”である。





君子は力を求めない。いや…求めはするが、求め方が違うのだ…




何も支配しようとしない…ゆえに、万物が自分にしたがうようになる…





他力に寄り添うことで、他力を自力に変えてしまう…




相手や仲間の力を利用する…引き出す…それに乗る…





無欲恬淡、柔弱謙下不争の徳は、権力に支配されない自由な自分を維持する極意である。


 

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北一輝と日本国憲法

「阿修羅」に面白い記事が載っていたので、転載して紹介する。
まるで私自身が書きそうな内容だが、書いたのはもちろん私ではない。私にはこれほど明晰に、意を尽くして書く能力は無い。思想傾向が似ている、というだけだ。
私も北一輝の「国家社会主義」思想は(あるいは右翼社会主義とも言えるし、尊皇制民主主義とも言える。)、今の日本の政治経済を根本から改善する上で参考になるのではないか、と思っている。特に、「私有財産制限」については、それをどういう手段で行うかという点に極度の難しさはあるが、理念的には、それ以外には今の「残酷な資本主義(経済的自由主義・新自由主義)」から脱却する道は無い、と思っている。
下記記事では、北一輝の思想は今の日本国憲法の先取りだ、と言っている。実際、書かれた内容を見れば、なかなか頷ける。私自身、日本国憲法は、日本の、いや世界の宝だ、と思っているので、北一輝と日本国憲法が結びつく、という指摘は面白く思った。
駄弁が長くなった。下記記事は、今後の日本を考察する上で、非常に参考になると思う。


(以下引用)


北一輝、日本国憲法を護れ!?
http://www.asyura2.com/14/senkyo166/msg/268.html
投稿者 安心革命 日時 2014 年 6 月 01 日 10:32:43: dhwFOFH76mN9w




南十字という人からメールが来た。あまりにも奇妙な名だから聞いてみた。

私 「南十字とは変な名ですね。地球の南には南十字星がある。北には北斗七星がある。もしや北一輝をもじったのではないでしょうか」

南十字 「北は北、南は南、一輝は一輝、十字は十字。関係ない。しかし鋭い。実は北一輝について話そうと思ってメールをした」

私 「北一輝といえば2・26事件で処刑された国家社会主義者。右翼の思想家ではないですか」

南 「歴史の教科書ではそういわれている。しかし実像はかなり違う。社会主義者といっても私有財産は認める。宗教も認める。本人は法華経を信じて読誦している。
右翼といっても、『国体論及び純正社会主義』という本で大日本帝国憲法を批判し特高からつけねらわれる。天皇は国民の一人であり、もと有力部族に過ぎないといって天皇の神聖性を否定している。
明治維新を市民革命とみる。ペリーの来航により幕府と藩に分かれていた日本人が日本国民として自覚し幕府を倒したからだ」

私 「そういえば坂本竜馬も、『幕府とか藩とか小さい、小さい。今からは日本人の時代だ』と言っていますね」

南 「その通り。開国を迫られて日本人を自覚し、革命を行った。これが明治維新だ。五箇条の誓文には『広く会議を興し万機公論に決すべし』とある。これは民主主義のことだ。だから市民革命という」

私 「なるほど。でも2・26事件のクーデターとどう結びつくのですか。民主主義的方法ではなく、武力革命と」

南 「本来は武力ではなく、選挙で実現すべきだが、2・26事件当時は世界恐慌後であまりにも格差がひどく、農村は疲弊し生活ができない。その悲惨な状況に政治家は救済の手を伸べず、財閥は私腹を肥やしている。そこで軍の将校がクーデターを起こしたのだ。貧しい東北出身の将校が多い。思想的には現人神として天皇を崇拝する将校たちと天皇を人間のひとりとみる北一輝とは異なるが、現実的には北の『日本改造法案大綱』が影響を与えている」

私 「どのようなことを書いているのですか。私は教科書程度しか知らないのですが」

南 「要点は次の通りだ。
 巻一 国民の天皇  天皇は国民の総代表である。
つまり国民主権の天皇だから、日本国憲法の「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」(第1条)に近い。
華族制廃止。
日本国憲法第14条第2項「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」に一致する。
巻二 私有財産限度 
私有財産は認めるが限度があるということだ。日本国憲法第29条第2項「財産権の内容は、公共保福祉に適合するように、法律でこれを定める」というものだ。
巻五 労働者の権利
 争議権まで認めているから日本国憲法第28条の労働者の権利保障と同じだ。「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。」
労働時間 幼年労働の禁止
労働時間は1日8時間、日曜祭日は休み。日本国憲法及び労働基準法と同じ内容だ。
 巻六 児童の権利  国家扶養の義務  義務教育
日本国憲法の生存権、社会権に当たる」

私 「ええー知りませんでした。日本国憲法と同じですね」

南 「もちろん平和主義はない。当時は帝国主義の時代だから、戦争放棄では列強から支配される。北は男女平等、婦人労働の保護までは書いているが、まだ男女平等選挙には至っていない。現代の目からは不十分だが、ほぼ日本国憲法を先取りしている。
マッカーサーの農地改革、財閥解体、労働組合育成は北の主張したところだ」

私 「ということは2・26事件では敗れたが、日本改造法案をさらに発展させ実現させたのはマッカーサーということになりますね」

南 「その通りだ。だから北一輝は言うだろう、『日本国憲法を護れ。なぜならそれは日本改造法案を120%実現しているからだ』と。
ところで、北は軍隊を『国民の軍』と考えていた。当時、国民が苦しんでいるのに政府は救済しない。そこで軍の力を借りて救済しようとした。しかし、反乱軍とされ敗れ去る。民間では北一輝ひとり処刑された。北の観点によると、帝国軍隊は国民の軍隊ではなかったということになる」

私 「そうですか。知りませんでした」

南 「その後、国民から遊離した帝国陸海軍は戦争に突入し壊滅する。アメリカは日本に戦争放棄をさせた。ドイツも同じだ。当時、日本とドイツが軍備を持たなければ世界は平和だと思っていたのであろう。
しかし、現実はそう進展しない。すぐ米ソの対立が始まった。アメリカは日本に再軍備を要求する。共産国への砦にするためだ。アメリカ防衛の役割を日本に与えようとした。つまり日本の軍隊ではなく日本にアメリカの軍隊を作ろうとしたのだ。
しかし、その歯止めとなったのが日本国憲法の平和主義だ。戦争を放棄しているからすんなりと軍隊は作れない。そこで警察予備隊となった。これが保安隊になり、自衛隊になった。
自衛隊の任務は日本の防衛である。規模が拡大してもその原則を貫くことができたのは、日本国憲法第9条の存在だ。つまり北一輝のいう『国民の軍隊』を維持できたのは日本国憲法第9条があるからだ」

私 「そいうことになりますね」

 南 「確かに複雑な国際関係のなかでは一国で平和は護れない。集団的自衛権は国際社会の認めるところだが、これまで日本においては憲法の制約上その権利を行使できないという立場が維持されてきた。
 ところが最近、政府は集団的自衛権を認めようとしている。憲法改正でなく解釈によって変更しようとしている。これを認めるとアメリカの要請により日本の自衛隊が全世界に出かけることになる」

私 「日本の軍隊からアメリカの軍隊になるということですね」

南 「事情は複雑だが、簡単に言えばそういうことになる。
北一輝は帝国主義の時代、遅れた日本が欧米列強と戦い、平等な分け前を要求すべきだと言った。つまり欧米の世界支配に反対し、アジアなどの遅れた国の権利を勝ち取ろうした。そこには正義があった。
しかしいま、集団的自衛権を行使することは、アメリカの世界支配のために奉仕することになる。日本はアメリカの命令に逆らえないからだ。これまで経済政策についてはアメリカのいいなりであった。ただし国防に関してはそうではなかった。憲法の制約があったからだ。政府は今、その原則を変えようとしている。それも解釈によって。
北一輝は怒るだろう、「国民の軍隊でなくなる」と言って。
国民から遊離した軍隊がどういう末路をたどるかは第二次世界大戦で学んだはずだ。ひどい目にあったのは日本国民だ。たしかに国際情勢は時々刻々変わる。しかしその中にあって、戦争放棄から一転して再軍備に変わったマッカーサーの要求を退けたからこそ、戦後の日本の平和と繁栄が保たれたのだ。原則は守らねばならない。
ドイツは国民投票にかけて再軍備を選択した。これも筋を通している。現在、NATOの枠内にとどまり、集団的自衛権を認めている。かれらは国民に信を問いながら、つまり国民の軍隊を維持して行動している。
それに比べると日本はなんと卑怯なことか。憲法を改正という手続もふまず、内閣の判断で容認を進めている。
日本は国際情勢の変化に合わせる必要はない。情勢など利害打算でころころ変わる。原則を貫いた方が国際社会の信用を得る。日本国憲法の平和主義は護らねばならない。一歩譲っても卑劣な手段は認められない。堂々と国民に信を問え。もちろん不正でなく正当な選挙でなければならない」

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