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人を殺してはいけない、か

まず、最悪の真実から書くことにする。
それは、ドストエフスキーの或る小説(「カラマーゾフの兄弟」だったかと思う。)に書かれていた、

「神が存在しなければ、すべては許される。」

という言葉である。
私は、この言葉は、ドストエフスキー以外には古今の哲学者も文学者も言わなかった「最悪の真実」であり、文明社会に投じられた、核兵器にも似た破壊的な威力を持つ言葉だと思う。
そして、それが恐ろしいのは、実は人類のほとんどは、この言葉が真実であることを心の奥底では分かっているところだ。だが、この言葉が真実であることを認めたら、あらゆる法と道徳は壊滅状態になるのである。
いいですか、

「すべては許される」のですよ。

殺人も、強姦も、近親相姦も、暴力も、拷問も、略奪も、嘘も冒涜もすべてである。
我々がそれらを犯罪としモラルに反する行為だとしているのは単に社会秩序を守るための便宜にすぎないことは、法や道徳がどうして発生したかを考え、そして法や道徳が場所や時代によってどれだけ変わるかを考えれば分かることである。
ドストエフスキーは、この言葉を、

「しかし、神は存在する」

という思想を前提として述べているのだが、問題は、ここで或る人が「神は存在しない」と確信したらどうなるか、ということだ。
その人が「神が存在しなければ、すべては許される」と考え、「神は存在しない」と確信したなら、「人間にはあらゆる行為が許されている」と自動的に答えが出るわけだ。
そして、その人が自分を他に優越する存在だと見做していれば、彼の思考はたぶん、こう続くだろう。
「ただし、自分の行為には、人間たちが勝手に作り上げた法律や道徳によって規制がかけられている。では、それに従う必要はあるか。
私は、他人が勝手に作り上げた法や道徳に従う意義を認めない。それらは私の自由を縛るものだ。この世に偶然的に生まれて、自分の人生から最高の果実を得るためには、私は世間では悪とされていることをも堂々と行う必要がある。なぜなら、悪は私が自分の欲望を達成するために必要な行為だからだ。もちろん、世間の意気地無しどものように、法や道徳を小心翼々と守り、安全で迂遠な道を行くこともできる。だが、そんな生き方の何が面白い。
奪え、殺せ、弱者を踏みにじれ、そしてすべてを手に入れろ。それでこそこの世に生まれた甲斐がある。力の無い、弱虫どもは奴隷の一生を送るがよい。俺は、強者として、超人として生きる」

これが私の考えるニーチェ的な「実存主義」である。
そして、こうした考え方は、本人が意識しているかどうかは別として、若者の一部には必ず存在していると私は推測している。ISISなどのテロ組織に参加する若者は、イスラム教への関心よりも、むしろテロの持つ「超人的な力」を求めて参加していると私は見ている。
現代では、すでに、神の存在を考えること自体がナンセンス扱いされる、というのが普通だろう。ならば、「神の存在しない世界」で、道徳や倫理(すなわち、法的定義以外の「善と悪」という判断基準)というものがどんな基盤の上に成り立つだろうか。私は、その基盤を見つけるのはかなり困難だと思う。法の場合は刑罰が厳然として存在するから、強制力も支配力もあるが、道徳に関しては、当人の人生経験と読書体験くらいしか基盤が無いのである。偉い人が「道徳を守れ」、と言う、その偉い人自身が道徳的には最悪の人物だったりする。

このへんで、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問題に答えておこう。
答えは単純である。

「法律で禁じられているから」

これだけだ。道徳という不確かなものではこの問題に答えることはできない。

「なぜ法律は殺人を禁じているか」

は、別の問題だ。ちなみに、法はあらゆる殺人を禁じてはいない。言うまでもなく、戦争においては、敵を殺せ、と国家が命令する。そして死刑制度は国家そのものが殺人を行うことだ。つまり、法律は「絶対的に殺人はいけない」とはまったく言っていないのである。

上に書いたような答えでは当然誰でも不満に思うだろう。だが、実際に、「神が存在しなければ、すべては許されている」のであり、殺人だけを禁ずるいわれは無い。
動物でも人間でも「敵は殺せ、味方は殺すな」が原則であり、「殺すこと」自体が禁じられている、というのは実は幻想である。言い換えれば、法律や道徳は壮大な「虚構の体系」だと言える。しかし、その虚構は社会の平和と秩序を守っているのである。誰かを殺せば、その遺族によって自分も殺されて当然である。だから法は殺人を禁じる。そしてそれは十分に合理的なものであり、殺人はこうして禁止されるわけだ。しかし、哲学上の問題として言うならば、「人を殺していけない」絶対的な理由は存在しない、と私は思っている。

念のために言うが、私は人を殺すことを勧めているわけではまったくない。まして、「お前は人を殺していいと言ったのだから、お前を殺す」などという言いがかりは迷惑である。(人を殺していい、とは少しも言ってない。「人を殺していけない絶対的な理由は存在しない」と言っているのであって、それ以外の理由は無数にあるだろう。「社会の平和と秩序の維持」も立派な理由だ。そもそも、なぜ無益に人を殺す必要があるのか。)

私自身は、人間の文化の大半は美しい虚構であり、虚構であっても(あるいは虚構だからこそ)大きな価値がある、と考えている。道徳もその一つである。私が悪が嫌いなのは、端的に言って、それが醜い行為だからだ。善は行動の美なのである。

エゴイズムによる行動ほど醜いものは無い。そして、悪とはすべてエゴイズムから来るものだ。上に書いた「超人思想」(石原慎太郎が自分を実存主義者だと規定するなら、その思想はこんなものではないか、と私が空想したもので、ニーチェ的なものだろうとは思うが、私はニーチェを詳しく読んでいないので、確かではない。)も、要するにエゴイズムでしかない。醜い思想である。
エゴイズムによる行動の醜さは、たとえば行列への割り込みのような日常的事象の中から拾い上げてみたほうが、よく分かると思う。巨大な悪は、エゴイズムからのものでも、その巨大さだけで(常人には為しえない行為という)一種のヒーロー性を帯びてしまうのである。

では、美とは何か、特に行動の美とは何か、という問題が次に出てくるが、これもまたそのうち、気が向いたら考えてみることにする。





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命は平等か

私が、今の日本で一番価値が無い命だと思うのは、某総理大臣やそのお仲間たち、大阪市の某市長、東電経営者や東電経営陣の命であるが、多くの人は、総理大臣や国会議員や市長、大企業経営者やその幹部の命には価値があり、ニートやホームレスの命には価値が無い、と考えるのだろう。私は、ホームレスやニートの中にも聖人に近い人間がいる、と推測している。
では、認知症の超高齢者や植物状態で延命措置を受けている重病患者の命はどうか。つまり、正直に言って、他人の負担になり、他人に迷惑をかけながら生かされている人間の命はどうか。あるいは、暴走して大事故を起こし、他人を死なせながら自分だけ大怪我程度で助かった暴走族の命はどうか。あるいは、明白な殺人犯の命はどうか。
これらがすべて平等だ、という建前を私は取らない。
暴走族や殺人犯の若者ならば、改心して正道に戻る可能性があるから、若い順に助けるべきだ、という考えも取らない。「美徳は切り売りできない」ものであり、やった悪事の償いなど、けっしてできるものではないと思うからだ。それができると言うなら、殺人犯には殺した人間を生き返らせてみろ、と言いたい。と言っても、冤罪というものが存在する以上は死刑制度に簡単に賛成するわけでもない。死刑制度の話は、また別の問題だ。
なぜ人を殺してはいけないのか、ということを論じたいと思うのだが、それには落ち着いて考える時間的余裕と、そうした思索に自分自身を投入できるだけの精神的状態が必要なので、とりあえず、命は平等か、という問題だけをここでは提起しておく。
一つだけ言えるのは、自分の命と自分の家族の命は、世界中の他の命に優先する、というのが一般的な人情だろう、ということだ。ただし、それが正しい考え方だというわけではない。我々が自己犠牲の物語にほとんど必ず深い感動を覚えるのは、そういう本能的生存欲や動物的肉親愛以上のものが、人間世界にはありうる、ということを無意識に感じているからだろう。


(以下引用)*くだらないコメントもたくさんあるが、カットせずに転載しておく。


医者「命は平等というのは建前。すでに命は平等じゃない」


 
(i)
 
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1 ななし 2015/02/08(日) 10:38:32.92 ID:PEvo8ujj0.net ?PLT(12121) ポイント特典
「能率的に死なせる社会」が必要になる 建て前としての"命の平等"は外すべき
東洋経済オンライン2015年2月8日(日)10:10

自己決定の尊重という大原則が医療現場を、そして患者本人をも縛っている。人間の死と日々向き合う医師がただす大いなる矛盾と、逡巡の先に到達した着地点。『医師の一分』を書いた里見清一氏に聞く。

(中略)

――日本では対応能力が限られる中、今後高齢の死者が急増します。

命は平等かという問題について、私も揺れ動いてるところはあります。ただ建前としての“命は平等”というのはもう外してもいいのかな。現実問題、すでに平等じゃない。

救命センターの研修医時代、パンク寸前で受け入れ制限せざるをえなくなったとき、指導医はこう指示しました。労災は受ける、自殺は断る、暴走族の“自爆”は断る、子供は無条件に受け入れると。僕もそれを正しいと思った。現実的に命に上下は存在すると思っている。老衰の人に点滴して抗生物質使って、無理やり生かしてどうする? はたしてそれがいいんですかね? 貴重なベッドを老衰患者でずっと塞いでしまうことが。

――医学的な重症度以外に、社会的な価値も考慮に入れるべきだと?

実質的にはみんなそう思ってやっています。家族に「もう歳だからあきらめる」と言わせて、あくまで家族の選択として苦痛だけ取ってお見送りする。医者は患者の価値を決めちゃいけないと建前上なってるから、家族にそう言わせてるだけです。

90とか95の老人をさらに生かす見返りに、働き盛りの人にあきらめてもらうのは、やっぱりおかしいですよ。アル中で肝臓悪くした親父が子供や嫁さんからの肝臓移植を希望する。好き勝手した人間がそこまでして長生きしたいと言う。敏感な人が遠慮して身を引き、鈍感な人がのさばるなら、それはもう不公平でしょ。生きたいという意志を無条件で尊重しなきゃいけないかというと、できることとできないことがある。

――矛盾と疑問だらけの現実に、今後どう対処していくのでしょう。

僕が役人だったら、能率的に死なせる社会のことを考えますよ。だってそうしないと間に合わねえもん。

ただ現場の医者として、それは怖い。この患者はここまで治療すればOKという明確な方針で進めてしまうと、僕はナチスになりかねない。自分はがん専門だからまだラクで、慢性腎不全なんか診てる同僚は大変ですよ。90歳で判断能力もない患者を押さえ付けて透析して点滴して、もう10年やってるから今さらやめるわけにはいかない、家族も決められない。今日び医者は訴えられるのが怖いから、逃げにかかって延命措置をする。

――結局、誰かがどこかで線を引く日が来るのでしょうか。

誰か考えてるんですかね? たぶん左右両極端には行けず、宙ぶらりんのまま状況見て、多少右へ左へってことをやっていくんだと思う。それとも何とかなっちゃうんですかね。今では孤独死を、それでもいいと思う人が増えてるように、日比谷公園で一晩に3人5人死ぬことに慣れちゃって、そんなもんだと思うようになれば、キャパうんぬんも何もどうとかなっちゃうのかもしれない。

仮に医者が安楽死させるなら、良心の呵責(かしゃく)に苦しみながらやるべき。自分を守るためにガイドラインを作れ、法律で決めてくれというのは違うんじゃねえかな。今の国会議員に僕は人の命なんか決めてほしくねえや。結局、今そこで患者を診ている医者が、引導を渡す役を引き受けるしかないんじゃないですかね。
http://news.goo.ne.jp/article/toyokeizai/entertainment/toyokeizai-59971.html

2 ななし 2015/02/08(日) 10:41:34.74 ID:u8OxOBC40.net
脳死判定が恣意的になったりするんだろ
怖いわ

9 ななし 2015/02/08(日) 10:44:44.37 ID:Unv7baNO0.net

11 ななし 2015/02/08(日) 10:45:05.40 ID:aCk/EQmH0.net
建前無い社会は殺伐としちゃうよ

13 ななし 2015/02/08(日) 10:45:53.55 ID:0/A084S80.net
それはあるが医者が判断する領分ではない
その程度のこともわからないバカ

14 ななし 2015/02/08(日) 10:45:55.36 ID:IAa4eNKH0.net
確かに同じ年齢でも会社経営者とフリーターじゃ
どっちに価値があるか明確だしな

41 ななし 2015/02/08(日) 10:56:19.62 ID:wmftilAg0.net
>>14
23歳フリーターと23歳経営者
俺ならフリーターを助けるね

43 ななし 2015/02/08(日) 10:56:58.00 ID:iWPQDUUo0.net
>>41
なんで?

66 ななし 2015/02/08(日) 11:08:01.80 ID:2ujcTdjn0.net
>>43
マイナスの価値
なにも金銭換算することばかりが能じゃない
23歳の経営者って胡散臭い方が確率的に高い
真面目な自営なら別としてね

91 ななし 2015/02/08(日) 11:18:12.86 ID:Z7mTgPvI0.net
>>66
一理ある
悪どい方法で稼いでる奴はむしろ害悪や

177 ななし 2015/02/08(日) 11:57:05.13 ID:vgc39l9t0.net
>>66
ひねくれ過ぎて気持ち悪いな

180 ななし 2015/02/08(日) 11:57:24.72 ID:yYJytCJN0.net
>>66
だが医療費を回収できるのは23歳経営者

18 ななし 2015/02/08(日) 10:47:03.08 ID:pmZX1hTD0.net
だれもが思ってることは
俺の命が最優先!
だよね

20 ななし 2015/02/08(日) 10:48:53.70 ID:bmaKY/CH0.net
もう、というか近代化の時代だからこそ
建前は必要なんだろうが

27 ななし 2015/02/08(日) 10:51:04.87 ID:Rh1O9fFt0.net
まあ、自殺未遂とかは完全に後回しで良いかなとは思う

28 ななし 2015/02/08(日) 10:51:07.84 ID:ThKjUWq1O.net
こんなこと言うヤツは医者として下だな

31 ななし 2015/02/08(日) 10:52:21.47 ID:1sBu+N710.net
金銭的価値だろ?
そりゃお金を持ってる人が多く医療費を払えるに決まっている
でも金銭に全てを集約して考える考え方もどうなのかな

34 ななし 2015/02/08(日) 10:54:02.10 ID:/12R0qYA0.net
これは医療スタッフ誰でも思う事
酒飲んで暴れて大怪我しておいて勝手に救急車呼びやがって!
こなくていいんだよてめーら

35 ななし 2015/02/08(日) 10:54:48.64 ID:ThKjUWq1O.net
アル中は精神病だ
アルコール含め薬物依存ってやめたくてもやめられないから問題なのに
好き勝手やってるとか医者のくせによく言えるな

125 ななし 2015/02/08(日) 11:36:29.40 ID:LNv1PbMK0.net
>>35
やめたくてもやめられない状態になったのは本人の問題だろ
大半の人間はそうはならないから

128 ななし 2015/02/08(日) 11:39:11.54 ID:ThKjUWq1O.net
>>125
じゃあなんでアルコール依存症専門外来ってのがあるんだよ

144 ななし 2015/02/08(日) 11:43:03.19 ID:ljgvxl4T0.net
>>128
放置すれば社会的損失になるから

148 ななし 2015/02/08(日) 11:44:35.15 ID:UcaVgGSa0.net
>>128
金に成るからだよ

38 ななし 2015/02/08(日) 10:55:22.25 ID:5R+I/gaP0.net
高給取りエリートとニートでは命の価値が違うのはあたりまえ

39 ななし 2015/02/08(日) 10:55:47.92 ID:ITHo6C1p0.net
だけど医者がいうことじゃないな

42 ななし 2015/02/08(日) 10:56:24.41 ID:4V82t/jj0.net
>>39
むしろ現場の意見しか説得力無い

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悩むことの意義と無意義

「岩下俊三のブログ」から転載。
私は、親と子はまったく別個の存在と思っているし、子供の犯罪に親の責任があるとは思わないので、この文章を掲載したのは文章冒頭に書かれた中村本然氏のこととはまったく無関係に、「悩むことの意義」について考えてみるためである。さらに言えば、かなり前に、ある若者から社会(大人たち)に投げかけられた「なぜ人を殺してはいけないのか」という問題について考えるためである。
先に結論から言えば、「悩むことで(人格が)大きくなる」者もいれば、悩むことでノイローゼになり、鬱病になり、人格破産する者もいるというのが常識的な結論になるだろう。「みんな悩んで大きくなった」というのがたとえば旧制高等学校時代の若者(当時は知的階級の若者の多くは哲学的問題に悩むのが常だった。もっとも、一般庶民は別か。)の話だとするなら、彼らが日本を戦争に導き、日本を破滅させたではないか。
ついでに言えば、下の文章に引用された歌の「ソクラテスもプラトンもみんな悩んで大きくなった」は、テレビコマーシャルで野坂昭如が歌ったものだと思うが、私の記憶では「ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか、ニ、ニ、ニーチェかサルトルか、み~んな悩んで大きくなった」という歌詞であり、悩んで大きくなったのはソクラテスやプラトンではなく、ソクラテスやプラトンを読んで理解しようと悩む若者のことである。そして、果たして悩むことでみんな大きくなったかと言えば、私の考えでは、悩むことで大きくなる者半分、劣化する者半分、といったところだ。
で、今の若者は、悩むことなど馬鹿らしい、というのが大半だろう。「あれかこれか」の選択があれば、少しでも経済合理性があるのを瞬時に選び、快楽性の高いものを瞬時に選べばそれでいい、という思考なのではないか。(これを私は「実存主義」の一種と見ている。もちろん、「主義」ではなく、無意識的な、実存主義的思考、ということだ。)それは、テレビゲームなどで培われ、学校のテストや入試で培われた「反射神経的選択能力」であり、そこには悩むことの意義など最初から存在していないのだ。そして、それが果たして悪いことなのか、私は判断しかねているのである。というのは、私自身は悩み多き青春時代を送ってきた人間であり、その自分自身の人生前半を無価値だったとまで言うのはためらいがあるし、また、悩みの無い(幸福な)青春を送りたかった、という後悔もあるからだ。(トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」の中に、こうした「悩むように生まれついた者」から「悩まない(幸福な)人々」への憧れと羨望が見事に描かれている。もちろん、「悩まない」とは「物事を深く考えない」、ということである。)
話が長くなったので、「悩むこと」について簡単な結論を出しておく。
悩むことに意義があるのは、それが生産的な、前進的な思考である場合のみだろう。そして、「悩む」とは、通常は、実はそれが思考の堂々巡り、結論の出ない泥沼状態であることを意味する。(しかも、ほとんどが苦痛と悲哀を伴っている。)つまり、「悩むこと自体に意味がある」というのは、どんな滅茶苦茶なフォームであれ、球数を多く投げていればいい投手になる、という野蛮な時代のトレーニングのようなものではないか。間違った練習方法は、むしろ体を悪い状態(間違ったフォーム)に固定するものだ、というのが正しい理解だろう。悩むことによって思考が深化し、人間が大きくなるのではない。「考える」こと、しかも堂々巡りではなく、前進的に考えることでしか思考力は高まらないだろう。これは何十年もの間、考えているようで何一つ「考える」ことができなかった私自身の経験から言っている。「思考の堂々巡り」、これこそが最悪の習慣である。(言うまでもないが、これは「同じテーマについて考える」ことの否定ではない。思考が、毎度同じようにしか進展しないことを言っているのである。「同じテーマについて考える」ことは、むしろ大事なことである。それは優れた科学者や芸術家や哲学者の特質だろう。)

「なぜ人を殺してはいけないのか」については、いずれ気が向いた時にでも考えたい。たぶん、そこで「実存主義」(前出の歌の中のニーチェもサルトルも実存主義らしい。そして、石原慎太郎は自分自身を実存主義者だと規定している。)についての私の解釈も論じることになるかと思う。

岩下俊三氏の書かれたものを批判する内容になってしまったが、実はこの「実存主義」的思考が現代の若者の特質だ、と仮定すれば、そして石原慎太郎を(日本における)実存主義の旗手だとすれば、現代は無数の小石原慎太郎で溢れている、ということであり、中村桜州の事件はそれを如実に示したものだと考えることもできる。つまり、話の大筋では、私は岩下俊三氏と一致しているように思う。ただ、「悩むことの意義」という点ではかなり意見を異にする、というだけである。



(以下引用)



速報:紀ノ川小5殺害事件犯人逮捕

thumd4217
空海の研究では一目置かれていた僧侶であり、高野山大学の教授でもある中村本然氏がわが子を通して「図らずも」つきつけた日本の教育や社会の問題は
大きいと言わざるを得ない。

就職もせず(できず)親の家にひき籠って次第に変調をきたしている若者は決して特異な例ではない。高い教養と人格を備えた本然氏であろうともかかる建前だけの、デオドラントな見せかけだけの無臭な社会にあっては最も身近な息子ですら繋ぎ止め制御することが出来なかったのである。

しかも、

大手メディアは「人権」を盾にすべてを覆い隠し、本質的な問題提起から逃げようとするばかりである。すべてをさらけ出しているのは誤報も含めネットだけだ。これではほんとのNEWSを知ることはだれもできなくなってしまう。

メディアリテラシーの問題?バカ言ってんじゃない。単にビビってるだけだろうがっ!!

過日イスラム国に殺された湯川遙菜の死体の写真を教育の現場でつかった教師が教育委員会やPTAといった「デオドラント建前社会」の権化から糾弾されたけれど、人間の「死」というものがなんであるか、また「報道」とはなんであるかを鋭く問題提起して「考えさせる」ことは重要であると思う。

近年、「考える力」や「悩む力」をなくした子供(若者)が増えている。

四択に早く答える訓練しかしていないロボットを育成することには異常に熱心な親は「悩み考える」時間を無駄だとして直ちにメンタルケアの専門家を有難がる傾向にある。

問題にいち早く対処してどうする?問題の前で立ちすくみ躊躇するから、豊かな人間性がゆっくり醸成されていくのだ。

昭和に流行った不良のを思い出せ!


「♪ソソ、ソクラテスもプラトンも~みんな悩んで大きくなった」

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夜明け前の闇の中で

「ロシアの声」から転載。
こうしたまともな考えが聞けるのは、今やネット以外では非西側マスコミだけのようだ。そのネットも日本では情報操作と、政府に批判的なブログやサイトへの弾圧が激化しつつあるように見える。国会は今や「テロとの戦争」で大政翼賛会になりつつある。まったく、日本人というのは学習能力というのがないのか。
まあ、ボヤキはさておき、世界のテロ組織の活動やクーデターのほとんどは米国とイスラエルが背後にいることは、今や世界的な常識となりつつあるが、問題は、ではそれが常識となっても、それに対して何ができるか、ということがさっぱり分からないことである。だから世界はプーチンをひたすら頼みにし、彼なら何とかしてくれるのではないか、と彼に希望をつないでいるのだが、彼とて超人ではないし、まして神様ではない。少しだけ良い傾向が見えるとしたら、ここに来てEUの中からロシアに対して歩み寄りを見せる気運が生まれつつあるように思われることだ。ギリシアは言うまでもなく、フランスのオランドやドイツのメルケルもプーチンとの対話に前向きのようだ、という話もある。
世界はソ連崩壊から9.11を経てここまでの「米帝支配」(古いね、どうも)一辺倒でだけはなくなりつつあるようだ。
今の日本も世界も「夜明け前の闇」であると信じたい。


14:11

キエフ、ワシントンの支援をウクライナ人の血であがなう

キエフ、ワシントンの支援をウクライナ人の血であがなう

米国はウクライナ紛争の長期化を望んでいる。キエフ政権は米国のおかげで存在できている。その対価は、自国通貨が暴落しているので、ウクライナ人の血で支払う、ということらしい。以上のような、ポーランド人ジャーナリスト、ヤクブ・コレイバ氏による署名記事が、リア・ノーヴォスチのサイトに掲載されている。



ミンスク交渉は大失敗に終わった。ウクライナ南部・東部における流血の惨事がついに停止されるか、との期待は水泡に帰した。これでひとつのことがわかった。モスクワ以外だれひとり、戦争の停止を望んでいないのだ、ということ。欧米もウクライナ政府も、戦争の終結を望んではいない。彼らの行動そのものがそのことの証拠だ。むしろ戦争を、自分の政略に利用しようとしている。


キエフは戦争を終結させることが出来るのである。まずは命令一下、戦闘行為を停止させ、ついで諸地域と交渉を行い、国の未来を決めていく。簡単な二者択一だ。妥協するか、それとも、物理的に弱らせることによって、相手の立場を変えさせるか。紛争のこの半年の経過を見るに、キエフは緊張緩和に努めてはいない。和平の光明が見えたと思うそのたび、キエフは懲罰作戦を再開した。


何を隠そう、キエフではいま、まったく新しい国家イデオロギーの建設が進んでいるのである。ウクライナという国家の文化的存立基盤の根本的変造である。ウクライナ東部市民にとってはただでさえ容認しがたい、クーデターを出発点とする政権の上に、全く合法的とは認めがたい国家機構が樹立されようとしているのである。


キエフが戦争終結を望まない以上、流血の惨事の停止という重責は、国際社会の肩にかかる。その筆頭は、ウクライナにおける「民主主義の強化」に50億ドルを「融資」した、かの米国である。今やウクライナに対し政治的・また技術的影響力を持ち、ウクライナを平和への途に赴かしめることが出来るのは、ひとり米国のみである。問題なのは、ウクライナで戦争が続くと、世界における米国の覇権が強化される、という構造があることである。米国の国家戦略についての深い洞察で知られるジョージ・フリードマン氏は言う。「米国には、戦争で勝つことなど必要ではないのである。必要なのは、戦争によって、地政学上のライバルに問題を抱えさせ、その潜在力の開花を妨げることだけだ」。


米国はここ10年、ロシアの経済的台頭を、また、時を追うごとに「頑固さを募らせていく」、つまり独立性を高めていくその外交政策を、警戒心をもって観察し続けた。国家戦略の立案を担うものたち、政治工学者たちは、このままではまずい、「国際関係における独立した引力源たるロシアは、無力化されなければならない」と考えられるようになった。そのためには、ロシア国境に戦争を起こすのが一番いい。主要な貿易相手国における、難民の大量発生、人道危機、経済破綻、これにまさる物はない。


膨大な資本投下と工作によって米国は戦争の扇動者たちを大統領・首相・将官の席につかせた。紛争が長期化し、血みどろになればなるほど、この「遠くの」、そして「小さな」戦争に、ロシアはどんどん資本を奪われ、「ビッグ・ポリティクス」にはますます手が回らなくなる。それが米国の狙いである。


今やノヴォロシアの側さえ、紛争終結を望んでいない。ドネツクもルガンスクも、キエフの現政権が続く限り、自分たちに政治的未来はない、どころか、物理的生存さえ危うい、そう理解している。


ウクライナ紛争の終結は遠い。もはやとうの昔に、国内の特定の地域の地位うんぬんの話ではなくなっているのである。ウクライナも、ウクライナ国内の諸権力も、グローバル規模の仁義なきチェス・ゲームに組み込まれてしまっている。ワシントンのグランドマスターが東欧の歩兵にチェックをかけている。その最終目標はモスクワ陥落だ。


ワシントンはウクライナ人が最後の一人になるまでモスクワとの戦争をやめない。そのことを、ヤツェニュークもポロシェンコも理解していない。


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マスコミとネット界に吹き荒れる情報弾圧の嵐

「大摩邇」から転載。「つむじ風」の記事に引用されていた記事らしい。
さて、ネットに存在するあらゆる「真実の情報」をすべて弾圧し、消し去ろうという日本政府の試みは、それをやればやるほどそれらの情報が真実であったことを浮き彫りにするものだ、と私は思っている。まあ、ご苦労なことである。
今は戦前なのか、それともすでに戦中なのか。
茶色の朝がすでに来ていることだけは確かなようだ。


(以下引用)


【転載開始】2015年2月5日木曜日

日本政府 テレビ朝日のYoutubeチャンネル「重大な違反」で全ての動画削除

 
http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/363741/

 YouTubeでテレビ朝日のニュース映像を配信する「ANNnewsCH」が4日、一時アカウント停止状態になった。サイトでは「YouTubeのポリシーに複数回のまたは重大な違反をしたため、このアカウントを停止しました」というメッセージが表示され、これまで公開された動画など一切表示されなかった。

 YouTubeのポリシーでは、「生々しい描画や暴力的なコンテンツ」について「状況に関する説明や教育的な情報が示されていなければ、それは過激な映像と見なされてサイトから削除される可能性があります」としている。

 同チャンネルのどの動画が「ポリシー違反」に該当したのか不明だが、「イスラム国」関連の処刑シーン(の一部)が問題視された可能性がある。

 同日午後4時ごろ、復旧した同チャンネルでは「『イスラム国』日本人拘束・殺害事件」だけでなく全ての動画が削除されていた。


湯川のニセモノ外人首切り写真をYoutubeにアップした際に、私のYoutubeアカウントが2週間、停止にさせられて、未だにReptilianIsRealのアカウントではYoutube自体が見れなくなってますが、日本政府ってやる事が汚いですね。
 
あのフェイクな首切り映像を、なるべく国民に見られないに、あちらこちらにプレッシャーを掛け、消しまくっているんですよね。日本政府がニセモノの合成写真で、国民を脅かして、戦争に邁進しようという魂胆がバレたら日本政府はお終い。
 
嘘をテレビで何百回も流せば真実になる。テレビでくだらないシナリオ付のお涙頂戴劇をして、クライシス・アクター達を英雄の様に褒め称え、「後藤さんは世界的な勇気のあるジャーナリスト」などと持ち上げ、英雄扱い。この首切り劇にご出演の方々は、すべて日本人ではなく、在日朝鮮人(もちろん特権爬虫類人達)だというではないか。
 
後藤も湯川も、犯罪組織日本政府のエージェントだったという事を、国民の皆さんは知らされるべきだし、すべての国民が、あのくだらない合成でできた首切り写真を見るべきですね。湯川の写真は、湯川では無いのは100%確かだし、後藤の首切りに関しても、まったくの無血の首切りごっこだった。
 
ではなぜ、日本政府がテレビ朝日に報復したのか?
それは下の記事に対して、日本政府が激怒したからだ。
 
 

背景の砂漠に人物後付けか 

               人質映像を専門家解析 「イスラム国」事件

 
イスラム過激派組織「イスラム国」がインターネット上で公開した映像を筑波大学システム情報系の蔡東生(さいとうせい)准教授(55)が独自に解析したところ、人物の映像がそれぞれ背景の映像に後付けで合成された可能性が高いことがわかった。
 
この情報は、日本政府にとって非常にヤバイ記事だ。なぜなら警察庁科学警察研究所が、「写真が合成された痕跡は一切無し」と断定した事になっているからだ。朝日デジタルが載せた記事により、警察庁科学警察研究所が嘘をつき、国民を騙した事がバレバレになり、日本政府と警察も含めて犯罪組織という事が露呈してしまった結果となった。
 
 
この点に関して日本政府は、緊急閣僚会議を開き、何とか朝日テレビに罰則を課そうと企んだ。この緊急閣僚会議では、もちろんわたくしReptilianIsRealがアップした湯川の首切り外人コラビデオに関しても、罰則を課する事を決めたらしい。
 
内閣が一番危険と指定しているネット暴露組織またはブログは
1.テレビ朝日
2.東スポ
3.宇宙への旅立ち
4.さゆふらっとまうんど
5.飯山一郎
 
なぜかリチャード・コシミズのブログは、内閣が指定する危険ブログには指定されていなかったという。ジャパン・ハンドラーのエージェントのベンジャミン・フルフォードが、しっかりコシミズをコントロールしているからだ。ただ、彼のブログに張り付いている何人かの危険コメンテーターに関しては、これからも監視していく事で一致したらしい。
 
その他、小規模なブログは、記事だけでなく、ブログそのものも消されてしまったところもあるという。
 
ハッキリ言って、合成首切り処刑コラがみれるのは、現在、私のブログのみに近い状態になっている。ほとんどのブログ管理者達が、日本政府による報復を恐れて合成首切り処刑コラを載せない、または載せても消してしまったところが多い。
 
 
これからも犯罪組織の日本政府は、Youtube、そして危険ブログを監視し、自分達の嘘を隠蔽し続けるだろう。


そして私達は、日本政府からの情報弾圧テロに決して屈してはならない。日本政府からの情報弾圧テロに対して、断固として立ち向かう姿勢が大事だと肝に命じるべきだ。消費税も含めて、日本政府による横暴を許してはならない。
 
日本人を騙す日本政府に抗議の電話を!
 

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「後藤健二」教の邪気

「世に倦む日々」から転載。(冒頭部省略)
素晴らしい記事である。今の日本を覆う狂気じみた「後藤健二」教の邪気を払う清涼剤だ。


(以下引用)



けれども、安倍晋三に対する批判の自粛などよりもはるかに巨大で圧倒的な同調圧力が、事件発生後のこの国を覆っていて、それに誰も抗えなくなっている現実をわれわれは見落としていないか。それは、後藤健二に対する批判と考察の禁忌であり、昨年10月末の後藤健二の不審な行動経過に対する検証の自粛だ。私は、事件直後の早い段階から、このような思想状況になることを危惧し、後藤健二に対する英雄視や神聖化の動きに警戒警報を発してきた。果たせるかな、マスコミによる後藤健二への美化と礼賛の怒濤は収まりを見せず、連日連夜、これでもかと洪水のように押し出され、同じ映像とコメントがニュース番組を埋め、後藤健二は神格化されて行った。「後藤さんは常に子どもに寄り添った」「弱者の味方だった」「戦争で傷ついた子どもを支援した」、このフレーズが幾度も幾度もテレビから流され、同じ映像が使われ、事件についてのテレビ報道は、真相を解明したり追跡したりするものではなく、後藤健二を絶賛するもの一色に染まった。特に、殺害された2/1以降は際立っていて、今や後藤健二に対しては尊敬と共感の言葉以外は言えない環境になっている。疑問を差し挟む余地のない、絶対的な無謬の英雄として仰ぐしかない空気が醸成され、それが固まってしまった。

後藤健二を崇拝する同調圧力は、マスコミ以上にネットが強烈で、それも左翼方面ほど熱狂的に昂奮していて、まるで、後藤健二の悪口を言う者を見つけて制裁する自警団が組織されているかの如くだ。イスラム国のラッカと同じ恐怖の言論統制。この空気が国民全体でセメント化されると、最早、どれだけ10月末からの後藤健二の不審な行動を検証する情報が出てきても、誰もそれを信用しなくなり、頭から論外なデマだと決めつけて切り捨ててしまう状況になる。偉大な神である後藤健二を相対化したり、そのシンボルに傷がつくような情報は、たとえそれが信憑性のあるものでも、主観的に無価値と即断されるようになり、見向きされなくなってしまうのだ。今、日本国民は後藤健二を自己と同一化する心理状態になっていて、無条件に肯定して帰依することが当然な態度になっている。本来、10/22-29のたった一週間で湯川遥菜を連れ戻す計画はおかしいし、10/25-27のイスラム国潜入で、湯川遥菜と接触して安否確認した上でラッカを取材撮影して帰還するなどあり得ない。個人の力で、単独のスクラッチで、2泊3日の短期工程でそこまでの成果を上げることは不可能だ。資金を出し、イスラム国とコンタクトして日程を調整し、プロジェクトを企画差配した者がいて、後藤健二はミッションとして役割を演じている。

つまり、政府(外務省とNHK)による派遣工作員説だ。だが、そうした合理的な推理と試論は、この国の国教となった後藤健二真理教の前では、全く無意味なデマとして排斥され、神である後藤健二への冒涜や暴言とされて非難され、仮説としてさえも言論の居場所を失う事態になってしまった。まるで、イスラム教徒がモスクで集団礼拝するように、全員が同じ方向を向き、全員が揃って信仰の拝跪を繰り返している。毎夜毎夜、NHKの7時と9時のニュースで、10時からの報ステで、その教義が刷り込まれ、国民的確信と信仰が固められている。私にはこの現象がファシズムに見え、例の北朝鮮拉致報道とそこから醸成された社会観念と同じ異常な病理に見える。後藤健二は、これまで特に有名な「ジャーナリスト」だったわけではなかった。マスコミには何度か登場していたようだが、その顔と名前と活躍を知っていた者は少ない。後藤健二の過去の取材映像が、拘束後に溢れるほどテレビで反復放映されるが、それを見ても、基本的に平板凡庸で、特に評価をつけるものではなく、印象に残る報道営為ではないのだ。だから、私も過去の報ステで後藤健二の(シリアやイラクの)レポートを見ていたに違いないが、何も記憶に残ってないのであり、顔と名前を覚えてないのである。正直、スキルが高い「ジャーナリスト」とは思えない。

後藤健二の取材レポートを見て気づくのは、と言うより違和感を覚える特徴は、撮影している構図に、やたら自分(後藤健二)の顔を大きく入れて映していることだ。トルコの国境の町からシリア側(イスラム国側)を撮って説明する映像 - 報ステで放送されたもの - があるが、「向こうがイスラム国の支配地域です」という案内をするとき、カメラは一瞬だけ国境方面の風景を捉え、その後はずっと後藤健二の顔にフォーカスしている。「イスラム国の支配地域です」の音声とセットされている映像は、後藤健二の大きなアップの顔なのだ。自分の顔ばかり撮って映像にしている。車の後部座席から戦場になったシリアの町を紹介するレポートもある。「この町では」、と後藤健二は説明するのだが、撮影している動画は後藤健二のアップの顔ばかりで、車の外のシリアの町は映像として全く登場しない。自分ばかりを撮って映像にし、それをマスコミ(テレビ局)の報道素材に提供している。今、後藤健二が死んだ後だから、後藤健二を追悼して共感を煽るためにマスコミが使う映像としては、後藤健二が主人公として制作されているこれらの取材映像は都合がいい。しかし、本来、紛争地の報道でわれわれが見たいのは、現場を撮影したドキュメント映像であり、フリージャーナリストの姿ではないのだ。実は、この手法は後藤健二だけのものではない。

これも報ステで見たが、別の若いフリージャーナリストがシリア北部の戦場の町を取材したレポートでもそうだった。古館伊知郎と繋がった生中継で、町や人々の様子をカメラで捕捉しようとせず、ずっと自分の顔のアップを固定したまま動かそうとしない。町の絵を撮らず、しつこく自分の顔を撮る。何をやっているのか、視聴者としておおよその察しはつく。自分を売り込んでいるのだ。大手のテレビで顔を放送させ、少しでも有名になろうとしているのだ。売名と宣伝なのであり、戦争の現場は出汁なのだ。最近のフリージャーナリストなる者の、中東紛争地の取材というのは、一事が万事この調子で、それが慣例で常態になっていて、われわれは特に驚かなくなり、不自然や不都合を感じなくなった。だが、私は古い感性を維持していて、昔ながらのジャーナリズムの概念に拘りがあるため、こうしたフリージャーナリストの所作が耐えられないし、そのレベルの低さと志操の低さに呆れる。紛争地を取材する「ジャーナリスト」なりフリージャーナリストの表象と通念が、この国ですっかり変わってしまったのは、イラク戦争の頃だっただろうか。嘗てのそれは、本多勝一であり、岡村昭彦であり石川文洋だった。彼らの思想と行動の類型が戦場ジャーナリストだった。だが、それがいつの間にか、渡部陽一や山路徹の範疇に変わっている。お笑い芸人のテレビタレントに。

「フリージャーナリスト」や「戦場ジャーナリスト」の表象と通念がこの国で変わったから、今では、われわれはその営みに岡村昭彦や石川文洋のクォリティとレベルを求めようとせず、現地で自分の顔ばかり撮って売名と宣伝に勤しむフリージャーナリストに卑しさや怪しさを感じない。私の後藤健二に対する猜疑と隔意は、こうして、そもそも、この国の「ジャーナリスト」の言葉や現実に対する不信と拒絶から生じている。そのことをまず前提として申し上げ、そして次のことを言いたい。当Blogの読者の多くは、森住卓の業績と人柄についてよくご存知の方が多いだろう。森住卓。この名前が、後藤健二を考察する上でのキーワードだと私は直観する。森住卓。私の中では、岡村昭彦や石川文洋や福島菊次郎に連なる範疇の一人であり、理念的なジャーナリストの存在だ。森住卓、この名前を聞いてピンと来る者はいないだろうか。後藤健二は森住卓の模倣ではないのか。湾岸戦争のときに米軍がイラクで使用した劣化ウラン弾、それによって白血病になった多くの子どもたちがいて、森住卓が現地を取材して秀逸な報道作品に仕上げた。「イラク・湾岸戦争の子どもたち」。その写真の感動を忘れた者はいないはずだ。後藤健二の仕事の履歴を見ると、ほとんどがイラク戦争より後のもので、JICAと日本ユニセフのコネクションのものだということが窺える。二人目の(現在の)妻と関係する。

森住卓の作品はヒットした。非情で冷酷な言い方になるが、戦場の子どもたちの健気な表情は売れるのだ。この退廃した日本で、その感動はビジネスになる。さて、森住卓の次にもう一人の「ジャーナリスト」の名前を挙げよう。山本美香だ。シリアで反政府軍に騙されて殺害された山本美香。彼女は正直なところがあり、こんな本音を漏らしていた。それは私の記憶にあり、ネットの検索で証拠を掘り出せるか自信がない。その本音とは、一つは、危険な「戦場ジャーナリスト」の仕事は、食べていくためにやっている稼業であり、これをするしか自分には生きる道がなく、収入を得る職業が他にないから、だからやっているのだという告白だった。崇高な正義感とか、平和のためにとか、戦争で苦しむ子どもを救うためとか、そういうのは本当は飾り文句で二の次なのだと、そう語っていた。もう一つ、真実を証言していた。私は女なので、子どもは安心して打ち解けてくれ、被写体になってくれると。カメラの前で表情を綻ばせてくれると。山本美香は、自身の仕事の偽善性に対して正直な態度を持った人間だった。後藤健二の真実を考えるとき、山本美香の告白は参考になる。日本のいわゆる「戦場ジャーナリスト」たちは、どうして戦場の子どもたちを追いかけて撮るのか。理由は二つだ。一つは、それが大きな需要と市場があるからであり、もう一つは、子どもを被写体にすれば戦場でも自分自身が安全だからである。

最前線で戦闘を追いかける戦場ジャーナリストには身の危険が及ぶ。銃弾が当たる心配がある。しかし、子どものいる場所では銃弾は飛ばない。子どもを撮るのは安全だからだ。自身に身の危険が及ばないからだ。それでいて、子どもの写真は喜ばれて売れるのだ。カネになるのだ。危険がなく商売になる。これほど効率のいい「戦場ジャーナリズム」は他にないのだ。そしてまた、子どもを撮る「ジャーナリスト」は、山本美香にせよ、後藤健二にせよ、マスコミと世論によって聖人のように崇められ、立派で偉大な人間だと称賛される。だが、森住卓と後藤健二には全く違う点がある。二人の異なるところは、森住卓の場合は、作品の中に自分を主人公としてデカデカと構図化しない点である。

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ギリシア政治経済情勢についての或る論評

「谷間の百合」ブログに、素晴らしい文章(同ブログ愛読者のコメントらしい)があったので転載させてもらう。これほどの知性と良識と「本物の」知識を持った人は、マスコミなどにはほとんどいない。まさに、野に遺賢あり、である。こうした読者がいる、というのも「谷間の百合」さんの人徳だろう。


(以下引用)



以下、「コメント」(by machidanooka)から転載。

財政基盤の弱いギリシャの国債は、欧米金融・投機筋の標的となり、たびたび財政危機に陥った。

政府(他国同様二大政党・財界・エリート層が握っている)は、そのつど欧米金融資本(ドイツ主導のEU,ECB,英米系のIMF)の財政支援を仰いできた。

この援助は緊縮財政と国有企業・国家資産の民営化(海外の投資家が国家資産を安値で買う)を条件に貸し出されるのだが、融資の半分は国債の金利払いに、残りの大半は国内銀行救済資金に充当され、ギリシャ政府と国民の救済に回る資金は一割強にすぎなかった。

つまり国民は緊縮財政を余儀なくされるが、融資の多くは米英などの投資家が以前に貸した資金に対する利払いとして投資家に戻ってくるという構図である。


こうした「援助」のスキームにノーを表明、左翼シリザと右翼の独立ギリシャ人党は「緊縮策を中止する」という一点で共闘し、選挙民はこれに賭けた。

左翼と右翼の提携は例がなく、議会と首相を失ったとはいえ司法・検察・マスコミは依然二大政党・財界・エリートの手中にあり新政権の前途は予断を許さない。


が、2大政党制(二党談合)の外側にいた勢力が政権を取り、従来の財政支援のスキームは結局のところ国民にはプラスしないと明言したことは、同じ問題を抱える南欧諸国に強いメッセージとなる。

首相に指名されてからもネクタイ着用などしないツィプラスは、(私などには胸のすく)果敢な動きを見せている。

曰くギリシャはNATOから手を引く。

EU理事会では、ロシア経済制裁の強化に反対した。

ウクライナ問題は米英・NATOの自作自演と知りつつ米英追随を断ち切れぬEU指導者たちに在って、ギリシャが初めてまともな見解を示した。


政権が最初に面接したのはロシア・中国大使だった。

これは、今後ギリシャは米英支配グループには属さず、ロシア・中国、Brics経済圏を重視するということだ。孤軍奮闘するプーチンに加勢する国が一つ増えた。


「借金国の分際で何を勝手いうか」今後はEUの実力者・独のメルケルとのつばぜり合いとなるが、ツィプラスは、独はナチ占領時の補償を実行していない。

現在ギリシャが負っているドイツからの支援額2540億ユーロをこれで相殺しようと先制パンチをかました。

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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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