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月と受験数学

今朝の散歩の浮遊思考はあまり面白くもないので、最初のあたりだけ書く。
未明に家を出ると、珍しく月が出ていた。珍しくというのは、ここ数日は曇り空だったので、月が見えなかったのだ。おそらく旧暦20日前後の月だろう。(今確認すると、旧暦1月19日である。)で、月の周りに雲が多かったせいか、古文で読んだ「月も雲間の無きは嫌にて候」という言葉を思い出し、なぜ「雲の無きは」ではなく「雲間の無きは」なのか、と考え、これは「雲間の無き空は」あるいは「雲間の無き月は」だろうかな、と考えた。つまり、空一面晴れ渡った状態の月は、味わいがない、ということだと思う。言い方を換えれば、「雲間から出る(見える)月こそが面白い」という風流趣味かと思う。
たぶん、上に書いた言葉は「徒然草」だったと思うが、より有名なのは「罪無くして配所の月を見ばや」という、趣味性の極致のような言葉だろう。「~ばや」は「~したい」という意味。しかし、ここで屁理屈を言えば、罪があるからこそ、配所(流刑地)の月に凄愴な趣が出るのではないか。美しい月との対比で、「自分は都に戻れないかもしれない」という悲哀感が高まるという、そこにこそ「配所の月」の意味がありそうな気がする。

どうでもいい話で長くなったので、より重要性の高そうな話題は簡単に書く。
それは、「あらゆる知識は『理解などする必要はない』、使えればそれだけでいい」という考えである。特に受験勉強はそれで、テキストや参考書に書かれたことを「理解しようとする」から、膨大な時間が無意味に消費され、結局何ひとつ物にできなくなるわけである。
たとえばあなたは、自動車について完璧な知識を持ったうえで、自動車を操縦するか? パソコンについて、あるいはスマホについて、そのシステムに関して完璧な知識を持ったうえで操作するか? 受験勉強も同じで、テキストに書かれた知識は、それを「問題を解く作業に『使えるか』どうか」が必須なのであり、それらの知識そのものを理解する必要などないわけだ。案外、生徒に教える教師たちも、理解していない可能性が高いと私は睨んでいる。何しろ、世界の天才たちが何百年もかけて研究し、ああでもないこうでもないと論争した上で確定した知識をなぜ平凡人(難関大合格者含む)が「理解できる」と思うのか。それこそ思い上がりであり、愚の骨頂だろう。
もちろん、覚えるために理解するというのは結構だが、それも程度問題である。まあ、理系科目では、それは基本的に不可能だろう。
私の兄の同級生は高校生のころ、当県で一番、数学の成績が良かった人物だったようだが、「数学は暗記科目だよ」と兄に教えたそうだ。それを言い換えたのが、上に書いた「理解する必要はない。使えればいい」ということである。ただ、私などは「理解できないと暗記もできない」という馬鹿なので、数学や物理や化学は最後まで大の苦手だったのであるwww
古文や漢文などは(現代日本語の親類だから)理解しようとしなくても自然に覚えたものだが。

(追記)物理が理解できないという受験生がスレ主のスレッドのコメントの一部。まあ、この教師も「理解」はしていないと思う。誤魔化しているだけではないかwww

理系がまったく苦手だった私が言うのも何だが、「理解」はしなくても「演習」は大事だろう。つまり、知識を「使用できる」ためには演習を重ねるしかないからだ。野球の「理論」を知っていても野球ができるわけではない。実地練習、つまり演習しか上達の道は無いのである。

どうでもいいことかもしれないが、「理解しずらい」は「理解しづらい」が正しい表記だろう。「つらい」が元だからだ。こういう細部をいい加減にしていると、「一事が万事」になる。もっとも、そういう覚悟の上での「いい加減」なら、それはひとつの人生哲学だが、受験では大きな欠陥になる。「受験知識は『理解』しなくていい」は「すべてにいい加減でいい」という話ではない。

13: 名無しのがるび 2022/09/08(木) 23:45:57.92
理解すれば簡単や



26: 名無しのがるび 2022/09/08(木) 23:49:00.72 ID:8ayTV0f00.net
>>13
今年新任の先生で演習とか全くせず教科書の長文をそのまま黒板に書いてベラベラ喋るだけだから理解しずらいんよ



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湯煙の立つや夏原 狩りの犬

私が、毎日の早朝の(と言うか未明の)散歩の時の浮遊思考を書いているのは、前にも言ったように、認知症(ボケ)防止策であるが、それ自体が私には面白いから、というのは言うまでもないだろう。それ以外の時の思考より、なぜか散歩の時の思考は、跡をたどりやすいのである。それは、一定の時間内の、だいたい同じ道筋をたどる歩行なので、歩く以外の動作をする必要がなく、周囲を眺める以外は思考が思考だけに限定されるからだろうと思う。
たとえば、前にも書いた(と記憶する)

湯煙の立つや夏原 狩りの犬

という俳句、あるいは駄洒落が今日はまた頭の中に浮かんだのだが、その経路は覚えている。
その直前に、頭の周りを蚊柱のような羽虫が群れて空中にあったのだが、「蚊柱」は「立つ」ものであり、しかも「」のようにぼんやりとしている存在だ。そこで、

立つや夏原 狩りの犬

という連想になったのである。その前に、出がけに準備したより暖かい気候だな、と途中で考えたのが「原」を連想させた可能性もあるし、その少し前に、犬を連れて散歩をしている中老人(中年から老人の間の年齢の男)とすれ違ったのが「」を想起させたのかもしれない。

ちなみに、「湯煙の」の狂句は、(私の記憶が確かなら)伊丹十三の「ヨーロッパ退屈日記」というエッセイ集に出て来るもので、実はプレスリーの「ハウンドドッグ」の歌詞の駄洒落である。

You ain't nothing but a Hounddog

英語の音のyou ain'tを「湯煙(ゆえん)」に、「nothing but a」を「夏原(なつばら)」にし、さらに「湯煙(ゆえん)」を「ゆけむり」と読ませ、「夏原(なつばら)」を「なつはら」と読ませて、最後の「hounddog」を「狩りの犬」にして、全体を俳句風にしたものである。超絶的技巧だと私は思う。作者が誰かは知らない。伊丹十三本人だろうか。

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homelyという概念のこと

散歩の間ずっと、頭の中を流れていた曲があって、たぶん1970年代のヒット曲だと思うのだが、たいして好きでもなく、題名も知らない曲である。ただ、その単調さ、平凡さが散歩の歩調に合っていたのだろう。
その脳内演奏を聞きながら、頭の中にhomelyという形容詞が浮かんだのだが、その意味も私は知らない。起きる前に寝床の中で「いい加減読み」していた、J・M・バリーの「天晴れクライトン(原題は「賞賛に値するクライトン」と訳せるか。)の英語原文の中に出て来た言葉で、たぶん、文脈から想像すると「地味な、冴えない」の意味ではないかと思う。つまり、「公の場」に対する「home」だろう。で、なぜこの言葉が頭に浮かんだのかというと、私の頭の中の曲が、そのhomelyな印象で、homely rock 、あるいはsoft rockという呼び名が適しているのではないか、と考えたのだと思う。つまり、保守的な家庭の中でも「まあ、この程度なら」と許容されるロックというわけだ。
そんなのは「ロックじゃねえ」というわけで、ハードロックやヘビィメタルなどが生まれ、さらにパンクロックが生まれたのだろうが、それがロックの「進化」とは私には思えない、というのはどうでもいい話である。今ではロックそのものが消滅しかかっているのではないか。まあ、私はもともとロック嫌いの人間だから、どうでもいい。

で、homelyの話に戻ると、私の住んでいる家の庭に餌を貰いにくる猫群の中に、白いチビ猫がおり、下手クソに作った猫のぬいぐるみのようで可愛い。胴体も足も尻尾も寸詰まりで、顔もまあ、ブスの部類だろう。雌雄は不明である。しかし、その可愛い印象にはhomelyという言葉が似あう気がする、というわけだ。美猫コンテストにはまったく出せないが、可愛いわけである。もちろん、チビだから可愛いというのがその可愛さの大きな要素だろうが、それだけでもなさそうだ。
念のためにhomelyを、今、英和辞書で調べてみる。だいたい、こんな意味のようだ。
「1:飾り気のない、質素な、素朴な、家庭的な、2:平凡な、日常的な、 3:不器量な、顔のまずい」
ということで、ほぼ私の予測どおりであった。では、それがなぜ可愛さにつながるのかと言えば、やはり「親近感を抱かせる」や「同情や共感を抱かせる」からではないか。清少納言の「小さいものはみな可愛い」である。
ちなみに、私はアニメなどでも、美人キャラよりは「平凡顔」キャラに親近感を持つほうだ。嫌いなのはハンサム顔で冷酷なタイプの男である。もちろん、美人キャラでも性格が良ければ好きになるし、場合によっては美人で冷酷なキャラも嫌いではない。「未来少年コナン」のモンスリーのように、冷酷で有能な美人(悲しい過去がある)の敵キャラが、心を入れ替えて頼もしい味方になる、という展開などは最高である。

まあ、散歩の途中の浮遊思考は、そのほかに、「猫じゃらし(スズメノヒエクサ)」の美しさの考察など、いろいろあったが、長くなるのでこの辺にしておく。


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難関大学の解答欄の大きさの問題

見たいアニメがほとんど無い(「ダンジョン飯」とその他ふたつくらいしかない)ので、仕方なく実写ドラマを見ているが、「ドラゴン桜2」は面白い。今回など、まるで「女王の教室」のような政府(あるいは日本社会)批判があって、驚いた。東大など、この国を悪化させたエリートの巣窟ではないかwww しかし、確か原作漫画も東大卒の編集者がかなり原作脚本(あるいはプロット)に関与していたはずで、東大入試問題の特徴など、よくつかんでいる。
要するに「物事の本質」を把握する能力を見るというものだ。私は国語以外の問題は知らないが、国語の場合は「解答欄」があまりに小さいのがその特徴である。つまり、無駄なことはまったく書けないから、解答者がその問題の本質にいかに迫っているかが分かるわけだ。ただし、採点者自身が、「本質的模範回答」を作っているかどうかが問題で、赤本、黒本、青本など、出版社によって模範回答が違っていることも多いのが東大国語問題の特徴だとも言える。
そういう見方で言えば、最近のネットの、長いコメントに対する「3行で言え」という茶化しコメントなどは東大的だと言える。
まあ、テレビに出ている一部の言論人の、長くて何が言いたいのか分からないコメントには「3行で言え」が正しい反応だろう。意図的誤魔化しもあるし。
ちなみに、京大の国語は東大の正反対で、解答欄が異常に大きい。これは、その人間の思考や知識を多角的に見ようという、「親切な」問題作成姿勢だと思うが、採点者は大変だと思う。
ただし、ここに書いた入試問題の話は20年以上も前の話で、今でも東大や京大の問題がそういうものかどうかは分からない。細部では流行は追うが、本質は変わらないのが教育界だから、変わっていない気がするが。

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うちわたす遠方びとにもの申す

今朝の散歩の浮遊思考である。まあ、自分の思考を思い出すこと自体がボケ防止策のつもりだから、書く内容はどうでもいいのである。
最初に考えたのが、源氏物語の一節の、その中のある発言である。なぜそれを考えたのか、きっかけは分からない。(今思い出したが、散歩の最初に通りかかった家の庭に白い、匂いの良い花が満開に咲いていたのだった。)とにかく、頭に浮かんだわけだ。ただし、私は源氏物語は原文はもとより現代語訳も読んだことがない。覚えているのは、たぶん田辺聖子の「文車(ふぐるま)日記」からだと思う。田辺聖子の本も、まともに読んだのはこれだけだが、これは素晴らしい本で、すべての日本人が古典文学、特に女流古典文学への案内役として読むべき本で、読めば一生の精神的財産になる。
で、その中に源氏物語のある場面が紹介されていて、その中の登場人物(たぶん、光源氏か)が、夜中にある女性の家を訪ね、どこかの家の庭に咲いている白い花に気を惹かれて、その花の傍にいた人間にこう聞くのである。私の記憶のままに書くので、間違いがある可能性が高いが、こういう言葉だ。
「うちわたす遠方(をちかた)びとにもの申す それ、そのそこに咲けるは何の花ぞも」
何ということもない台詞だが、私がこれを読んだ時から今まで、そのだいたいを覚えているほど、この言葉が記憶に残っている。まあ、こういうのが精神的財産だ、と私は言うのである。今でも、闇の中に咲く白い花を見たら、たぶんこの言葉が胸に浮かぶだろう。(実際、そうだったことに後で気づいたのだが。)
「それそのそこに」という言葉のリズムが素晴らしい。しかも、心理的に自然である。最初は「それは」と言おうとして、次に「その花は」と言おうかと迷って、さらに「そこに咲いている花は」にしようかと迷い、一瞬のうちに「それそのそこに咲ける(花)は」となったのだろうと読む人に想像させる。こういう描写を無駄と思うなら、小説など読む必要はない。まあ、三島由紀夫が言うように、小説を読むとは「文章を(味わい)読む」ことなのだが、今の人は大衆小説しか読まないだろうし、大衆小説にまでいちいち文章を味わいながら読む人は多くはないだろう。

その後、暖かいので山道ではなく海岸の道を散歩コースに選び、視野の上3分の2は美しい朝空、下3分の1は鏡のような朝凪の海という素晴らしい景色を見ながら散歩し、その歩いている間に「朝日のように爽やかに」の曲が頭の中をスキャットで流れ、その歌詞のことなど考えたのだが、それは前にも書いた気がするので、ここには書かない。

*厳密に言えば、散歩コースを海岸道路に決めたのは最初からだったので、「白い花」の浮遊思考の後ではない。で、その思考の分析をしているのは散歩から帰って、ゴミ出しをし、庭猫に餌をやってからである。これもついでに言えば、私は「うちわたす」をどう現代語訳するのか分からない。私の古典への教養はその程度だし、書いていることのたぶん半分は妄想と誤解である。


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コスモポリタニズムのこと

昔のほうが、世界各国の文化が日本に輸入されて、今の「英語圏一極支配」のグローバリズム世界の中の日本よりも、よほど本物の国際性があったように思う。歌で言えば、シャンソン、ロシア民謡、ファド(ポルトガルの歌謡)、カンツォーネから、インドネシアの歌まで歌われていたのである。この「インドネシアの歌」とは、我々の年代には、「意味不明の歌詞」の歌として有名だった「ジンジロゲ」がそれであったはずだ。(曲は日本人の作曲かもしれないし、作詞もそうかもしれないが、言葉はインドネシア語のようだ。)あるいは、「モスラ」の映画の中でザ・ピーナッツの双子の小美人の歌う「モスラー、ヤ、モスラー」の歌も冒頭以外はインドネシア語だったと聞いた気がする。つまり、日本軍が「侵略した」東南アジアや中国の歌や言葉が日本に輸入されてもいたわけだ。戦争が、文化交流の面を持っていた、と美化する気はないが、自然とそうなるわけだ。
こういうのを、私は「グローバリズム」ではなく、「コスモポリタニズム」と呼びたい。グローバリズムが英語支配による世界文明の平準化・均質化であるのに対し、コスモポリタニズムは、各国の文化的個性、社会的個性を残したまま、平和に国際交流をするという思想だ、と、ここで定義しておく。ちなみに、「コスモポリタン」を訳すなら「世界市民」だろう。

などと書いたのは実は前置きで、先ほどの散歩の間に私の頭の中に流れていた歌があり、それは昔の「歌声喫茶」の時代に少し流行ったロシアかどこかの唄のようだ。題名は知らないが「泉に水汲みに来て」と、歌の冒頭の歌詞を題名としておく。
小学校低学年のころに聞き覚えた、うろ覚えの歌詞なので、いい加減な記憶で思い出せるかぎりで書いてみる。

泉に水汲みにきて
娘らが話していた
若者がここへ来たら
冷たい水あげましょう

緑の牧場に髭面の
兵士がやってきて
冷たい水が飲みたいと
娘たちに頼んだ

「美しい娘さん
髭面を見るな
兵士にゃ髭も悪いものじゃない
私は陽気な若者

ひと月もの戦いで
髭も髪も伸びたのさ
このむさくるしいなりを
娘さん許してくれ」

そこへ床屋の兵士がやってきて
「髭面みな集まれ!」
(以下忘却。当然、髭面の若い兵士が髭も髪も刈って美青年に早変わり、となって大団円だろう)


私がこの歌が好きなのは、この兵士の「このむさくるしいなりを 娘さん許してくれ」という、ジェントルマンぶり(女性への敬意)にある。西洋文明の精神のわずかな美点は、こういうところだ。それを偽善と言わば言え。善は偽善から始まるのである。









今、思い出したが、弘田三枝子の「悲しき16歳(原曲Too many rule)」の日本語版の中で、

Too many rule, too many rule

の部分を「夢見る、夢見る」(「早く大人になりたい~♪」と続く)と訳した(いや、換骨奪胎した)のは天才的だと思う。つまり、英語をそのまま使うのではなく、日本語の中に咀嚼する表現が昔はあったわけだ。これが、グローバリズムとコスモポリタニズムの違いだ、と言えば強弁だろうか。自国語や自国文化への誇りと自信を失わないままでの「世界交流」だ。
その一方で、「若年介護者」を「ヤングケアラー」などと欺瞞的に英語表現するのが、まさにグローバリズム的な英語の使用、あるいは電通的手法である。英語=カッコいいという、中二病心理の悪用である。そこには介護の苦労、若年介護者の忍従が隠蔽されている。


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「君の瞳に乾杯」

前に引用した小鷹信光の英語蘊蓄本の中に「カサブランカ」の例の「君の瞳に乾杯」の名セリフは誤訳だ、みたいな言葉が出て来るが、ズルいことに、「正しい訳」は何かは書いていない。
元の台詞は

「Here's looking at you」らしいが、さて、あなたはこれをどう訳すだろうか。

私の意見では、「君の瞳に乾杯」は、苦心の訳であり、名訳だと思う。
直観的な解釈だが、この台詞は

Here's something loooking at you

のsomethingを省略したもので、そのsomethingとは、グラスの酒を意味していると思う。
つまり、「酒が(飲んでほしいと)君を見ている」のだから、「君に乾杯」であるが、グラスの酒が「美しいあなたを見ている」のだから、「君の瞳に乾杯」は名訳だというわけだ。lookingという言葉が瞳を暗示しているということである。

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酔生夢人
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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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